私抜きで決めないで
その日の夕方、学校は騒ぎになった。
実技場は封鎖された。
騎士団が呼ばれた。
生徒たちは全員、家へ帰された。
先生たちは、母に頭を下げていた。
騎士団の兵士たちは、母を見る目を変えていた。
薬屋のエレノアではなく、
白暁の魔女エレノア・アークライトとして。
世界を救った勇者一行の大魔法使いとして。
リディアは、校門の近くで待っていた。
ユアン、ネリ、テオも近くにいた。
誰もすぐには話さなかった。
最初に口を開いたのは、ユアンだった。
「お前の母さん、何者なんだ」
「私にも、わからない」
言ってから、胸が痛くなった。
母のことなら、知っていると思っていた。
好きな茶葉。
苦手な冬の朝。
薬草を刻むときの癖。
寝る前に窓の鍵を二度確かめること。
でも本当は、何も知らなかったのかもしれない。
ネリが小さな声で言った。
「リディアちゃん、さっきの力……」
「わからない」
リディアは答えた。
「私にも、わからない」
テオが言った。
「でも、首飾りが外れた瞬間に起きた」
「うん」
「そして戻したあと、僕たちは君の名前を忘れかけた」
言葉にされると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
ユアンがすぐ言った。
「忘れない」
リディアは彼を見る。
ユアンは、少し気まずそうに目をそらした。
「もう忘れない。さっきは、何か変だっただけだ」
「うん」
リディアはうなずいた。
信じたかった。
でも、怖かった。
もしまた首飾りが外れたら。
もしまた戻したら。
そのたびに、誰かが自分の名前を忘れるのだとしたら。
いつか本当に、誰もリディアを思い出せなくなるのではないか。
そのとき、校門の外から母が戻ってきた。
夕日を背にしていたので、顔が影になっていた。
「リディア、帰りましょう」
いつもの声だった。
夕飯の支度を気にしているような、普通の声。
でも、リディアはもう知ってしまった。
母の手は、空を割る。
母の名前は、魔王の使いに知られている。
母は世界を救った人だった。
そして母は、リディアに何かを隠している。
「お母さん」
リディアは言った。
「私、聞きたいことがある」
母は少しだけ目を伏せた。
それから、静かにうなずいた。
「帰ったら話すわ」
リディアは、その言葉を信じたかった。
*
けれどその夜、母はすべてを話さなかった。
話したのは、ほんの少しだけだった。
昔、冥王と呼ばれる存在がいたこと。
人間たちは彼を魔王と呼んだこと。
母は勇者一行の一人として、その魔王を倒したこと。
魔王は完全には消えなかったこと。
そして、リディアには普通に生きてほしかったこと。
「普通って、何?」
リディアが聞くと、母は答えに詰まった。
台所の灯りが揺れている。
母はいつもの薬草茶をいれた。
いつもなら、その匂いで少し安心できる。
でも今夜は、湯気まで遠く感じた。
「学校に行って」
母は言った。
「友だちと笑って。朝起きて、夜眠る。誰にも奪われない日々を送ること」
「でも、私、学校で見つけてもらえないよ」
母の手が止まった。
リディアは、初めてそのことを母に言った。
「先生に名前を飛ばされる。友だちに忘れられる。班分けで余る。今日も、みんな一瞬、私の名前を忘れた」
胸元の首飾りに触れる。
「これのせい?」
母は答えなかった。
その沈黙で、リディアは少しわかってしまった。
「お母さん」
声が震える。
「これ、何なの?」
母は目を伏せた。
「あなたを守るためのもの」
「それは聞いた」
「今は、それ以上言えない」
「どうして?」
「知れば、あなたは選ばなくていいものまで選ぶことになる」
リディアは、母の顔を見た。
「私のことなのに?」
母の唇が震えた。
でも、答えはなかった。
「外してはだめ」
母は言った。
「どんなことがあっても」
「外れたら?」
「私が戻す」
「戻したら、また誰かが私を忘れる?」
母は答えなかった。
