55.退院
但馬は無言で、小さく顎を引いた。
板長が袖で涙を拭い、宍粟探偵とご隠居を見る。
黙って聞いていたご隠居が、口を開いた。
「但馬君、警察へ行きなさい」
「私が付き添いますよ。知り合いに刑事さんが居ますから、悪いようにはさせません」
宍粟探偵も言い添える。
但馬は、弾かれたように顔を上げた。
「シロアリ盗賊団の正体を知っているのは、恐らく、君だけだ。行って、きちんと話しなさい」
長椅子から見下ろす眼は、思いの外、あたたかい。
「家に帰れぬなら、ウチへ来るがいい。あらぬ噂を立てられた八鹿君は無理だが、君は死んだことになっておる。いっそ、生まれ変わった気持ちで、ウチの子になってはどうだ?」
「ご隠居さん……」
両の目から涙が溢れ、但馬は後の言葉が続かなかった。
「なぁに、部屋は余っておる。遠慮は要らぬ。何なら、宿代として、ウチの連中に料理を教えてやってくれんか?」
板長がご隠居を伏し拝む。但馬は泣き笑いの後で、何度も頷いた。
検査の結果、問題ないことがわかり、但馬は翌日、退院できることになった。
ご隠居が、諸般の事情により迎えが遅くなる為、深夜に開けてもらえるよう、院長に話をつける。ご隠居と旧知の院長は、事情を深く聞くことなく、快諾した。
香炉は、思わぬ形で戻った。
何はともあれ、当初の依頼の件は落着した。
二日後、宍粟探偵は、調査費の請求書を持ち、養父家を訪れた。
今回は、客間ではなく、奥まった一室に通された。
「仕度はできているか? 入るぞ」
「はい」
ご隠居が声を掛けると、但馬の声が返って来た。明るい声だ。体調のこともあるが、心の重荷をひとつ降ろし、肩の力が抜けたらしい。
「窮屈だが、身の振り方が決まるまで、当面は外へ出ず、ここで勉強するよう、言ってあるのだ」
ご隠居は襖を開け、宍粟探偵を招じ入れた。
邸内の奥まった部屋で、中庭に面している。六畳間に書き物机と座布団、行李。机には本が数冊、積んであった。
部屋の中央で車座になる。
女中のお松が茶を置いて退がると、ご隠居は口を開いた。
「ひとつ、お願いしたいのだが、宜しいか?」
「私に可能な内容でしたら」
「宍粟さんのお知り合いの警察官には、女将を逮捕せぬよう、言い含めて下さらんか?」
「えっ?」
「シロアリ盗賊団のことを語れば、女将の話もせねばならん。倅の香炉は戻った。当家としては、不問に付す積もりでおる」
「左様でございますか」
但馬少年は、二人の遣り取りに口を挟まず、じっと見守っている。
「他の細々した品も、シロアリに盗られた。シロアリが逮捕された場合、貴奴の口から、女将の疑惑が語られるやも知れぬ」
「忘れ物を預かっていただけの可能性もありますよね。今回みたいに、お稽古の道具に混ざってしまって、どこでどう紛れた誰の品かもわからず、保留にしていた物もあるでしょう」
宍粟探偵は、養父夫人が支持していた説を持ち出した。
但馬少年の強張った顔を見、ご隠居に視線を戻す。
「香炉に限って言えば、わかって戻したのだから、当家としては、事を荒立てとうない。噂の件もある」
「私は、何も言わずともよいのではないかと存じます」
「何ッ?」
「所有者不明の物を収めた箱は、シロアリ盗賊団の脇浜に盗られました。女将さんも、ここへ香炉を返しに来られた時におっしゃったでしょう」
その言葉で、ご隠居はあの日の様子を思い出したのか、苦りきった顔をした。
宍粟探偵は、構わず説明を続ける。
「落し物の簪なども、後で持ち主が分かれば返すつもりで、箱にまとめて入れていたとのお話でしたから、警察も、女将さんを窃盗で立件するのは、難しいんじゃないんでしょうか?」
落し物を速やかに警察に届け出なかったことから、占有離脱物横領の罪には問われるかもしれないが、窃盗に比べれば微罪だ。
料亭六花の店内で拾い、次の来店時に返す予定だったと言われれば、警察も引っ込む他ないだろう。
海上家の長男・但馬は、呆然と宍粟探偵を見た。




