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ずいぶん遅かったね。アイツと会ってたの?

「悪いけど、もう俺のもんにするからね」

 そう言われ、思わず固まってしまった。


「とりあえず、その彼氏みたいな人、どうにかしないとね。……はい、スマホ貸して」

「い……いやいや、そんな無理だよ」

 とにかく、一秒でも早くこの部屋を出たい。

「あの、ほんとに今日はごめん、仕事の話もなかったことに」

 そう言って立ち上がろうとしたが、腕を強く引かれて制止されてしまう。


「こっち見て。川崎。俺はね、川崎を幸せにするよ。そんな顔させないし、大事にする。……今、その彼氏さんといて幸せじゃないんでしょ? だから、そんな顔するんでしょ?」


 顔を上げられない。何も言い返せない。


 本田君はハァ、と一つ息を吐いて続けた。

「その、さ、どんなやつなの? その人。そんな……微妙な感じでも一緒にいたい人なの?」


「……江口……亮介……」

 彼の耳に届いたかはわからない。が、かろうじて声になった。


「江口……亮介……? は? ……あの、高校の時付き合ってた? あいつ今度結婚するって……、は?」

 恥ずかしくて、怖くて、消えてしまいたかった。

「別に……私だって、不倫したいわけじゃないし、ちゃんと、もう終わりって話もして……、でも、来るから……」


 自分で口にしながら、なんて言い訳がましいんだろうと嫌になる。しょせん、私はそういう女だ。


 彼の口から出たのは、深いため息と沈黙。きっと軽蔑している。私だってこんな自分が嫌いだ。でも、どうしても、動けなくなってしまう。


「――だめ。だめだね。あいつももちろんだめだけど、川崎もだめだよ」

 長い沈黙のあと、本田君はそう言った。

「川崎、こっち見て」

 固く握った私の手が、彼の少し骨ばった両手に包み込まれた。

 自然と、彼の瞳に目が吸い寄せられる。

「自分で、分かってるでしょ?」

 穏やかに語りかける彼の目には、少しの軽蔑も混じっていなかった。ただ、真剣に諭される。

 言葉も出ず、ゴクリと唾を呑み込む。

「……よし、じゃぁ……スマホ、貸してみ?」

 もはや抵抗する気もなく、ロックを解除してスマホを手渡す。

「え~っと……りょうすけ、ね。ちょっとここにいて」

 そう言うと、彼は事務所の扉を開けて外に出て行った。


 目の前に転がっている食べかけの総菜パンに、意味もなく視線を向ける。

 何も、考えられそうにない。ただぼーっと目を開けていた。


 5分ほど経った頃、事務所の扉が再び開いた。

「もうあいつから連絡はこないし、連絡先も消してあるから」

 はい、とスマホを手渡される。


「でも、川崎の家、あいつ知ってるんだよね?」

「……うん」

「じゃあさ、俺んち来なよ」

「いや、それは……!」

 突然そんなこと言われても、と返そうとしたが叶わなかった。

 両肩をグッと押され、体がソファに沈み込む。

「どうするの? あいつが来たら」

 目の奥をのぞき込むように、まばたきもせずに見据える目。

「……ッ」

 その目に耐えられず、思わず顔をそむける。

「ちゃんと、拒絶できる? こんなに流されやすいのに。心配だよ。俺は」

 耳に触れるか触れないか、ぎりぎりの位置でそうささやく。優しく穏やかな声だが、そこに孕んだ熱を感じ取らせようとする意図をはっきりと感じた。


「……ねぇ、待って。本田君も、ヤリたいだけ?」


 不意に視界が明るくなった。覆いかぶさっていた本田君の体が離れたのだ。

 私を見下ろす彼の目。怒っているのか、呆れているのか、返答はなかった。

 

 

「あ……、えっと、ほんとに帰るね」

 足元のバッグを掴んで立ち上がる。

 今度は阻まれることもなく、事務所の扉まで辿り着いた。


「川崎。連絡するから、出てね。お願い」

 そう投げかけられたが、返事もせず、顔も見ないで、私はそのまま扉を閉めた。



 本田君の事務所に行った日から、江口亮介からの連絡はぱったりとこなくなった。初めこそ何かが欠けてしまったように感じていたが、最近は憑き物が落ちたような身軽ささえ感じる。強引ではあったけれど、本田君のおかげだ。


 ただ、あんなことがあった後で、彼と一緒に仕事をするのは考えられなかった。何度かメッセージが来ていたが、開かないで削除した。電話も無視した。

 今は1件でも受注を作るのが最優先だと、時間を惜しんで動き回っていた。

 そんな日々が続いた反動だったのかもしれない。

 異業種交流会で出会った人に誘われた飲み会。つい飲みすぎて、アパートに着いた頃には1時半を回っていた。

 量はそんなに飲んでいないはずなのに、なんだか足元がおぼつかない。

 ふらふらと階段を上がりながら、バッグの中で鍵を探す。ポケットの底に沈んでいた鍵をようやく見つけ、鍵穴に差し込もうとするが、なかなか入らない。酔いと暗さのせいだ。


「待って、俺が開けるから」


「……ッ!?」

 背後から突然声がした。

 驚きすぎて全身が硬直し、息が止まる。

 男性らしい少し骨ばった手が、鍵を握っていた手に重ねられる。そのまま鍵は迷いなく鍵穴に差し込まれ、カチャリと音を立てた。


「あ……、え……?」

 状況を理解できないままにドアが開かれ、半ば抱きしめられながら、部屋の中に押し込まれる。

「……なんで?」

 かろうじて絞り出せたのはそれだけだった。

「随分遅かったね。江口と会ってたの?」

 耳元でささやかれたその声は相変わらず穏やかだったが、暴力的な熱が込められていた。

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