銀竜草
声なき祈りが、銀の滴となって、白い竜鱗を濡らした。
そこから出た白い芽はすっくと立ち、銀竜草となった。
草には根があるはずだった。根を持ちながら、なお歩いた。
銀竜草は、咲くより先に、歩くことを選んだ。
――約束だよ。
鱗に残る声と花冠を胸に、願いを拾い、ぬかるみを踏んで。
足を取られても、その白は決して濁らなかった。
あの夜、誰も聞かなかった願いがあった。
けれど、雲だけは聞いていた。
雨音は語りかける。
「そこに、まだ声が残っているよ」と。
大きな雨粒が小さな身体をたたく。
それでも銀竜草は歩くのをやめなかった。
痛みも寒さも、とうに銀竜草のなかを通り過ぎていた。
風も、音も、なかった。
一歩ごとに、土はやわらかくなっていく。
水を吸った根がどこかで脈打ち、
足元から確かな命の鼓動を伝えてくる。
誰かが泣いていた場所へ。
小さな祈りが眠る地へ。
銀竜草は、言葉を持たない。
だからこそ、沈黙のまま、まっすぐに向かう。
雨の合間。雲居の空から差した星あかりが湖の位置を示した。
草の身体は湖に敵わない。
きっと、呑まれてしまう。
それでも行かねばならなかった。
花冠の子の光が、まだ沈んだままだったから。
銀竜草は奥でこだまする誓いに身体を震わせた。
そして、とまることを、諦めた。
銀竜草は、湖に身を沈めた。
白かった草は、透明に変わりながら、まるで初めから湖の一部だったかのように溶けていった。
次の瞬間。
夜の光を受けた水面が静かにざわめき、銀のうろこが煌めいた。
透明から月白色に身を変えた大きな竜が、水面下をゆらりとおどり舞う。
銀竜草は、竜の姿となって湖を泳いだ。
雨の記憶をたどるように。
――忘れてもいい。けれど、消えてはいけない。
記憶の中の泣いている花冠の手の中に、小さな願いの鱗があった。
水越しの声が、忘れたはずの約束を呼び戻す。
だからこそ、水の底にうもれる“花冠の光”を拾い上げにいく。
天に昇るように深い水底へ向かう。
水圧がゆく手を遮る。
記憶の扉を拒むように水はうねる。
どれほど深く沈んでも。
あの夜の声が、胸の奥で泡のように浮かんでくる。
それでも竜は底に向かう。約束を思い出したから。
あの夜願ったのは、『ひとりにしないで』。
忘れられた想いは、まだ、湖の底で光っていた。
頭上に光の輪をすくいあげ、
反転──銀の尾がひらめく。水底を打ち、風を割る。
一気に湖を、空を駆け、光をかえしにいく。
空と水の境が溶けてゆく。
銀竜草は、ちょうどその継ぎ目を裂くように翔けた。
湖が音を失った。光だけが、尾を引いて駆けていく。
──待たせたね。
蒼穹の果て、夜と星の隙間に、枝先がひとしずくのように空に滴っていた。
そこに、待ち続けていたものがいた。
銀竜草が差し出したのは、夜の光を宿した、ひとつの銀の輪だった。
朽ちた花冠の代わりに、今、銀の輪を額に受けた。
待ち続けたものの目に、涙が光る。
その涙がひとつ、空に吸い込まれると、星がまばたいた。
銀の輪を額に受けた“誰か”の影がふっと揺れた。
次の瞬間には、そこにはもう、“月”しかいなかった。
銀竜草は静かに確信した。
やっと、たどりついたのだと。
静寂の中、月光がこぼれ、ひとつの芽が生まれる。
凍てついた記憶を破り、透明な芽が空を裂く。
根は水底に、枝は空に。
芽吹きは、凍てた空に差し出す心音のようだった。
それは、誰にも告げない春の名を呼んだ。
「帰ってきたね」
月の声は小さすぎて聞こえない。
けれど確かに、銀竜草の心に懐かしいあたたかさが届いた。
雨も風も凪いで、空が静止する。
光の粒が降る。
記憶。約束。名もなき誓い。忘れられた願い。
――そう、覚えていたんだね。
ここにいる。
銀竜草の心には、そう言ったように思えた。
深い美山のその奥、銀竜の眠る青い青い湖の横。
銀竜草の群れは、月を眺めるようにまた、咲いた。
もう二度と、忘れられぬように。




