61.桜餅
あれ以来、六花の女将は行方知れずだ。
実家の誰も、どこへ行ったか知らぬと言う。
八鹿と深雪は、病に伏せっていたのではなく、女将に部屋へ押し込められていた。誰の目にも触れぬよう、店へも出されなかった。
叔父夫婦は家の奥で、髪を無残に毟られ、痣だらけになった深雪を見つけた。恐怖からか、一言も口を利かなくなっていた。
気ままに育てられた八鹿は、母の豹変に戸惑い、外へ出られぬ鬱憤を幼い深雪にぶつけていた。
叔父は、「母が常日頃そうするから、自分もそうしたのだ」と嘯く八鹿を厳しく叱りつけ、深雪を妹夫婦の家へ預けた。
親戚一同で八鹿の性根を叩き直し、六花の跡取りとして仕込み直す。
深雪はまだ喋らないが、家と母、八鹿と離れたからか、顔色は良くなった。今は、よちよち歩きの幼子のように叔母に甘え、片時も離れようとしない。
シロアリ盗賊団の首魁・脇浜通の行方も掴めていない。
篠山刑事は、まだ湯屋巡りの日々を送っていた。
宍粟探偵は、魔法の首飾りについて、帝国大学魔道学部の丹波教授に話を聞いてみることを提案したが、篠山刑事が実行したか定かではない。
桜が咲き揃った。
約束通り、養父家は双魚を招待し、通訳として宍粟探偵も呼ばれた。
二本の桜は、花を枝いっぱいに付け、さながら、庭へ薄紅色の雲が降りた風情だ。
穏やかな風に乗り、甘い香りと花弁が、縁側に舞い降りる。
主賓の双魚、通訳の宍粟探偵、養父医院のご隠居と養父氏、元気になった夫人の丹季枝、但馬少年が縁側に並んで花見をする。
但馬は、本人のたっての希望により、間もなく遠くの学校へ行く。下宿の手配も済んでいた。
旧家の柵も、母の呪縛も断ち切り、料亭六花を継ぐ道ではなく、医師となる道を選んだ。
少年の顔は晴れ晴れとして、何の屈託もなく、やわらかな日差しの許で、桜を見ている。
この集まりは、その送別会も兼ねていた。
「確かに、アーモンドの花と似ているな。いや、そっくりだ」
双魚が花を愛でながら、桜餅をつまむ。
「そうなんですか。これは、桜のお菓子なんですよ。お菓子も似ていますか?」
「これが?」
宍粟探偵に言われ、双魚は一口齧った桜餅を見詰めた。
桜色の餅が、葉で包まれている。
弾力のある餅の中身は、黒々とした粒餡だ。葉は塩漬けにされていた。餡の甘さを引き立て、初夏を思わせる清々しい香りと相俟って美味だ。
「全く違うな。これは花の色を映してあるが、俺の知ってる菓子は、アーモンドの粉で作った茶色い焼き菓子で、形がアーモンドの花や実を映してるんだ」
「へぇ……、これは、食紅で色を付けてあります。包んでいるのは、桜の葉の塩漬けなんですよ」
餅米を搗き残し、粒の形を留めた餅は、花の塊の姿を映してある。
宍粟探偵が遣り取りを訳すと、丹季枝夫人が、もう一皿の菓子を双魚に渡した。
「それは桜餅、これも桜餅です」
後から出された分は、ほんのり桜色の薄い生地で漉し餡を包み、それらを更に桜の葉で包んであった。
双魚は宍粟探偵の翻訳を聞き、首を傾げた。
「サクラモチ……同じ名前なのに、全然違う形なんだな?」
「地方によって、違うお菓子があるんですよ。先に食べたのは、この国の西部のもので、こちらは、この辺りのものです」
双魚はしげしげと眺め、もう一方の桜餅も口に入れた。
葉の香りと塩気は同じだ。皮は歯切れよく、滑らかな漉し餡が舌に触れる。
じっくり味わって飲み下し、茶で一息入れる。
「どっちも美味いな」
「以前は、地方の物は滅多にその土地から出ませんでしたが、今は人の行き来が盛んになって、他所の物も手に入り易くなったんですよ」
開国後、都が西から東へ移った。地方の職人や文物が、新しい帝都へ。逆の流れもある。
丹季枝夫人がお茶のおかわりを淹れた。
但馬少年は、西から来た職人の桜餅を手に、じっと考え込んでいる。
双魚が無邪気に笑う。
「うん。どっちも気に入った。もうしばらく、この国に居るよ」
「しばらくって、どのくらいですか?」
「そうだな、百年くらいは居るかな?」
「百年ッ?」
宍粟探偵は思わず声を上げた。目が集まり、遣り取りを訳す。一同の驚きが双魚に移った。
双魚は、何でもないことのように言った。
「前に言わなかったか? 俺は長命人種だ。セリア・コイロスからアルンディナ……今で言うゲオドルムまで、四百年掛けてチヌカルクル・ノチウ大陸を横断したんだ。百年くらいどうってことないさ」
宍粟探偵は、魔法使いの顔を改めて見た。
焦げ茶の髪に白い物こそ混じっているが、宍粟と同年代にしか見えない。
会話の翻訳を聞き、但馬少年が嘆息した。
「世の中って、広いんだな。俺、この桜餅も知らなかったし、魔法使いが、そんな長生きするなんて知らなかった」
「そうだな。但馬君はまだ若い。これからどんどん、広い世の中へ出て、新しいことを見聞きするがいい」
但馬に向けられるご隠居の眼差しは、今日の日差しに似ている。
養父医師夫婦も口にこそ出さないが、但馬に穏やかな笑顔を向け、桜を見上げた。
風がそよぎ、花の香りがこちらを向く。
一片の花弁が舞い、湯呑に浮かんだ。




