第026話 ちゃんこ道場開講
肉に釣られた生徒たちが、一人、また一人と旧校舎の裏庭に集まり始めて数日。
そこは、奇妙な熱気に包まれた「野外道場」へと変貌していた。
「鍛錬していたら道場が生えた」と語っていた祖父の言葉を思い出すわね。
「腰が高い! それで地面の重力を感じていると言えるの!?」
「はいッ! 申し訳ありません姐さん!」
数十名の男子生徒たちが、一列に並んで屈伸を繰り返している。
彼らの顔色は、数日前までの青白さが嘘のように赤みが差し、死んだ魚のようだった瞳には、確かな生気が宿っている。
わたしは腕組みをして、その様子を満足げに眺めた。
「……やっぱり、わたしの仮説は正しかったわね」
「仮説、ですか?」
隣で屈伸をしていたギルベルトが尋ねる。
「ええ。この国を覆う……精神汚染の正体についてよ」
わたしは鍋から立ち上る湯気を吸い込んだ。
今日も最高の出来が期待できそうだ。
「あれは、心の隙間に入り込む寄生虫のようなもの。そして、その隙間を作っている最大の要因は……圧倒的な『栄養不足』と『虚弱体質』よ」
ラノリアの歪んだ食文化は、国民を意図的に「半飢餓状態」に置いている。
脳に栄養がいかず、体に活力が満ちていなければ、思考力は低下し、自尊心も育たない。
そんな「空っぽの器」だからこそ、ここまでの大規模な洗脳が容易に行えるのだ。
「だから、逆をやるのよ」
わたしは煮えたぎる大鍋を指差した。
「食欲という原始的な本能を刺激し、胃袋を満たす。すると脳が覚醒する。次に、摂取した栄養を鍛錬で燃焼させる。筋肉がつき、血流が巡り、全身に活力が漲る!」
「は、はぁ……?」
影魔法・闇魔法使いならぬギルには見えないだろうが、わたしには見えていた。
汗を流して屈伸に励む彼らの頭部にまとわりついていた黒いモヤが、彼らの身体が放つ活力の熱気によって次々と消失していく様が。
「ご飯ができましたよー! 今日の日替わりは『ピリ辛スタミナミソちゃんこ』です!」
ミリアの声が響く。
その瞬間、屈伸を終えた生徒たちが、涎を垂らして鍋に殺到した。
「うおおお! ミソだ! ミソの香りがする!」
「野菜が美味い! 肉が染みる!」
「ありがとうミリアさん! ありがとうございます姐さん!!」
彼らは鍋を囲み、互いに具材を取り分け、笑い合いながら食事をする。
そこにはもう、「聖女親衛隊」としての虚ろな狂信はない。
あるのは、仲間と共に汗を流し、飯を食うという、人間として当たり前の幸福感だ。
その光景を見ながら、ミリアがポツリと言った。
「……レヴィーネ様。あの方たち、以前はいじめに加担していた生徒たちですよね?」
「ええ。アリスの取り巻きの予備軍だった連中よ」
「でも今は、あんなにいい顔で笑っています。……これが、『救済』なんですね」
ミリアの言葉に、わたしは肩をすくめた。
「大げさよ。わたしはただ、自分の配下に『弱っちい奴』がいるのが許せないだけ。……ほら、ギル! あんたも食べて大きくなりなさい!」
「はいッ! いただきます!」
こうして、旧校舎の裏庭は、学園内で唯一、大規模洗脳の干渉を受け付けない「聖域」となった。
腹を満たし、筋肉をつけた彼らは、もう誰の操り人形でもない。
わたしの――最強の悪役令嬢の、自慢の「構成員」たちだ。
だが、そんな健全な光景を、快く思わない連中も当然いるわけで――。
「……見つけたわよ、異端者たちめ……!」
校舎の陰から、憎悪に歪んだ視線がこちらを覗いていた。
聖女アリスと、その側近たちだ。
彼女たちの目には、以前よりも濃い、ドス黒い光が宿っていた。
(……フフッ。お出ましね)
わたしはちゃんこの汁を飲み干し、ニヤリと笑った。
