10: 二人の公爵と妖精の薬
リーフェットが、お菓子がアンの魔術対価であるという持論を取り下げざるを得なくなったのは、数日後の事だった。
その日は朝から冷たい雨が降っていて、少しだけ冷えるなと思い毛布を引き上げる。
窓の方を見れば、カーテンの隙間から青白い光が覗いていた。
こんな風にぬくぬくと眠る喜びを知ったのは、こちらに来てからだ。
ジリアムからは、二度寝という退廃的な文化があるのだと教えて貰った。
(そう言えば、傘を持っていなかったわ)
それもまた買い物リストに加えるべきだろうか。
そんなことを考えながら、先日初対面したばかりの朝食のベーコンなるものの素晴らしさにも思いを馳せる。
まだ温かな寝台の中にいたいけれど、そろそろアンが起こしに来る頃かなと寝台の中でもそもそしていると、がたんと、廊下で重たい物が倒れるような音がした。
「アン!!」
慌てて起き出して部屋を出ると、アンが廊下に倒れているではないか。
二人で初めて買い物に行った日の夜と同じように、ぐったりと目を閉じていて酷い顔色だ。
リーフェットは、倒れているアンの頬に触れその冷たさに竦み上がると、慌てて部屋に駆け戻り、昨日、レイヴィアから貰ったばかりのお菓子を持ってきた。
「アン、お、お菓子を食べて下さい!!」
包装紙を剥し、必死に唇に押し付けると僅かに瞼が震え、アンが薄っすらと瞳を開いた。
ふうっと苦し気に息を吐き、リーフェットが食べさせようとしているお菓子を見て、困ったように微笑む。
その表情があまりにも優しくて、リーフェットは堪らなく悲しくなった。
「………いてて。昨日の残業が効いたかな。………リーフェット、こういう場合は君が抱き締めてくれた方がいいんだが………」
「でもまずは、お菓子を…………!!」
「話しただろう?僕は、日に五回はお菓子を食べないと倒れるくらいにお菓子は好きだけれど、それで健康を保っている訳ではないんだ。でも、僕のリーフェットが手づから食べさせてくれようとしたものだから、後でいただくよ」
「……………もしかして、お菓子では、元気になれないのですか?」
「そうだなぁ。心は元気になるよ。甘いものが好きだからね」
悪戯っぽくそう笑うと、アンは、その微笑みを崩さずにゆっくりと体を起こした。
伸ばされた手に小さな手を重ね、リーフェットは、焼き菓子を持ったままアンの腕の中に収まる。
体はまだぞっとする程に冷たかったが、前回ほどの重症ではないようだ。
だが、この微笑みはリーフェットを安心させようと無理矢理浮かべてくれているのがよく分かる。
(……………お菓子が、魔術対価じゃない)
それは、愕然とするような事実であった。
ただでさえアンの体調を案じていたのに、その切り札だと思っていたものが見込み違いだったなんて。
(でも確かに、人外者はお気に入りの嗜好品を得ると、力を増したり美しくなるという)
となれば、アンにとっての菓子類はそういうものなのだろうか。
だが、具合が悪い時にそれを防ぐために取り込む嗜好品に過ぎないのであれば、特効薬がないということになる。
これでは、薬ではなく、ただの嗜好品ではないか。
「ごめんよ。心配をかけたね。病弱な男となると格好がつかないなぁ」
「……………お薬などは、ないのでしょうか?」
「今のところ、リーフェットがくっついていてくれるのが、一番の薬かなぁ」
「もっと、ぴしゃりと治るやつです!!」
「それは、……………現状では難しいね。何しろこの土地には、僕達を育んだ祝祭と同一のものがない。とは言え、僕もなかなかに優秀だから、使い勝手を間違えなければこんな風にはならないよ」
「……………本当に?」
くすんと鼻を鳴らしてリーフェットが問いかけると、くしゃりと笑ったアンがおでこをこつりと突き合わせる。
「本当に。ある程度なら、自分で使う魔術量くらいは僕自身が生み出せるよ。ただ、ついつい今迄の暮らしの癖が抜けなくて、線引きを間違えてしまう。もう少ししたら、僕も色々と慣れるだろう」
「生活費が足りないのなら、私も働きます…………」
「こら。その姿で、僕の心を抉ることを言わないでくれ。この国では君の年齢では働けないし、僕がこうして国の中央に居座っているのは、新しい土地で安全に生きていく為の基盤を作る必要があるからだ。どちらも時間をかけて解決出来る問題だから、こんな風になってしまうのは最初の内だけだよ」
(……………本当に?)
