13.整理
遅くなっても、書生の有年は文句ひとつ言わず、宍粟探偵の帰りを待っていた。
「特になし」
「うん。ご苦労さん。遅くなってすまないね、これ、特別手当だ」
あんパンと幾許かの金を渡す。
青年は微笑んで受取り、深々と頭を下げた。
多くは語らないが、宍粟探偵は、彼が甘味に目がないことに気付き、面倒なことを頼む時や、こうして遅くなったときなどは、渡すようにしていた。
冷たい雨がそぼ降る朝、宍粟探偵は約束通り、千代草第一警察署を訪れた。
先日の係官は宍粟を覚えており、気の毒そうに首を横に振った。宍粟は手間を掛けてくれた礼を述べ、次の目的地へ向かった。
同様のことを、千代草区内の全警察署と、近隣の七つの署でも行っている。
一日掛けて警察行脚をしたが、結果は捗々しくなかった。
街の灯が石畳の水溜まりに滲む。手袋越しにも、寒さが凍みた。
吐く息が手元でぽっかりと小さな雲を成し、たちまち消える。傘を差しても、毛織のコートはしっとり濡れていた。
事務所へ戻り、ストーブの前で乾かしながら、考える。
「外部から侵入した盗人が、見送りの僅かな隙を突いて、香炉だけを盗ったと思いますか?」
「さぁ?」
書生の有年が、本から顔も上げずに短く返した。
宍粟探偵は話を続ける。
「もし、そうだとすると、相当目利きができる人物で……」
犯人は突発的に出来心で盗んだのではなく、職業的な泥棒である可能性が高い。
人の多い客間をわざわざ犯行場所に選ぶより、人の居ない寝室などで、金庫や財布の現金を狙う方が、効率は良い筈だ。家人に見つかる危険も低い。
更に言えば、骨董を換金する際にも、犯行発覚の惧れがある。
職業的な泥棒が、敢えてそんな危険を冒した理由が、わからない。
「ふーん……」
有年の気のない返事に気を悪くすることもなく、宍粟探偵は考えを口にした。
「或いは、客人の一人が盗み出した場合……」
事業の躓きで痛手を受けた村岡家と日高家は、動機としてはあり得るが、換金のことを考えると、労多くして益少なし。
養父氏は、香炉の値段も教えてくれたが、宍粟探偵事務所の家賃一カ月分強だった。
日用品としては大変に高価だが、骨董としては安価な部類だ。
まだ余裕があるのか、もう後がなく、手に職を付ける為なのか。いずれにせよ、趣味の洋裁教室へ通えるだけの資力は残っており、食うや食わずやと言う程、困窮している訳ではない。
だが、つい出来心で魔が差すと言うこともあり得る。
カネ目当ての線は、保留することにした。
そこまで説明して、宍粟探偵は、書生の反応を待った。有年は脈絡なく、宍粟探偵の言葉を反芻した。
「保留……」
宍粟探偵は、養父家と薔薇園亭で聞き出した情報を整理しつつ、言葉に出して考える。
「はたまた、怨恨だと……」
養父氏によると、医院で処方する薬は、主に薬種商出石から購入している。仕事の上で特段、揉めごとはなく、順調な取引が続いていた。
夫人同士のいざこざも、養父氏の耳には入っていない。
養父夫人自身も、子供の玩具が紛れ、お互いに返したことはあるが、それは笑いごとで済んだ話だと言う。
海上家の料亭六花は老舗だ。
格式、味ともに申し分ないので、養父氏も何かの会合や接待などがあれば、利用していると言う。宍粟探偵も、商社時代には度々利用した。
海上家の方でも、家人に病人が出れば、養父医院へ来る。
数年前、亭主が流行病に罹った時も、往診を頼まれたが、甲斐なく儚くなった。
養父医師にその件を聞くと、当時の気持ちが甦ったのか、もっと早くに呼んでくれれば……と、絞り出すような声で答えた。
海上氏は当初、タダの風邪だと思い、熱を出してから二日、家で寝ていた。
夜中に突然、高熱になり、訳のわからないことを言い始めた為、翌朝を待って、往診を頼んだ。
養父医師が解熱剤などを注射し、一時は平熱近くまで下がった。医師が帰った後、薬の効き目が切れると再び高熱を発し、訳のわからないことを言いながら、二階の窓から飛び降りた。
海上夫人が看病していたが、あっと言う間のことで、止められなかった。打ち所が悪く、報せを受けた養父医師が駆けつけた時には、既にこと切れていた。
夫を治せなかった件で、逆恨みされている可能性が考えられるが、それにしては、その後も子供らが病気になる度に、養父医院へ連れて来る。
帝国大学の開学後、近くに大病院が出来、個人診療の医院も増えた。
養父医院が嫌なら、代わりはあるのだ。
夫人同士は、洋裁教室で初めて顔を合わせたと言う。
まだ知り合ったばかりで、これと言った揉めごとが起きる程の付き合いでもない。
養父家で教室へ通っているのは、夫人と長女のお夏だ。
お夏からも話を聞いたが、娘らの間では悶着などの心当たりはないと言う。
先に養父氏から聞いた通り、お夏は十四歳にして、壮大な目標を持って熱心に通っている。洋裁の習得に夢中で、誰かと諍いを起こしている暇などない。
幼子同士は大変に仲良しで、よく一緒に遊んでいる。
大人しい海上深雪と活発な養父小春は、ともに六歳で、性格は正反対と言ってもいいが、喧嘩しているのは見たことがないと言う。
出石家の次女・桜は十六歳。間もなく縁談が決まるので、花嫁修行の一環として、洋裁を習っている。
日高家の三女・梅代と村岡家の一人娘・桃乃は揃って十三歳。
どちらも資金繰りが厳しいので、陰では手に職つけさせる為だと噂されているが、真偽の程は定かではない。編んだレースを交換しあったり、刺繍を教え合ったりと、助け合っている。
表面上、何でもない風を装っていても、腹の中では何を思っているか、わかった物ではない。
海上夫人は、夫の件で恨みを呑んでいるやも知れぬ。
日高家、村岡家は、経済的に余裕のある養父家を妬んでいるやも知れぬ。
「……まぁ、ですから、疑い出せばキリがないんですけどね」
「際限ない可能性。どうします?」
書生の有年に問われ、宍粟探偵は今後の方針を語った。
仮に、まだ誰かの家に在るにしても、香炉が夜歩いたなどと言う怪異が起これば、いずれ、子供や使用人の口から、世間の知るところとなる。
地域や人付き合いに接点のある辺りで、丹念に噂を拾って回る。
売りに出されたなら、骨董屋などの捜索範囲を広げるだけだ。
「養父先生の依頼は、飽くまで香炉の回収であって、犯人捜しじゃありません。探すのは香炉ですから」
「長丁場……」
「そんなもんです」
宍粟探偵は腹を括った。