首飾りが外れた日
リディア・アークライトは、よく忘れられる。
それは、いじめではなかった。
誰かに机を蹴られるわけではない。
教科書を隠されるわけでもない。
廊下ですれ違った生徒に、あからさまに笑われることもない。
ただ、忘れられる。
「今日は四人一組で、地下迷宮型の実技訓練を行う」
魔法実技の教師、レグルス先生がそう言った瞬間、教室の空気が少しだけ浮いた。
生徒たちは、椅子を引いて立ち上がる。
名前を呼ぶ声。
誘い合う声。
断られて笑う声。
誰かの机に集まる足音。
そういうものが、教室の中でぱらぱらと弾けた。
リディアは、少し遅れて立った。
別に、誘われるのを期待していたわけではない。
期待していない、と思うことにしていた。
「フィオナ、こっち入って!」
「カイル、剣使えるし前衛でしょ」
「ネリ、お願い。回復役ほしい」
名前が次々に飛ぶ。
リディアは、自分の名前がその中にないことを確認してから、胸元に手を置いた。
服の下に、黒い石の首飾りがある。
小さいころ、母がくれたお守りだった。
母は、これを肌身離さずつけていなさいと言った。
なぜ、と聞いたこともある。
母はそのたびに、少しだけ困った顔で笑った。
「あなたを守ってくれるから」
それだけだった。
黒い石は、いつも少し冷たい。
指で包んでも、体温が移らない。
まるで、こちらに慣れる気がないみたいに。
「あれ?」
隣の席のミーナが振り向いた。
「リディア、まだ班決まってないの?」
「うん」
「ごめん。さっき声かけようと思ってたんだけど、もう埋まっちゃった」
「大丈夫」
リディアは笑った。
ミーナは優しい子だ。
だから、たぶん本当に声をかけようと思っていたのだろう。
ただ、その途中で忘れただけだ。
リディアには、そういうことがよくある。
授業で配られる紙が一枚足りないとき、たいてい彼女の机には何もない。
掃除当番の表から名前が抜けていて、先生があとから慌てて書き足す。
昼休みに友だちと約束しても、相手は別の子と食堂へ行ってしまう。
誰も悪くない。
それが一番、困る。
「リディア・アークライト」
先生に呼ばれた。
「はい」
「君は、余った者同士で組みなさい」
先生の杖が、教室の後ろを指した。
そこには三人の生徒がいた。
ひとりは、銀色の短い髪をした少年。ユアン。
剣術科から魔法科へ移ってきた変わり者で、いつも少し不機嫌そうな顔をしている。
ひとりは、小柄な少女。ネリ。
回復魔法は得意なのに、実技場に入るとすぐ顔色が悪くなる。
もうひとりは、黒髪を後ろで結んだ少年。テオ。
授業中によく寝ている。けれど、試験では不思議と落ちない。
余りものの班。
誰かが小さく笑った。
リディアは、それに気づかないふりをして、三人のほうへ歩いた。
「よろしく」
ユアンがリディアをちらりと見た。
「いたのか」
「うん。いたよ」
「悪い。気づかなかった」
「大丈夫。よくあるから」
ネリが慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。私も、先生に言われるまで……」
「本当に大丈夫」
また笑った。
笑うのは、便利だった。
相手が安心する。
自分も、傷ついていないふりができる。
テオだけが、黙ってリディアを見ていた。
「君、足音が薄いね」
「足音?」
「あと、気配も。わざと?」
「そんな器用なこと、できないよ」
「じゃあ、変だ」
「初対面で言うこと?」
「二回くらい同じ授業を受けてる」
「あ、そうなんだ」
「うん。君もたぶん、僕のこと覚えてないでしょ」
リディアは少しだけ困った。
たしかに、テオのことは名前くらいしか知らない。
テオは眠そうな顔のまま言った。
「お互いさま」
その言い方が少しだけおかしくて、リディアは笑いそうになった。
けれど、その前に実技場の鐘が鳴った。
*
地下迷宮型の訓練場は、学校の古い地下に作られている。
壁は灰色の石。
天井は低く、魔石の灯りが青白く揺れている。
奥にある赤い旗を取って、全員で戻れば合格。
出てくる魔物は、本物ではない。
魔石で作られた影の魔物。
爪で引っかかれれば痛いし、剣で打たれれば倒れる。
けれど命を落とすことはない。
レグルス先生は、入口の前で言った。
「今日の課題は、互いを見失わないことだ。実戦では、強い者が一人いるだけでは足りない。全員で戻れ。ひとりでも欠ければ失格とする」
互いを見失わないこと。
その言葉が、リディアの胸に少し刺さった。
見失われるのは、得意だった。
扉が閉まる。
中は冷えていた。
ユアンがすぐに剣を抜き、前へ出る。
「俺が先頭に立つ。お前たちは後ろにいろ」
ネリが小さくうなずいた。
テオは壁を見ている。
リディアは、通路の右側に埋め込まれた魔石の光が、少しだけ揺れていることに気づいた。
右の奥に、広い空間がある。
たぶん、そこから何か来る。
言ったほうがいい。
そう思った。
「あの」
声が小さくなった。
ユアンはもう歩き出している。
「ユアン、右が」
「何だ?」
「右から、何か来るかも」
「見えるのか」
「見えないけど、光が揺れてて、たぶん風が」
「たぶんで止めるな。進むぞ」
リディアは口を閉じた。
自分でも、確信がなかった。
もしかしたら気のせいかもしれない。
自分が強くないから、怖がっているだけかもしれない。
次の瞬間、右の壁の影がふくらんだ。
黒い狼が飛び出す。
「ユアン!」
リディアは杖を構えた。