けれどもそれまでの間、アンは負担を溜め込み続けるのだろう。
必要なものを揃えて落ち着ける頃まで、体が保つという保証はない。
そう考えたリーフェットが悲壮な面持ちになったからか、アンが小さく笑って髪の毛を撫でてくれた。
「泣かないで、リーフェット」
「……………にゃぐ、泣いていません。……………それに、変です。以前はこんな風に泣かなかったのに、最近はすぐに心がぐわんと動いてしまいますし、涙もすぐに出てきてしまいます」
「……………ああ。それはきっと、体の年齢に合わせて心が柔らかくなっているんだろう。でも、いいことだよ。子供の内にしか伸ばせない可能性や思考は必ずある。だから、いいやり直しの機会だと思って、新しい暮らしの中で沢山のものを得ていくといい」
「……………本当は、あの王女様と同じくらいの年齢なのに」
「どうかな。……………今の君の状態は、状態変化ではなく時間の巻き戻しなのだろうから」
「……………まきもどし」
アンの言葉に、リーフェットはぴしりと固まった。
(……………思い当たることが、……………なくはない)
処刑の日の夜のリーフェットは、自分を過去に戻したつもりであった。
だがもし、あの刺繍魔術が、リーフェットの肉体そのものの時間を巻き戻していたとしたら。
(……………まさか、何年も経たないと、元の年齢には戻れない……………)
「むぎゃわ!!」
「え、リーフェット?!ど、どうしたんだい?」
「じ、じこなどの、いちじてきなものではないのですか?!」
「……………うん。多分、…………いや、回復や調整が出来ないとは限らないけれどね」
「……………なんとしても、その術も見付けてみせます。ちびころのまま、何年も暮らすつもりはありません………」
「可愛くていいと思うのだけれどなぁ」
アンはそう苦笑していたが、リーフェットには淑女の矜持がある。
そうそう何年も、みんなにふりふりのドレスを着せられたり、髪の毛をリボンで結ばれたり、頬っぺたをつんつんされる辱めに甘んじるつもりはなかった。
(でも、今はアンの事が最優先だわ。どちらにしても、暫くは元に戻る余裕もない…………)
「アン、………少しだけ、体が温かくなりました?」
「うん。君がいるからだろう。今日は、クレア公爵とジスファー公爵との顔合わせだから、午後までには何とか見られるようになっておかないと。ただ、今朝は少し朝寝坊しようか」
「…………また、私が抱き枕にされるのです?」
「僕の可愛い弟子は、年老いた師を大事にしてくれるんだろう?」
そんな表現が似合わないくらいに美しいアンが微笑むと、最近のリーフェットは少しだけ胸がざわざわするようになってきた。
それは、アンブラン王に恋をしていた頃とは違う、もう少し切ない不思議な感情だ。
見込みのない憧れるだけの恋なんかよりも、もっと手に負えないもの。
(……………いなくならないで)
その小さな願いを、強く強く握り締める。
これまでのリーフェットの思いは、淡い恋心を自分だけで抱き締めるような一方的なものだった。
でも今は、アンがここにいて、その手をしっかりと掴むことが出来る。
(そのせいで、いつの間にか、沢山のことが怖くなってしまった)
子供の心になったからなのかもしれない。
でも、こうしてアンが側にいてくれて、レイヴィア達も大事にしてくれるから、得られて初めてそれを失うということが恐ろしいものを沢山知ったような気もする。
だからどうかどこにも行かないでと、泣きたくなるような思いで、そっと新しい願い事を抱き締めた。
(一人ぼっちは寂しくて惨めだったけれど、誰かがいると、こんなに怖いこともあるのだわ)
「はぁ。…………リーフェットがいなかったら、僕は早々に寝込んでいたなぁ」
「し、仕方がありませんね!お隣にいます」
