灰風を超えて
ミラが倒れたあと、リアはすぐにその傍らへ膝をついた。
「ミラさん、ミラさん」
呼びかけても返事はない。レイに支えられたまま、力の抜けた身体がぐったりとしている。
「リア、どう?」
レイの声から、さっきまでの興奮は消えていた。
リアはミラの手を取り、呼吸を確かめる。しばらくして、小さく息を吐いた。
「大丈夫です。呼吸も落ち着いています」
「じゃあ、どうして……」
「おそらく、さっきの術の反動だと思います。あれだけの炎を放ったんです。それも、たぶん初めて……」
リア自身も、あの炎がどのような術だったのかは分からない。ただ、ミラの身体から急激に力が抜けたことだけは感じ取れた。
セレスも周囲を警戒しながら近づいてくる。
「ひとまず荷車へ。ここに寝かせておくわけにはいきません」
「うん」
レイとセレスが手を貸し、ミラを後方の補給車へ運んだ。
荷を少し寄せ、布を敷いて横にする。リアもその隣へ乗り込んだ。
「私が見ています」
「何かあったらすぐ呼んで」
「はい」
レイが荷台を降りると、近くにいた護衛の一人が肩を叩いてきた。
「いやあ、助かったぞ」
別の護衛も弓を下ろしながら近づいてくる。
「本当にな。あの光の守りがなかったら、馬の何頭かはやられてた」
「盾の姉ちゃんもよく止めたな。あの勢いを真正面からだぞ」
「それに最後のあれだ」
護衛たちの視線が、ミラの眠る補給車へ集まる。
「あの嬢ちゃん、すげえな。火を矢みたいに飛ばしやがった」
「おかげで残りも逃げた。今日の勝利の女神ってところだな」
「本人は寝ちまってるけどな」
笑い声が上がる。
「静かにしてください」
荷台からリアが顔を出した。
「ああ、悪い悪い」
護衛たちは声を落としたものの、表情にはまだ興奮が残っていた。
レイも補給車を見る。
さっきの炎が頭から離れない。
小さく、速く。
自分が白い斬撃でやろうとして、できなかったことを、ミラは一度でやってみせた。
どうやったのか聞きたい。
目を覚ましたら絶対に聞こう。
そう考えたところで、セレスが横から釘を刺す。
「起きてすぐ質問攻めにするのはやめてくださいね」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出ています」
「そんなに?」
「はい」
レイは少しだけ口を尖らせた。
飛行獣が戻ってこないことを確認すると、隊商は再び動き始めた。
リアはそのまま補給車に残り、眠っているミラのそばに座った。車輪が石を踏むたびに荷台が揺れる。そのたびにミラの身体が揺れないよう、肩へ手を添える。
「ゆっくり休んでください」
ミラの寝顔は穏やかだった。
右手にも、もう炎の痕跡はない。
ただ、リアには気になることがあった。
篝火の前で瞳の奥が熱いと言ったこと。そして、先ほど突然現れた炎。
何かがつながっているような気がする。
けれど今は、ミラが目を覚ますのを待つしかなかった。
隊商が谷の後半へ進むにつれ、道は少しずつ広くなっていった。
高かった岩壁も次第に低くなり、頭上に見える空が広がっていく。
やがて前方から差し込む光が強くなった。
「出口だ!」
誰かが声を上げる。
荷車が一台、また一台と岩壁の間を抜けていく。
レイもセレスと並んでその先へ出た。
途端に、視界が一気に開けた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
背後には赤灰の谷。その前には、緩やかな大地が南へ広がっている。
谷の中を吹き抜けていた灰風も、ここまで来るとずいぶん弱くなっていた。空気に灰の匂いは残っているものの、口元を覆っていた布を外しても気にならない程度だった。
隊商の者たちからも、ほっとしたような声が上がる。
「抜けたな」
隣を歩いていたバルドが言った。
それからレイとセレスを見て、後ろを進む補給車にも一度目を向ける。
「さっきは助かった。礼を言う」
「いえ。私たちも同行させてもらっていますから」
セレスが答える。
「それでもだ。お前たちがいなかったら、こっちも無傷じゃ済まなかった」
バルドは頭をかきながら、レイたちを改めて見た。
「最初に見た時は、怪我人二人連れた、ただのひよっこ連中かと思ってたんだがな」
「ひよっこ?」
レイが聞き返す。
「ああ。まさかあんなすごいとは思わねえだろ」
バルドは後ろの補給車へ目を向ける。
「嬢ちゃんが目を覚ましたら、そっちにも礼を言っといてくれ。最後のあれがなかったら、まだ長引いてたかもしれん」
