第18話:新しい朝の光
翌朝。
さくらは鳥のさえずりと、階下から漂う、お味噌汁のいい匂いで目を覚ました 。
怒鳴り声も、緊張した空気もない、穏やかな朝。
何年ぶりだろう、こんなふうに目が覚めるのは。
恐る恐る体を起こすと、
枕元には真新しい子供用の歯ブラシと、タオルが置いてあった。
部屋の窓辺では、
朝日を浴びてキラキラと輝く大きなガラスの金魚鉢の中で、
ポテトが、気持ちよさそうに浮かんでいた。
さくらが昨日まで持ち歩いていたビニール袋とは
比べ物にならない、広くて立派なお城だ 。
「おはよう、さくらちゃん!新しい僕たちのお城からの眺めは最高だよ!」
ポテトの元気な声に、さくらは、「うん、おはよう」と小さく笑った。
昨日までの冒険が、まるで遠い昔のことのように感じられる。
階下に降りると、エプロン姿のおばあちゃんが
「あら、起きたのかい。よく眠れたかい?」
と、優しい笑顔で迎えてくれた。
昨日の涙には一切触れず、ただ温かい朝食を、
食卓に並べてくれる。
湯気の立つご飯、豆腐とわかめのお味噌汁、
ふっくらと焼かれた玉子焼き。
さくらの目の前に置かれたお茶碗は、
可愛らしいピンク色のうさぎの柄だった。
「さあ、たくさんお食べ。大きくなるんだよ」
さくらは恐る恐る、箸を手にした。
昨日まで、食べ物には毒が入っているような気がして喉を通らなかったのに 、
おばあちゃんの作ってくれたご飯は、とても美味しそうに見えた。
一口食べると、じんわりと優しい味が口の中に広がる。
凍っていた心が少しずつ、溶けていくのが分かった。
「…おいしい」
ぽつりと呟く。
おばあちゃんは、「そうかい、よかった」と、
自分のことのように嬉しそうに目を細めた。
朝食の後、
おばあちゃんは「少し、外の空気を吸おうかね」と、さくらを裏庭に誘った。
そこは、さくらが今まで見たこともないような、緑いっぱいの世界だった。
真っ赤に実ったトマト、大きく育ったきゅうり、
色とりどりの花々が咲き乱れている。
「すごい…!」
「みんな、さくらちゃんが来るのを待ってたんだよ。
この子たちに、お水をあげてくれるかい?」
おばあちゃんから、小さなじょうろを手渡される。
さくらは、ポテトの入った
新しいお城(持ち運び用の小さな水槽)を畔道に置くと
一つ一つの野菜や花に、水をやり始めた 。
「見て、さくらちゃん!本物のジャングルみたいだ!僕たち、探検家だね!」
ポテトが興奮気味に言うと、さくらは「あははっ」と、大きな声を上げて笑った。
そんなさくらの笑い声を聞いたのは、ポテトもはじめてだった。
「よかったね。さくらちゃん」
土の匂い、草の感触、温かい太陽の光。
そのすべてが、さくらの心を癒していく。
お母さんのヒステリックな声も、
【悪い声】の囁きも、この優しい世界では聞こえてこない 。
◇
午後は、家の縁側で過ごすことが多くなった。
おばあちゃんが淹れてくれた麦茶を飲みながら、
二人で並んで、庭を眺める。
時々、おばあちゃんが昔の話をしてくれた。
「あの隅っこにある柿の木はね、さくらのお母さんが生まれた年に植えたんだよ」
「ママが…?」
「そうだよ。あの子も小さい頃は、この庭で泥んこになって遊んでたんだ」
おばあちゃんは、決してアヤを悪く言わなかった。
ただ、遠い目をして、懐かしむように語るだけだった。
その穏やかな口調が、さくらの心から
母親への恐怖を少しずつ、取り除いていった。
ある日、さくらは押し入れの奥から古いアルバムを見つけた。
中には、自分と同じくらいの歳の、
笑顔の母の写真がたくさんあった。
「ママだ…。笑ってる…」
隣で見ていた、ポテトが囁く。
「さくらちゃんにそっくりだね。きっと、この頃はまだ、
悲しい魔法にかかってなかったんだよ」
さくらは、写真の中の母の笑顔を、指でそっと撫でた。
◇
夜になると、おばあちゃんはさくらをお風呂に入れてくれた。
庭で採れたハーブを入れたお風呂は、とてもいい香りがする。
そしてベッドに入ると、必ず絵本を読んでくれた。
優しい声で語られる物語は、さくらを穏やかな眠りの世界へと誘う。
「おばあちゃん、もう一回読んで」
「はいはい。じゃあ、これが最後の一回だよ」
おばあちゃんは嫌な顔一つせず、何度も、
同じ物語を読んでくれた。
さくらは、その声を聞いているうちに、
いつの間にか、すうっと眠りに落ちるのだった。
ある夜、さくらはふと目を覚ました。
隣で眠っているはずのおばあちゃんが、
静かに、さくらの頭を撫でていた。
「大丈夫だよ、さくら。もう、怖いことは何もないからね。
おばあちゃんが、ずっと、そばにいるから」
その声は、深く、温かい、無条件の愛に満ちていた 。
さくらは、ようやく安心して眠れる場所にいることを実感し、
再び、安心して夢の世界へと沈んでいった。
ポテトもまた、月明かりに照らされた水槽の中から、
その光景を静かに見守っていた。
騎士と姫がたどり着いたゴールは、
傷ついた心を癒し、失われた時間を取り戻すための、
魔法に満ちたお城。
さくらとポテトの、本当の冒険は、
まだ始まったばかりなのかもしれない。