「うん。………こんな朝に廊下に出ていたせいで、すっかり冷えてしまったな。寒くないかい?」
「ぎゃ!倒れたばかりなのに、室温の魔術を使おうとするのはやめて下さい!禁止ですよ!!」
リーフェットはアンの寝室に持ち帰られ、もう一度ぬくぬくとした毛布に包まる。
これは色々な意味で駄目なやつの気もするが、一応は介護にあたるので当面はよしとしよう。
リーフェットだって、アンが元気になれば、清純な乙女に何をするのだと寝台から蹴り落とす準備は出来ている。
だから、早く元気になって欲しい。
やっと、やっと、リーフェットが欲しくて堪らないものを見付けたのだから、どうか誰もアンを取っていきませんように。
「アン、何かお話をしてあげましょうか?」
「……………リーフェット。それは、こういう状況下で男に言うと、割と心が死ぬやつだからね」
「むぅ。ですが、具合が悪い方を寝かしつける場合は、絵本の読み聞かせなどが有効だそうです」
「七歳くらいまでにしておこうか。因みに僕は、千単位でそれよりも年上だから、絵本はやめてくれ」
「千……………。思っていたよりもずっとご高齢でした」
「言わなきゃ良かった!」
「……………来年は、一緒にお誕生日が出来るでしょうか?」
リーフェットがそう言えば、こちらを見ていたアンが驚いたように目を瞠る。
いつだって優しく微笑んでいるが、どこか遠く感じるアンは、こんな表情をすると途端に無防備に見えた。
「君は、やったことがあるかい?」
「ありません。ですが、誰かとケーキを食べるのだそうですよ」
「ふうん。…………それなら、僕にも合いそうだな。次の夏至祭は、とっておきのケーキを買おうか」
「はい!」
ずるをして一年後の約束を取り付け、リーフェットは大満足で二度寝に入った。
まずは一度眠ったふりをしてから、目を閉じたアンがちゃんと眠っているのかを確かめる。
やはり消耗しているのか、目を閉じたアンが深い呼吸に変わったところで、リーフェットもくあっと欠伸をした。
(……………お薬。……………何か、アンの症状を緩和する為のものを、どこかで用意出来ないかしら)
アンの体調を見ながら色々考えようとしたのだが、途端に眠たくなってきた。
子供の体のせいであっという間に眠気に攫われつつ、リーフェットは必死に必要なものを思い描く。
家族と同じ魔術を受け継いでいないと知った日から、薬や治癒に関しては散々調べてきた。
そして、そんな本のどこかには必ず、妖精は薬作りが得意だと書かれていたのだ。
午後からの顔合わせが終わったら、やはりレイヴィアと話をした方がいいのかもしれない。
すとんと眠りに落ちると、その向こうで誰かが優しく微笑んで、眠っているリーフェットの頭を撫でてくれたような気がした。
「…………こ、これは何なのでしょう」
そしてその数刻後、リーフェット達は、予定通りにクレア公爵邸にて二人の公爵と対面していた。
そして、後見人に妖精の薬作りについて聞く予定で張り切っていたリーフェットは、新たな試練に直面しぶるぶると震えている。
「……………どうだ。私の選んだものが正解だっただろう」
「ふむ。髪は下ろしたままでもいいと思うが、愛くるしいことに変わりはない」
「私のことは、じぃじと呼んでも構わないからな?」
「……………父上」
「レイヴィアは黙っていなさい。どうして私には、可愛い女の子の孫がいないんだ」
「兄上のところに、リチャードがいるでしょう」
「あの子も世界一可愛いが、男の子と女の子は違うだろう」
「……………君はいいじゃないか。うちは、孫そのものがいない。……………アンブラン、君は、リーフェットと一緒に僕の養子に入るつもりはないか?」