兵隊は育った。
準備運動も済んだ。
そろそろ、向こうから仕掛けてくる頃合いだ。
◆◆◆
ちゃんこ鍋で膨れた腹をさすりながら、ギルベルト王子は自嘲気味に笑った。
「……情けない話だよな。一国の王子が、異国の留学生に飯を恵んでもらって、裏庭で隠れるように身体を鍛えているなんて」
夕暮れの旧校舎。
遠くに見える王都の中央には、白亜の大聖堂が威圧的にそびえ立っている。
その高さは王城よりも頭一つ分高く、この国の歪な権力構造を象徴していた。
「仕方ありませんわ。この国にとって王家とは、教団の『飾り』に過ぎないのでしょう?」
わたしは紅茶を飲みながら指摘した。
「ああ。ラノリアは教皇を頂点とし、枢機卿、そして『聖女』が実権を握る宗教国家だ。僕たち王族は、せいぜい外交の窓口係……いや、教団の威光を借りて生き延びている寄生虫のようなものさ」
ギルベルトが悔しげに拳を握る。
ラノリア王国。
国土こそ小さいが、その国教である「ラノリア正教」の信徒は大陸中に数千万人とも言われ、聖地巡礼に訪れる者たちによって莫大な富と影響力を誇っている。
だが、その光が強ければ強いほど、落ちる影もまた濃い。
「……かつて、この国が『聖戦』と称して、周辺諸国を武力で蹂躙した歴史。……帝国の人間なら、知っているだろう?」
ギルベルトの問いに、わたしは静かに頷いた。
数百年前。
ラノリア王国は「救済の征旅」と称し、異教徒の教化を名目に周辺の小国へ侵攻を繰り返していた。
「神の愛を届ける」という美名の下に行われた、血で血を洗う略奪と征服。
それに立ち向かうために生まれたのが、我が祖国――ガルディア帝国だ。
「ええ、知っていますわ。当時、ラノリアの脅威に晒されていた数多の小国を、ある時は保護という名の併合で、ある時は力による蹂躙で、一つにまとめ上げ、鉄の防波堤を築いたのが初代皇帝陛下ですもの」
わたしは東の空――故郷の方角を見つめた。
「何を隠そう、わたしの故郷である東の辺境ヴィータヴェンも、魂の故郷である北の辺境ハニマルも、何十代か遡れば、それぞれが独立した小さな国だった時代もあるのです」
辺境伯という地位が、なぜ中央の侯爵と同等、あるいはそれ以上の軍事権限を持っているのか。
それは、かつて一国の主だった者たちの末裔が、帝国の盾として国境を守護する契約を結んだ名残なのだ。
東のヴィータヴェンは、常闇の森を隔てたラノリアの脅威に備え。
北のハニマルは、極寒の地の魔物と、海を越えてくる蛮族に備えて。
「だからこそ、わたしは『力』を求めるのよ、ギル」
わたしは立ち上がり、夕日に染まる大聖堂を睨みつけた。
「歴史は繰り返すわ。この国に蔓延る『精神汚染』……あれは、かつての侵略の現代版よ。武力ではなく、洗脳によって他国を侵略しようとする、卑劣な手口」
平和とは、次の戦争までの準備期間に過ぎない。
帝国と同盟を結びながら、裏でこそこそと工作員を送り込むラノリアのやり口は、わたしの祖先たちが戦ってきた敵そのものだ。
「そんなふざけた歴史、わたしが物理で断ち切ってあげる」
ギルベルトは、わたしの横顔を眩しそうに見つめ、そして深く頷いた。
「……ああ。僕も戦うよ。自分の国を、本当の意味で守るために」
歪な聖地で結ばれた、奇妙な共闘関係。
それは、かつて争った国同士の末裔が、数百年の時を超えて手を取り合う、新たな歴史の始まりでもあった。
「さあ、休憩は終わりよ! 屈伸追加五百回!」
「ひぃぃッ! 歴史の話をしてたのに、急に現実に引き戻さないでくださいよ姐さんッ!」
感傷は一瞬。
必要なのは、歴史を語る舌ではなく、未来を掴み取る筋肉のみだ。




