44.変容
女将が膝の上で拳を握る。
「去年、嫁の客として来た時に持ち出して、何故、今頃になって、返しに来たのだ?」
「いえ、決して、そんな……」
女将は尚も認めない。
香炉から目を逸らしたのか、ご隠居の厳しい面から逃れたのか、顔を畳へ向けた。
ご隠居は茶を一口すすり、宍粟探偵に頷いて見せた。
「では、この香炉がどのような品か、お聞き下さい」
女将は宍粟探偵に目を向け、幽かに顎を引いた。
宍粟探偵はご隠居に目礼し、由来を語った。
「この香炉は元々……」
この香炉は元々、この国のさる武家の一人娘の持ち物だった。
ご令嬢は、開国の五十年程前にこれを作らせた。
婿を取ってお家を継いだものの、開国後、家運が傾いた。
ご令嬢が天寿を全うした後、いよいよ家計が行き詰まり、家督を継いだ息子が、骨董屋氷ノ山を呼び、他の品と共に買取らせた。
氷ノ山が店へ並べてすぐに、養父氏が一目惚れして、これを買った。
ご隠居は、この新しい世に骨董趣味に現を抜かす息子を懲らしめようと、夜中に香炉を動かし、恰も、付喪神が憑いているかのように装った。
「何ですって? でも、ウチでは確かに……」
「双魚さんから、説明されましたよね」
思わず声を発した女将に、宍粟探偵は静かに説明を続ける。
香炉の中には、生身の体も、定まった形も持たぬ小さな妖魔が入り込んでいる。
雑妖が憑いたのは、香炉が人間の邪な思念に塗れ、穢れていたからだろう、と異国の魔法使いは言った。
雑妖は、自然の気が澱み凝ったモノや、人間の心の闇、巷の物理的な汚れなど、様々なものから発生する。
どこにでも涌くが、小さく弱い。お清めの塩や陽の光、簡単な清掃などで、あっさり祓われる。
並の人の目には視えず、触れることもできず、物を動かすような力もない。人を取り殺すような大きな力はなく、せいぜい、小さな不運を呼び寄せるだけだ。
雑妖は、邪念を喰らって、力を付ける。
力を得た雑妖は形を成し、もっと酷い悪さを始める。
どの時点で憑いたか不明だが、海上家で力を付けた雑妖が、香炉を動かし、夜な夜な歩いたのだ。
海上夫人は、蒼白な顔で香炉を見詰めている。
宍粟探偵がここまでの話を訳すと、今度は双魚が、骨董屋妙見に海上夫人が来た時の騒動を語った。大陸から来た魔法使いが話す要所要所で、宍粟は二人に訳して聞かせる。
最初の来店時、香炉に憑いた雑妖はまだ、小さく弱い存在だった。せいぜい、夜中に香炉を少し動かしたり、お茶を零す程度のささやかな悪さしかできない。
人を病気にしたり、ましてや、取り殺すなど、大それたことはできない。
海上夫人は、我が子の病を、香炉の呪いだと決めつけていたが、単なるこじつけだ。
器物に呪いなどの術を掛けると、雑妖は締め出され、取り憑くことができなくなる。
小さく弱い雑妖が入っていると言うことは、気持ちのいいことではないが、反面、呪いが掛かっていないことの証となる。
盗みの露見を恐れたのか、海上夫人は、子供を養父医師に診せなかった。今更、言っても詮なきことだが、治療を受けていれば、助かったやも知れぬ。
「違う……違うんです……そんなつもりじゃ……」
六花の女将・海上夫人は香炉から視線を外さず、口の中で呟いた。ご隠居が聞き咎める。
「では、どう言うつもりだったのだ」
海上夫人は、血の気を失った唇を戦慄かせた。ご隠居が重ねて問う。夫人は能面のようになった顔を上げ、殆ど口を動かさずに答えた。
「そんなつもりじゃなかったんです。ただ……幸せが欲しかったんです」
「盗品で幸せにはなれないでしょう」
宍粟探偵は思わず言った。
現に、盗みの発覚を恐れたせいで、医師に診せられず、長男を失っている。
「違うんです。盗むとかじゃないんです。ただ、こちらの奥様が、あんまりに幸せそうで……肖りたかっただけなんです」
「あやかる?」
ご隠居と宍粟探偵の声が重なった。