「はは、それはご遠慮します。僕の性質的に宜しくないし、お嫁さん候補と兄妹にするのはやめていただきたい」
「それならリーフェット、おじさんのお家の子供になるかい?」
「ジスファー公爵、彼女の後見人は俺ですので」
「くっ、いけすかない若造め!結婚もまだの君が、どうしてこの子の後見人なんだ!!」
「それは、魔術省の者達が彼女の観察記録を付けると息巻いたせいでしょうね」
「あの馬鹿どもめ!」
があっと吠えた白髪の男性は、髪こそ白髪になっているものの、男性的な魅力も充分に備えた鷲のような風貌の男性である。
この国の魔術公爵であり、魔術省を統括するジスファー公爵その人だ。
だが現在は若干残念なことになっており、孫を得損ねた元凶だとして、魔術省の役人の何人かを減俸処分にしてやると呟き、アンに宥められていた。
「……………レイヴィアがこの子を捕まえたら、私は、お義父さんと呼ばれるのか」
その向かいの席に座り、レイヴィアにそんな提案をしているのはクレア公爵だ。
奥様が妖精の女王という目線で見ずとも、栗色の髪に緑の瞳の青年のような容貌が人外者に好まれそうな御仁である。
黒一色の装いのジスファー公爵に対し、淡い檸檬色の装いなので昼と夜のような対比であった。
「……………ふぇ。変な人しかいません」
「もうちょっとの辛抱だ。僕のリーフェットが、そのドレスでくるっと回って微笑みかければ、いい後援者が増えるからね」
「ぐぬぅ…………」
「たいへん作為的だが、この愛くるしさなら、今後の支援も吝かではないな」
「よーし。じぃじも、何か買ってあげよう」
「父上!!」
「ず、狡いぞ。僕だって何か買おうじゃないか!!」
「……………おかしいな。僕の研究資金よりも先に、弟子への贈り物が増えようとしている」
かねてより、ジスファー公爵がアンの屋敷の来訪調査を明言していたのは、クレア公爵と親交があったからなのだとリーフェットは今日初めて知った。
第一王子派と第二王子派で派閥を分けている割には、悪友のようなやり取りが多いので、こうなってくると、第一王女派さえなければこの国の団結はかなり固いのではないだろうか。
そして、本日の席が設けられたのは、先日の第一王女によるリーフェットの連れ出しがあったからだった。
(でもなぜ、ふりふりのドレスを着せられて、ここに立たされているの?!)
顔合わせの理由そのものは真っ当なので、リーフェットが混乱しているのは、主にそこに理由がある。
約束の時間の少し前にクレア公爵邸の侍従がアンの屋敷を訪ね、クレア公爵からの贈り物としてこのドレスを持ってきた。
大変可愛らしいドレスではあるが、何しろフリルが多過ぎる。
子供用のドレスにしてもかなり甘めのデザインなので、こんな装いに縁のなかったリーフェットは恥ずかしさのあまりに息絶えそうであった。
立たされているとは言え、二人の公爵は、リーフェットにも座るようには促していた。
ただし、その椅子相当のものが、各自のお膝の上なのが事案に他ならない。
レイヴィアも父親を止めているが、どうやら頭が上がらない相手のようだった。
「よし、勝ったぞ!!」
「カードなんて!お前は、魔術でずるが出来るだろう!」
「勝負は勝負だ。さて、リーフェット。おじさんのお膝においで」
「ふぇ……………」
「ジスファー公爵、彼女の後見人は俺なのですが…………」
「ふん。ベルティーナ王女の我が儘に振り回され、この子を危険に晒したのは君だろう」
「………それを言われると、立つ瀬もありませんが」
「ぎゃ!」
リーフェットは立ち上がってこちらに来たジスファー公爵にひょいと抱き上げられてしまい、そのまま膝の上に座らせられることになる。
初めましての直後にあってはならない境遇だが、この公爵が溺愛していたという妻子を事故で亡くしていると知れば、何だか抵抗し難いのも事実だ。