リディアはもう、それ以上聞けなかった。
その夜、リディアはなかなか眠れなかった。
窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
家の中は静かだった。
母が台所で何かを片づける音だけが、ときどき聞こえた。
リディアは机の引き出しを開けた。
そこには、古い手帳がある。
父ノアの手帳。
父は、リディアが小さいころに亡くなった。
町の薬師だった。
強い魔法使いではなかった。
剣も使えなかった。
でも、リディアのことをよく見てくれた人だった。
手帳を開く。
薬草の名前。
天気の読み方。
眠れない子に飲ませる蜂蜜湯の作り方。
母が疲れている日に作るスープの分量。
そして、リディアのこと。
リディアは、寂しいとき右の袖を握る。
言わないだけで、だいたい気づいてほしがっている。
リディアは自分の右手を見た。
袖を握っていた。
次のページには、こう書かれていた。
リディアは、探さなくても見つかる子ではない。
だから、毎日ちゃんと探すこと。
文字がにじんだ。
父は知っていたのだろうか。
首飾りのことを。
自分が薄くなっていることを。
それとも、何も知らなくても、ただ見つけてくれていただけなのだろうか。
リディアは手帳を胸に抱いた。
そのとき、遠くの森で黒い鳥が鳴いた。
窓の外には何もいない。
でも、見られている気がした。
*
翌朝、町の北門に黒い杭が立っていた。
誰が立てたのか、誰も見ていない。
杭は、木でも鉄でも石でもなかった。
夜そのものを削って作ったような黒だった。
根元には、羊皮紙が一枚、短剣で留められている。
町の人々が遠巻きに見ていた。
騎士団の兵士たちが槍を構えている。
母は、黒い杭の前に立っていた。
リディアは母の後ろに立つ。
視線が集まる。
昨日まで、誰にも見つけられなかった。
今は、町中がリディアを見ようとしている。
うれしくはなかった。
怖かった。
羊皮紙には、たった一行だけ書かれていた。
大魔法使いの娘を、差し出せ。
リディアの胸元で、黒い石が脈打った。
母が息を呑む。
黒い杭の表面に、赤い線が走った。
文字のように。
血管のように。
そして、声がした。
「三日」
町の人々が凍りつく。
「三日ののち、娘を差し出せ。さもなくば、この町の名を消す」
名を消す。
その言葉を聞いた瞬間、リディアは自分の名前が遠くなるような気がした。
母が右手を上げる。
白い光が集まる。
けれど、黒い杭からもう一つの声がした。
昨日の影よりも深い声。
もっと古く、もっと冷たい声。
「エレノア・アークライト」
母の顔色が変わる。
「お前たちは、まだ平和を信じているのか」
黒い霧が広がる。
「しかしお前たちは平和を作ったのではない」
霧の中で、赤い目が開いた。
「平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所を分けただけだ」
リディアは母を見た。
母は何も言わない。
その沈黙が、リディアには怖かった。
母はこの言葉を知っている。
母は、この問いから逃げてきた。
そしてたぶん。
母がリディアにしたことも、同じ形をしている。
守るために、隠す。
平和のために、見えない場所へ押し込める。
黒い石が、胸元で強く脈打つ。
リディアはそれを両手で握った。
自分が何なのか、まだわからない。
母が何を隠しているのかも、わからない。
昨日の力が何だったのかも、わからない。
でも、ひとつだけわかった。
もう、知らないままではいられない。
町の人々の視線が突き刺さる。
母の背中が遠い。
黒い杭の声が、まだ耳に残っている。
リディアは小さく息を吸った。
声は震えていた。
それでも、言った。
「お母さん」
母が振り返る。
「私のことを、私抜きで決めないで」
北門に風が吹いた。
黒い杭の赤い線が、静かに笑うように光った。
→ 次話「三日のうちに」。ブックマーク・★評価で続きが届きやすくなります




