50.兄弟
大部屋はしんと静まり返り、他の患者は眠っているのか、聞き耳を立てているのか、判然としない。
ご隠居が、少年を気遣う。
「但馬君、具合はどうだ?」
「別に、何ともありません。ちょっと水飲んだだけだから、様子見で居るだけです」
「そうか。では、退屈だろう。ちょっと庭へ出てみようか」
但馬少年は、養父医院のご隠居には、折り目正しく返事をした。
板長が廊下へ出て、通りすがりの看護師に一言、断りを入れる。
念の為、宍粟探偵が手を貸し、但馬少年をそっと立たせた。病院の寝巻の上に、宍粟の襟巻と上着を掛ける。
但馬少年は小声で礼を言い、先に立って歩いた。
病院の庭へ降り、二人掛けの長椅子に但馬とご隠居が座り、話を再開する。
日当たりはいいが、時折吹く風は、やや肌寒い。
「警察へは、もう話してあるんですか?」
宍粟探偵が口火を切る。
但馬少年は首を横へ振った。
「警察から、連絡があったそうですが?」
「病院代を踏み倒しちゃ、お医者に悪いと思って、身元だけ言ったんだ」
「殺されかかったんですよね? 何でまた、犯人を庇うような真似を……?」
但馬は宍粟探偵を見、ご隠居を見、最後に板長を見た。
「盗人が捕まんなきゃ、カネも戻らない。そのまま、店が潰れりゃいいと思って……」
次第に声が小さくなり、仕舞いには語尾が消えた。
板長が、言葉もなく、老舗料亭の跡取り息子を見詰める。
但馬は俯いた。
「何故、そう思ったんですか? いえ、但馬君を責めているんじゃありません。何か、そうしなければならない、事情があるのでしょう? もしかすると、力になってあげられるかも知れません。教えてくれませんか?」
宍粟探偵の言葉に、但馬は顔を上げた。
隣に座るご隠居を見る。ご隠居は、力強く頷いて見せた。
「あのババア、八鹿ばっかり大事にして、昔っから俺を居ない者扱いしてやがったんだ」
弟の八鹿は、母に溺愛されている。
母は八鹿が何をしても叱らず、悪さをして迷惑を掛けた先には、代わりに頭を下げに行きさえした。
学校の試験が丙でも、褒めそやした。
「まだ、下に丁の子が居るから、大丈夫。他の子より賢いなんて、流石ねぇ。偉いわぁ」
跡取りではない為、いずれ外へ出す。
他所で生きて行くようにと、板場の修業をさせられることはなかった。
八鹿は包丁の握り方ひとつ知らない。
板場で何を手伝うでもなく、つまみ食いをするだけで、母に褒められた。
「八鹿は、ちゃんとお店の味を調べて、偉いわぁ。それでこそ、六花の息子ねぇ」
奉公人は、亭主の存命中は窘めていたが、女将が実権を握った後は、何も言えなくなった。
母は何故か、八鹿を不義の子として育てていた。
「八鹿の本当のおとっつあんは、養父先生だけど、それは世間には内緒だから、決して言ってはいけません。養父先生のご迷惑になりますからね。本当のおとっつあんに嫌われないように、立派なお医者の子として、恥ずかしくないようになさい」
母から毎日、そんな言葉を聞かされ、跡取りの重責もなく、放任されていた。
本人には、誰にも内緒にするよう、言い含めていたが、同じ部屋で寝起きする但馬の耳には入っていた。
この件は、長らく母子だけの秘密であった。
父の死後は、奉公人らも知るところとなったが、誰も何も言わなかった為、但馬も黙っていることにした。
但馬は板場に出る為、自分が人より薬指の短いことに気付いていたが、父も同じ手をしていたので、そう言うものだと思っていた。
父は生前、それを「海上家の男の手だ」と言っていた。
誰が見ても、但馬と八鹿の兄弟は、料亭六花の亭主にそっくりだ。特に手の形は、他に類を見ない。
八鹿は、母が兄をないがしろにする姿を目の当たりに育った。兄に技を仕込んでいた父が亡くなった後は、奉公人も母に従っている。
「俺が六花の暖簾を継ぐから、兄貴はどっか行けよ。それが嫌なら、タダの板前としてなら、置いてやってもいいぞ」
流石に、養父医師の子であると言う話は真に受けていないようだが、八鹿は兄の但馬を見下していた。
但馬が、父の死後も板場に入り浸るのは、家に身の置き場がなく、板場の方が居心地がいいからだ。
その心は、家を継ぐか、捨てるか、常に揺れている。