(それに、………悪い人じゃない気がする)
厳しい面立ちだが、ジスファー公爵はリーフェットがこんな父親がいればいいなと思い描いていた人物像にとても近い。
そのせいで、少しだけ油断してしまうのだ。
「リーフェットはケーキは好きかな?」
「けーき…………」
「今日は、栗のタルトとオレンジとチョコレートのケーキ、林檎のパイ、桃のクリームケーキを買ってきたんだ」
「林檎のぱい!」
「では、それにしようか。用意してやってくれ」
「……………私の息子の屋敷なのだが?」
「市井で有名な菓子店のものだ。……………アン、君にも持ち帰り用のタルトを買ってきてやったぞ。今後も励むように」
「はは、さてはリーフェットと引き合わせたご褒美ですね」
クレア公爵は顔を顰めていたが、すぐに、ジスファー公爵の買ってきたケーキを用意させていた。
このあたりの気安さがやはり、二人のこれまでを語っているような気がする。
「あ、僕はタルトがいいなぁ」
「……………君は、菓子類の選択になると、全く遠慮しないな」
「タルトが好物なんですよ。………ジスファー公爵は、どうせ栗のケーキでしょう?」
「それなら、私は桃のケーキだな」
「…………では俺が、オレンジのケーキにしましょう」
わいわいとケーキを決め、紅茶の準備が済むと本格的にお茶会の様相となる。
ケーキを食べる間はと、リーフェットも普通の椅子に移して貰えてほっと胸を撫で下ろした。
ゆったりと座れる椅子は程よい硬さのクッション張りになっていて、リーフェットの座る椅子だけ、高さを補う為にクッションを重ねてある。
背中の後ろにもクッションを入れてくれたので、後ろに転げてしまう心配がないのが素敵なことだ。
「さて、第一王女の最近の振る舞いについてだが、やはり季節的なものかね」
ケーキ皿を置いてからそう切り出したのは、クレア公爵だった。
レイヴィアもそうだが、武門の貴族なだけあり食べるのが早い。
「そちらが動かないので、陛下も痺れを切らしたのではないかな?第二王子殿下は、いつ外遊から戻られるのやら」
「それを言うのであれば、第一王子もそうだろう。……だが、ギャレリーアン魔術顧問に一任して、現実問題どうなのだ」
「率直に申し上げると、王女殿下に頭を下げる訳にはいきませんが、いささか苦しいですね。ジスファー公爵にはお伝えしてありますが、僕はどちらかと言えば夏が本領です。晩秋から冬に向かうこの季節に、冬の系譜の嵐がくるとなると相性が悪くて」
アンが素直にそう言ってくれたのを聞き、リーフェットは安堵した。
この国で大きな力を持つ者達にその情報を共有しておけるだけでも、いざという時に一安心だろう。
それに多分、ここにいる二公爵は、アンの敵にはならないような気がする。
「どうにか手札を切って回避しろと言った筈だが」
「後見人殿は、無茶を言うなぁ。王女殿下は誕生日の準備の真っ只中だ。こんな時期に近付こうものなら、婚約者か何かとして献上されかねないんだぞ。その提案を先に断った君のせいで、僕が煽りを受けている状態だ」
「……………レイヴィア様は、王女様に求婚されていたのです?」
「リーフェット、様はいらないと話しただろう?」
「なんだ、まだそのような段階なのか。私の方が先にじぃじに昇格してしまったではないか」
「父上……………。小さな子供に、その呼び方を強要するのはどうかと思いますよ」
ともすればすぐに話題が逸れてしまうので、リーフェットははらはらした。
じぃじでも何とでも呼ぶので、アンに任された嵐の対策についての話を進めて欲しい。
(でも今の様子からすると、第一王子派のジスファー公爵は、第二王子殿下に早く帰国いただきたいようだったわ。もしかして、第一王子殿下は立太子を望まれていないのかしら………)
