【附記】仙石政勝および矢野弾左衛門のプロフィール。
仙石政勝
元和6年(1620年)~ 元禄13年5月8日(1700年6月24日)
旗本。
上田藩主・仙石忠政の三男で、次代藩主・仙石政俊の弟。信濃国矢沢領主。通称は治左衛門。官位は従五位下和泉守。
寛文9年(1669年)、兄の政俊が隠居する時に幕府に願い出て、藩領6万余石のうち信濃国小県郡矢沢村など8村(+半郷1村)2000石を分知された。
矢沢に陣屋を構えたが、江戸定府であった為、領地は代官が支配した。
延宝元年(1673年)年の暮れに幕府に暇願いを出し、延宝2年(1674年)2月に矢沢に入り4月まで滞在した。
兄・政俊没後、本藩を相続した仙石政明(仙石政俊の長男である忠俊の長男。政俊の嫡孫で養嗣子。信濃国上田藩3代藩主、のち但馬国出石藩初代藩主)を補佐した。
(天和元年(1681年)、政明は上野沼田藩のお家騒動と改易に伴い、真田信利の三男・栗本直堅(外記)と四男・真田辰之助を預かり、上田城内の空き屋敷に軟禁する(元禄元年(1688年)赦免)、なんて真田絡みエピがあるが、割愛)
延宝6年(1678年)12月3日、|火付盗賊改方となる。
貞享2年(1685年)12月29日から貞享4年(1687年)まで御勘定頭を勤める。
これらの功績により、上野国下仁田村、藤川村300余石と武蔵国毛呂本郷村・小田谷村(埼玉県毛呂山町)に430余石を賜った。
藩主の仙石家本家は、後に信濃国から但馬国出石藩に移封されたが、政勝の子孫は明治維新まで信濃国矢沢の地を治めた。
矢野弾左衛門
矢野という姓は私称。浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。
江戸時代の穢多非人身分の頭領。穢多頭。
江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の穢多非人に号令を下す権限をも与えられた。
弾左衛門の地位は世襲であった。
幕府から二本差等の特権を与えられており、支配下からの莫大な収益からその生活は豊かであった。
巷間、旗本や大名と比較され、
「格式1万石、財力5万石」
などと伝えられた。
仙石政勝が火盗改長官であった頃の弾左衛門は、四代目・集久(幼名:介次郎)で、生年不詳~1709年7月14日没とされる。
長吏頭の在職期間は1669年~1709年。
弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置した。
一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社の建物や塀で囲われており、内部は見通せない構造になっていた。
屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、三〇〇から四〇〇人の役人家族が暮らす住宅もあった。




