59.発声
涙に濡れた女将の目が、一点に釘付けになる。
後の三人も、その視線の先に目を遣った。
「帰りたい」
香炉が、蓋と本体を繋ぐ麻紐を引き千切り、小刻みに動いていた。
カタカタと音を立てて揺れるが、まだ、本体と柱が繋がれている為、床の間から出られない。その場で足踏みしながら、しきりに「帰りたい」と呟く。
目の前の香炉が発しているのか、どこか遠くから聞こえるのか、はたまた気のせいか。
距離の掴めぬ小さな声が、何度も同じ言葉を繰り返す。
「帰りたい」
「泥棒女」
千切れ残った麻紐が蝶番になり、蓋を口に、非難がましい声を出す。
柱に括られた麻紐がピンと張り詰める。紐を力ずくで千切ろうとしているのか。
香炉は声を発しながら、小刻みに足踏みし、じわじわと前へ出ようとしていた。
「帰りたい」
「泥棒女」
香炉の声だけが、部屋の底へ溜まり、ひんやりと降り積もる。
その声に絡め取られ、誰も身動きひとつ、咳ひとつなく、香炉を凝視する。
宍粟探偵は、蕎麦屋で聞いた双魚の話を思い出した。
香炉には、形を成さぬ小さな妖魔が憑いている。その雑妖は、香炉に元々宿っていた思念に取り込まれている。香炉に纏わりついた邪念を喰らい、雑妖は力をつけた……
……「帰りたい」が元の思念で、「泥棒女」が邪念なのか。
見鬼ではない宍粟探偵には、確かなことはわからない。
海上夫人の顔は蒼白だが、それは宍粟と養父父子も同様だ。
終に、麻紐が切れた。
四人が同時に息を飲む。
香炉は、勢い余って床の間から飛び出した。蓋と本体が別々に転がる。蓋が、壁に当たって止まった。本体は尚も転がり、夫人へ向かう。
海上夫人は、バネ仕掛けの人形のように立ち上がり、障子を開けるや、足袋裸足で庭へ飛び降りた。
香炉は、夫人が座っていた座布団に当たり、ようやく止まった。
いや、まだ、立ち上がろうとするのか、小刻みに震え、ミシミシと畳を鳴らしている。
宍粟探偵は膝立ちでにじり寄り、香炉を拾い上げた。
人肌めいたぬくもりに、思わず取り落とす。
ひとつ、大きく深呼吸し、意を決して香炉を掴み、一息に床の間へ戻した。
養父氏はハンケチ越しに蓋を拾い、本体と一緒にして包み込んだ。そのまま厳重に固結びにする。
蓋と本体は、ハンケチ包みの中でもがき、カチャカチャと音を立てた。
三人はしばらく、包みを見詰めていたが、養父氏がかすれる声で言った。
「あの……追加の依頼で、これをお寺へ……」
宍粟探偵に断れよう筈もなく、項垂れるように頷いた。