確かに、第一王子はやや凡庸だという評価である。
穏やかで丁寧な仕事ぶりが評価はされているが、その評価は国王としての役割となるといささか吸引力に欠ける。
だからこそ、第一王女派の急伸に繋がっているのだから。
レイヴィアは半年ほど前まで第一王女に散々求婚されていたが、クレア公爵家にはその申し出を絶対に受ける訳には行かない事情があったのだという。
「あの求婚は、さすがに思惑含みだと思っていたが、まさかとは思うが本気だったのかもしれぬな」
「……………あまり言いたくないが、王女殿下は色々と残念だからな」
そう呟いたジスファー公爵は、とても遠い目をした。
国の三大公爵の一人にこんな風に言われてしまっていると知ったら、あの王女はかなり怒りそうだ。
「普通であれば、祝祭の主人の庇護を得ているのなら、国にとっては財産ではないか。それが、なぜこうもあの御仁の言動に頭を痛めなければならないのか………」
「俺も、さすがに母の事を知らないとは思いませんでした。…………王宮内で母とは会っている筈なのですが、その上で俺を見ても何も感じていなかったのであれば、魔術の素養はあまり高くないのでしょうね」
「周囲にそれを諫められる者がいなかったとなると、あの派閥は丸ごと屑ということになる」
「……………父上。さすがに、ビアド公爵の耳には入れませんよう」
「私は、彼の狡猾さは嫌いではなかったのだがな。まさかそこに、馬鹿という肩書きが加わるとは………」
「まぁ、ビアドであれば承知の上かもしれないぞ。あちらの家の息子には、妙なものがいる」
「妙なもの、ですか…………?」
ジスファー公爵の言葉に首を傾げたのはレイヴィアだったので、騎士団長の立場にあっても、三大公爵家の子息の情報を得ているという訳ではないようだ。
ジスファー公爵は僅かに眉を寄せ、説明が難しいが何かが妙なのだと付け加えた。
リーフェットは政治絡みの話に参加出来るほどに賢くはなかったので、ふむふむと話を聞くばかりだが、王女との対面を強いられた薔薇のガゼボで、麦穂のような香りを嗅いだことは気になっていた。
「………王女様の誕生日は、もうすぐなのですか?」
「ああ、来月だな。また殿下の散財を見る羽目になると思えば、辺境の守りで良かったと思うばかりだ」
「父上の代わりに、俺が警備上の無理難題をお諫めする羽目にはなるんですがね……………」
「今年は流石に抑えるだろう。嵐に重なりかねない」
「いっそ、重なってしまえばいいのだ」
「父上………」
(……………王女様の誕生日は、来月)
それを聞き、リーフェットは心から安堵した。
来月と言えば、もう確実に冬の月である。
あの王女からは冬の魔術の系譜は少しも感じ取れなかったので、であれば、祝祭の主人の庇護を受けているという話は、話半分に聞いておいても良さそうだ。
「リーフェットは、殿下の誕生日が気になったのかい?」
「はい。祝祭の主人の庇護を受けていると聞いたので、どんな方の庇護なのかなと思いました」
「収穫祭の主人だと聞いているが、真偽のほどはどうだろうな。ジスファーですら特定しかねるという事ではないか」
「…………とは言え、人外者絡みの伝手はあるのだろう。だが、収穫祭かどうかは僕も疑問だがな」
「へぇ。収穫祭か。…………それはまた、本当だったらこの上なく厄介なものだなぁ」
アンの言葉に頷いてはみせたが、リーフェットはすっかり安心しきっていた。
アンはなぜか、リーフェットが冬の系譜の魔術も扱えると言うといい顔をしないが、リーフェットの家門は元々冬の系譜の魔術を得意とする一族である。
祖国では、治癒と薬草の魔術は、安息と冬至を治める祝祭の主人の加護とされていたのだ。
