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彷徨う香炉  作者: 髙津 央


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32.薬酒

 閉店の少し前、薔薇園亭(ばらえんてい)の扉を開けた。

 「遅くに恐れ入ります。ちょっといいものが手に入ったので……」

 葡萄酒(ワイン)の瓶を渡し、奥の応接間に通される。


 ややあって、女主人と女中が、湯気の上がる茶器を持って入って来た。

 「私も最近、色々研究しておりましてね、アルトン・ガザ大陸の方では、冬の間、こうやって飲んで温まるそうです」

 「大変、お(あつ)うございます。お気を付けを」

 女中は、花柄のお盆から茶器を降ろしながら、宍粟(しそう)探偵に注意を与えた。


 茶器から昇る湯気は、葡萄酒(ワイン)の風味に様々な香りが混ざっていた。香ばしく、どことなく薬臭い。ニッキのような匂いもある。


 「お酒のようにお(かん)につけるのではなく、直接、お鍋で温めてあるんです。香辛料……体を温める効果のある物を色々入れて、蜂蜜を入れて、できあがり。お口に合いますかしら?」

 女主人(マダム)はそう説明し、自分も茶器を手に取った。


 宍粟(しそう)探偵も、吐息で吹き冷ました葡萄酒(ワイン)を口に含む。


 日光芳商社(にっこうほうしょうしゃ)の同輩、波賀(はが)君と二人で飲んだ時より、ずっと濃い。

 銘柄の違いなのか、手を加えたからなのか。

 香辛料の味と香りが複雑に絡み合う。それだけなら、尖った味になるのだろうが、蜂蜜が葡萄酒(ワイン)と香辛料の仲を取り持ち、まろやかに繋いでいた。


 腹の中にぬくもりが降り、じんわりと浸み渡る。


 冷え切った身が内から温まり、宍粟(しそう)探偵は聞いた。

 「葡萄酒(ワイン)にこんな飲み方があるとは、存じませんでした。本邦のお屠蘇(とそ)のようなものですか?」

 「お正月には限らないそうですよ。冬の間、温まる為に飲むんだそうですのよ。出石(いずし)さんが最近、これ用に調合したのをご用意下さって、温めた葡萄酒(ワイン)に蜂蜜と一緒に入れて混ぜるだけで、簡単にいただけるようになったんですの」


 「へぇ。皆さん、色々考えられるものですねぇ。脱帽です」

 味の好みは分かれるが、効能から言えば、薬酒のような物だろう。薬種商出石の商魂に舌を巻いた。


 出石氏と村岡氏は、子供の年が近く、仲が良い。

 これを売り出すことで、村岡酒店が抱える葡萄酒(ワイン)の在庫を、少しでも減らすことができれば……と言う、さりげない救いの手なのかも知れない。

 酒が少しくらい劣化していても、これならば、大して気にせず飲めるだろう。


 宍粟(しそう)探偵は当たり障りのない世間話から、それとなく誘導し、養父(やぶ)医師と六花(むつのはな)の女将の不義の噂に触れた。


 薔薇園亭(ばらえんてい)女主人(マダム)は、当然のようにその話を知っていた。

 眉間に深い皺を刻み、きゅっと目を閉じる。


 葡萄酒(ワイン)を一口含み、時間を掛けて飲み下し、溜め息と共に言葉を吐き出した。

 「真実、お二人の間に愛があるなら、悲しくも美しいお話なんでしょうけれど、お金目当てだなんて、(けが)らわしい……それも、今頃になって言うなんて……坊やが不義の子として苦しみましょうに……」

 「話の出所は、どこなんでしょうね? ご亭主が亡くなってすぐならまだしも、今頃になって広まったことに、少し引っ掛かるのですが……」


 宍粟(しそう)探偵の質問に、女主人(マダム)(しわ)の深い首を傾げた。

 「さぁ、それは……私も、お客様方がお話されるのを、小耳に挟んだだけなものですから……」

 今日、洋裁教室とその後のお茶会に参加した村岡夫人は、養父夫人と六花の女将との様子は、普段と変わらなかったと言っていた。

 まだ、養父夫人の耳には、入っていないのか、皆に心配させぬよう、取り繕ったのか。


 「誰が最初に言い出したか知りませんが、こんな心ない話……坊やが可哀想ですよ」

 「真偽の程も定かではありませんが、こんな話が出てしまっては、後々、縁談にも障りがあるでしょうね」

 「そうですよ。子供たちには何の罪もありませんのにね。可哀想に……」


 女主人がふと思い出し、付け加える。

 「可哀想と言えば、海上(うみがみ)さんが可愛がってらしたカナリヤ、死んでしまったそうですよ。あのお話、私でも知っているくらいですもの。当然、もっと以前に女将さんのお耳にも入ってしまったでしょうし、気もそぞろで、餌を遣り忘れたんじゃないかしら」

 「あぁ、それでは、カナリヤもとんだとばっちりで……」

 「ホントにねぇ。可哀想に……」

 二人でひとしきり気の毒がり、しんみりしたところで、お(いとま)した。

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地図などは「野茨の環シリーズ 設定資料『用語解説17.日之本帝国』
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