火の魔法を出そうとする。
遅い。
魔力を集める。
形にする。
狙いを決める。
他の生徒なら、まばたきの間にできる。
リディアには時間がかかる。
ユアンは狼の爪を剣で受け止めた。金属の音が通路に響く。
ネリが悲鳴をこらえる。
テオが壁際へ逃げるように動く。
リディアの火球が、ようやく手元に生まれた。
でも、ユアンと狼の距離が近すぎる。
今撃てば、味方に当たる。
「どいて!」
リディアは叫んだ。
ユアンが振り返る。
その一瞬で、狼の体が低く沈んだ。
爪がユアンの腕をかすめる。
血が飛んだ。
リディアは焦った。
今、撃たなきゃ。
そう思って、火球を放った。
遅れた魔法は、狙いも乱れた。
火球は狼ではなく、ユアンの足元に落ちる。
「うわっ!」
小さな爆発。
ユアンが体勢を崩した。
狼がその隙に飛びかかる。
テオが短剣を投げた。狼の首元の魔石に当たる。
黒い狼は煙になって消えた。
通路に、焦げた匂いが残った。
リディアは杖を握ったまま、動けなかった。
「ごめん」
声がかすれた。
「ごめん、私」
ユアンは腕の傷を押さえながら、顔をしかめた。
「次から、撃つなら言え」
「言った」
「聞こえなかった」
「……うん」
ネリが慌ててユアンの腕に回復魔法をかける。
「浅い傷です。でも、痛みは残るかも」
「問題ない」
ユアンはそう言ったが、明らかに怒っていた。
いや、怒っているのは当然だ。
リディアは、助けようとして失敗した。
自分は、やっぱり足手まといだ。
胸元の首飾りが冷たくなる。
まるで、その通りだと言われているみたいだった。
*
その後、リディアはあまり話さなくなった。
危ないと思う場所は何度かあった。
でも、口に出す前に考えてしまう。
また間違っていたら。
また声が届かなかったら。
また誰かを傷つけたら。
ユアンは先頭を進む。
ネリはその後ろ。
テオは壁や床を見ながら、時々立ち止まる。
リディアは一番後ろを歩いた。
そのほうが、邪魔にならない気がした。
奥の部屋に着いた。
石台の上に、赤い旗が立っている。
部屋は広い。
天井も高い。
床には古い傷が、いくつも円を描くようについていた。
リディアは足を止めた。
何かある。
そう思った。
でも言えなかった。
ユアンが旗へ向かって進む。
言わなきゃ。
リディアは口を開く。
「あの、床が」
「またか?」
ユアンの声に、リディアはびくっとした。
怒っているわけではない。
たぶん、さっきの失敗のあとだから警戒しているだけだ。
でも、その一言でリディアの声は小さくなった。
「……何でもない」
ユアンは一瞬こちらを見たが、そのまま旗に手を伸ばした。
旗が石台から離れる。
その瞬間、天井から黒い影が落ちてきた。
人の形をした影の騎士。
大きな剣を持っている。
ユアンが剣で受ける。
重い音が響く。
さっきの狼より、ずっと強い。
「くそっ!」
ユアンが押し込まれる。
ネリが震えながら回復の準備をする。
テオが背後に回ろうとするが、騎士の影が広がり、道をふさぐ。
リディアは杖を構えた。
今度こそ助けたい。
火ではだめ。
味方に当たる。
足元を止める魔法なら。
そう考えて、光の糸を作ろうとする。
でも遅い。
遅すぎる。
ユアンが弾き飛ばされ、床を転がった。
ネリが悲鳴を上げる。
影の騎士が剣を振り上げた。
狙いはネリだった。
「ネリ!」
リディアは走った。
魔法では間に合わない。
だから体でかばうしかない。
ネリの前に飛び出す。
影の騎士の剣が振り下ろされた。
死ぬことはない。
訓練場の魔物だから。
そう頭ではわかっているのに、体は本気で恐怖した。
そのときだった。
リディアの胸元に、冷たい痛みが走った。
影の剣が、首飾りの鎖をかすめた。
細い銀の鎖が切れる。
黒い石が、宙に浮いた。
時間が、急に遅くなった。
リディアの目の前で、母のお守りが落ちていく。
石が床に触れた。
かつん、と小さな音がした。
その瞬間。
世界が、息を吸った。
リディアの体の奥から、何かがあふれた。
熱ではない。
光でもない。
もっと大きなもの。
ずっと深い井戸の底に押し込められていた水が、地面を割って噴き出すように。
音が消えた。
ユアンの叫びも。
ネリの息も。
テオの足音も。
影の騎士の剣が風を切る音も。
全部、遠くなった。
かわりに、別のものが見えた。
壁の中を流れる魔力。
床の古い魔法陣の傷。
魔石が灯りを出す仕組み。
影の騎士を動かしている小さな核。
全部、見えた。
見えてしまった。
リディアは、ただ手を伸ばした。
止まって。
そう思っただけだった。
影の騎士の体が、白い光に包まれた。
次の瞬間、騎士は音もなく消えた。
爆発ではない。
燃えたのでもない。
最初からなかったみたいに、消えた。
部屋の壁に、巨大な魔法陣が走る。
迷宮全体が震えた。
天井から石の粉が降る。
魔石の灯りが、一斉に白くなる。
ネリがリディアの名前を呼んだ気がした。
でも、その声は水の中から聞こえるようだった。
リディアは自分の手を見た。
震えている。
怖い。
何が起きているのかわからない。
自分がやったのかも、わからない。
ただ、体が軽かった。
そして、自分が大きくなりすぎたような感じがした。
今まで世界に薄く溶けていた自分が、急に世界の真ん中へ引きずり出されたようだった。
そのとき、迷宮の奥で黒い羽音がした。
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