(冬の生まれなら、収穫祭の主人の庇護を受けるのはまず無理だと思う。収穫祭の資質を殺してしまいかねない魔術特性だもの。……………でも、あの場では麦穂の香りがした。となると、あの香りがレイヴィア様のものでなかった場合は、あの場にいた誰かが、秋の系譜の魔術を持っている可能性があるのかもしれない)
それも、折角ならこの場で伝えてしまいたい事だったが、リーフェットが嗅いだのが魔術の香りだった場合は、ある程度の階位の魔術師でなければ気付けないものだ。
この年齢のリーフェットが把握するにはおかしい情報となるので、迂闊に口にする事も出来ない。
アンには報告済みなので、気になれば調べてくれるだろう。
(一つ心配が片付いたから、……………あとは、もう一つ)
リーフェットは、ちらりとレイヴィアの方を見たが、今日の感じでは、さり気なく二人になるのは難しいだろうか。
だが、そう思っていたところで、いい機会に恵まれた。
「………リーフェット、話が長くなりそうだから、散歩にでも行くか」
「むぐ。…………ね、寝ていません!」
「年寄りの話は長いからな」
「レイヴィア!聞き捨てならないぞ!!」
「おや、僕もさり気なくこちら側に入れられていないか………」
「若造に限って、結論を急ぐからな……」
リーフェットが居眠りしている事に気付いたレイヴィアが、気を利かせて外に連れ出してくれることになったのだ。
とは言え、恐らくこの先に子供には聞かせられないような話もあるのだろう。
アンも構わないというように頷いてくれたので、これ幸いと抱き上げられて部屋を出ると、庭園に出てから、レイヴィアの腕の中でじっと後見人を見上げる。
「リーフェット?」
熱烈な視線に気付いたのか、おやっと眉を持ち上げたレイヴィアに、リーフェットはこくりと息を呑んだ。
上手く相談出来るかどうか心配だったが、ここは腹を括らねばなるまい。
「レイヴィア様は、妖精の薬のレシピをご存知ですか?」
「…………幾つかは。妖精の薬が欲しいのか?」
「いえ、妖精の薬の勉強がしたいのです。先生が最近、とても疲れてお家に帰ってくるので、体力を回復するような、……………体を温めるような薬を作れればなと思いました」
「……………成る程」
レイヴィアは、暫く考え込んだ。
何かまずいことを言っただろうかとリーフェットがはらはらしていると、ややあって、そのようなものがない訳ではないと教えてくれる。
「俺が知る限りは、幾つかの妖精の薬が使えそうだが、どれも体力を回復させる為の薬でそこまで劇的な効果はない。それでもいいか?」
「は、はい!」
「簡単なものだから、リーフェットにも作れるだろう。ただし、煎じて煮込む必要があるから、火を扱う時はアンブランに立ち合わせるように」
「………妖精さんの薬は、秘伝のレシピがあって、会得が難しいと聞きました。大丈夫でしょうか?」
「ああ。それは妖精からレシピを教わる必要があるから、会得が難しいとされるんだ。………俺としても、今、彼に倒れられると困るからな。かねてより、魔術省側の手が弱いと思っていたが、今日の話を聞いているとビアド公爵側の者に要職を取られるよりは、アンブランの方が問題がない」
(もしかして、……………レイヴィア様も、アンの不調に気付いているのかしら)
あっさり了承して貰い拍子抜けしたが、とは言えこれで薬のレシピを得られそうだ。
症状としても過労を全面に出しているので、不利となるようなことを深読みもされないだろう。
レイヴィアはすぐに体を温めて体力を温存する妖精の薬のレシピを教えてくれたばかりか、材料も用意してくれたので、リーフェットは己の交渉手腕にすっかり満足してしまう。
カーテンの散歩が健康にいいかどうかを聞き忘れた事に気付いたのは、アンと屋敷に帰ってからだった。