「うん。伝えとく」
「あとはカルナまで大きな難所はない。このまま行けば日が落ちる前には着く」
「もう近い?」
「ああ」
レイの足取りが少し軽くなる。
その様子を見たバルドが笑った。
「ほんと分かりやすいな、お前は」
「だって、やっとだよ」
「まあ気持ちは分かるがな」
しばらく並んで歩いてから、バルドがふと思い出したようにレイの腰の剣へ目を向けた。
「しかし、お前のあれもすごかったな」
「あれ?」
「白いやつだよ。剣から飛んでっただろ」
「ああ……でも外したよ」
「当たったかどうかの話じゃねえよ」
バルドは後ろに遠ざかっていく谷を振り返った。
「岩壁をあれだけ吹っ飛ばす斬撃なんて、そうそう見られるもんじゃない」
「吹っ飛ばしたかったわけじゃないんだけど……」
「分かってる。次はやるなよ」
「セレスにも言われた」
「そりゃ言われる」
バルドが声を上げて笑う。
少し先を歩いていたセレスが振り返った。
「もう一度外したら、本当に谷を崩していたかもしれませんからね」
「もうやらないって」
「ならいいです」
セレスが前へ向き直る。
バルドはその背中を見て、それから後ろの補給車へ目をやった。
「光で皆を守る嬢ちゃんがいて、あの盾の姉ちゃんがいて、火の矢を撃つ嬢ちゃんがいる。おまけに剣から白い斬撃を飛ばす小僧か」
「小僧って……」
「なんだか、おとぎ話に出てくる救世主一行みたいだな」
レイがバルドを見る。
「救世主一行?」
「知らないのか?」
「どんな話?」
「古い話さ。この辺りじゃ子どものころに一度くらいは聞く」
バルドは前を向いたまま話し始めた。
「大昔、世界に邪神が現れて、星を闇で覆おうとした。それを止めるために、六つの精霊がそれぞれ一人ずつ使徒を選んだって話だ」
レイは黙って聞く。
「光、火、水、風、地、闇。六人の使徒はそれぞれ違う力を持っていて、一人じゃ邪神には敵わなかった。けど、最後には六人で力を合わせて邪神を倒し、世界を救った」
「六人の使徒……」
「ああ。まあ、おとぎ話だ。土地によって話も少し違うし、本当にあったことかなんて誰も知らん」
バルドは笑う。
「ただ、お前らを見てると思い出してな」
レイは隣を歩くセレスを見る。
その向こうには、補給車に乗るリアと眠ったままのミラがいる。
「でも、四人しかいないよ」
「そこか?」
バルドが吹き出した。
「なら、あと二人足りねえな」
「そういう話じゃないと思います」
前を歩いていたセレスが振り返らずに言う。
「聞こえてたんだ」
「はい」
レイは笑った。
けれど、もう一度だけバルドの話を思い返す。
六つの精霊。
六人の使徒。
それからすぐ、レイの意識は別のところへ移った。
「ねえ、カルナってもう見える?」
「まだだ。あの丘を越えりゃ見えてくる」
「じゃあ、もうすぐだね」
バルドは呆れたように笑った。
「切り替えが早いな、お前は」
日が西へ傾き始めたころ、道は緩やかな丘を上っていった。
先頭の荷車が頂を越える。
続いてレイたちも坂を上る。
そして、その先へ出た瞬間。
レイは足を止めた。
「……すごい」
広い大地の向こうに、大きな都市があった。
赤褐色の城壁が長く伸び、その内側には大小さまざまな建物が密集している。何本もの煙突から煙が立ち上り、夕方の空へ細く溶けていく。
そして、その中心。
町並みの上へ突き出すように、巨大な炉が見えた。
遠くからでも分かるほど大きい。
黒い煙突と重厚な石造りの炉体。その一部には橙色の光が灯り、まるで都市の中心で巨大な火が息をしているようだった。
「……あれが」
後ろの荷車から、リアの声が聞こえる。
レイが振り返る。
リアも補給車の上から、その巨大な炉を見つめていた。
「ガイさんの手帳に書いてあった……」
「巨大な炉」
レイが言う。
リアは頷いた。
その隣では、ミラがまだ静かに眠っている。
リアは少しだけ残念そうにミラを見て、それからもう一度カルナへ目を向けた。
「ミラさん、もうすぐですよ」
眠っているミラへ、そっと声をかける。
返事はなかった。
けれど、その表情は穏やかなままだった。
前方でバルドが振り返る。
「カルナだ!」
隊商の者たちから声が上がる。
赤い鳥の印を掲げた荷車が、丘を下り始めた。
レイは遠くに見える巨大な炉から目を離せなかった。
赤灰の谷を越えた先。
ついに、火の位相領域の中心都市――カルナが目の前に現れた。




