05.書斎
「えー、次の質問に移りますが、宜しいでしょうか?」
妻女は目を開け、小さく顎を引いた。
「奥様は、香炉が自ら歩く姿をご覧になられたことは、ございますか?」
「ございません」
「移動した結果をご覧になられた、と?」
「はい。女中と手分けして家の掃除をしますが、その時に……」
「香炉を置いてあるお部屋は、夜でも出入りできるのですか?」
妻女は襖に目を遣り、答えた。
「ご覧の通り、ただの襖で、鍵もございませんので、家人でしたら、いつなと出入りできます」
「ご主人の書斎もですか?」
「書斎は、洋式の戸に付け替えましたので、鍵が掛かります」
宍粟探偵は、養父氏に聞いた。
「拝見させていただいて宜しいですか?」
「勿論です」
邸内は、何部屋か洋室に改装されていた。
「友人に誘われて、洋館建材の見本市へ行ったんですよ。そこで一目惚れして……中はそのままなんですがね。正座した方が、よく書ける気がするので……」
養父氏は、やや得意げにドアを示した。
書斎の扉は、成程、鼈甲色の立派なドアだった。木製の重厚な造りで、植物の紋様が彫刻されている。
宍粟は、自分の事務所の素っ気ない一枚板のドアを思い出し、小さく嘆息した。
「鍵は、どなたがお持ちですか?」
「私が……」
養父氏は上着の隠しから、真鍮の鍵を取り出した。ドアと同じ装飾が施されている。
「夜間はどちらに?」
「ここに入れたままです。服は寝間に吊るしております」
養父氏は答えながら、鍵を開ける。
宍粟探偵は、一礼して書斎に足を踏み入れた。
畳の上には、書き物机と座椅子。
部屋の半分は板張りで、大きな本棚が鎮座している。その中には、国内外の様々な医学書が整列していた。整理整頓が行き届き、余計な物は何ひとつない。
香炉が隠れる隙は、なさそうに見えた。
「最初の異変は、いつ、どのようにして起こっていましたか? 改めて、教えて下さい」
「氷ノ山で買った当日、机の上へ置いて、翌朝、この辺りに移動しておりました」
養父氏は、座椅子の左隣を指差した。
この距離ならば、机から転がり落ちたように見える。
「どんな様子でしたか? 転がっていましたか? それとも、立っていましたか?」
「そう言えば、立っていましたね。蓋も外れず、そのまま……」
転がり落ちたにしては、奇跡のように美しく着地を決めたものだ。
「翌日は、どの辺りに?」
「この辺りです」
座椅子の背後、二歩ばかり。 その時も、直立していたと言う。
三日目には、ドアの直前にまで迫り、内開きの戸を避けるような位置に立っていた。
「いかにも、扉を開けた隙に外へ出ようと、覗っているような様子でした」
養父氏が、香炉が立っていた位置に目を落とし、薄気味悪そうに肩をさする。
宍粟は、窓に歩み寄った。
窓は東にひとつきり。木の格子が嵌っている。外して付け直した痕はなかった。
香炉が自ら歩き回り、とうとう、客人の荷物に紛れて外へ出たのか、それとも……
古来、百年を経た器物は、魂を得て、付喪神と化すと言う。
西のチヌカルクル・ノチウ大陸には、器物に仮初めの命を吹き込み、一時的に操る術があると聞く。
元の持ち主が、売った道具を惜しみ、呼び寄せているのだろうか。
宍粟探偵は、魔術に関しては素人だ。
術の持続時間や効果の範囲など、詳しいことはわからない。
この日之本帝国には、魔や霊を視る「見鬼」は僅かに居るが、魔道士は居ない。大陸の血を引いているのでもなければ、魔力を持つ者も稀だ。
この国では、大抵の見鬼が、幼い内から寺社に預けられる。
親が気味悪がって、育てたがらない。また、親が手元に置きたがっても、他の身内がそれを許さない場合が多い。
日之本帝国は、チヌカルクル・ノチウ大陸の東に位置し、大小の島からなる列島だ。
数百年来、東西の大陸とは没交渉を続けていたが、止むを得ぬ事情により、門戸を開いた。
国を閉ざしている間、遠く鯨大洋の大海原を隔てた東のアルトン・ガザ大陸の国々では、科学文明が目覚ましい発展を遂げていた。
東西の大陸との行き来が再開されるや、魔術の研究も正式に始まった。
諸外国に追い付き追い越せで、政府は、西隣のチヌカルクル・ノチウ大陸や、遠く鯨大洋を隔てた東のアルトン・ガザ大陸の国々から、科学と魔道の分野それぞれの講師を招聘し、国内各地にその研究と教育を担う大学を設置した。
帝都の雲教区に開かれた帝国大学にも、魔道学部がある。
……なんとか伝手を見つけて、そこの博士に問合せてみようか。
講師や商人として、外国から魔法使いも入国している。だが、その大半は、住居を外国人居留地に定められ、無断で他出することは許されない。
物見遊山の者も、厳重に身元の確認を行った上、特別の査証を発行し、行き先を限定していた。
魔法使いを相手に、全く無意味なことだが、役所は彼らを監視下に置きたいらしい。
いや、そもそも、売主は武家だと言う。
先祖代々この国の生まれなら、術で香炉を呼び戻そうなどと、まず考えも及ばぬだろう。
……ならば、やはり、人の手で持ち去られたのだろうな。香炉が夜な夜な歩くと言うが、それも、実際に動く姿を見た訳じゃない。