谷の篝火
翌朝、空が明るくなり始めるころには、赤い鳥の隊商はすでに出発の準備を整えていた。昨夜使った焚き火の跡には土がかけられ、荷車には荷が積み直されている。馬たちも水を飲ませてもらい、鼻を鳴らしながら出発を待っていた。
レイたちもそれぞれ荷をまとめる。リアとミラは昨日と同じ補給車へ乗り、レイとセレスは隊列の脇へついた。
バルドは全員が揃ったのを確かめると、谷の入口へ目を向けた。
「ここから先は風が読みにくい。灰が強くなったら勝手に動くな。前の荷車を見失わないようにしろ」
護衛たちが短く応じる。
「行くぞ」
先頭の馬が歩き出し、隊商は赤灰の谷へ入った。
谷の中へ入ると、外とは空気が変わった。左右から迫る赤褐色の岩壁が朝の光を遮り、街道にはまだ薄い影が残っている。地面には細かな灰が積もり、荷車の車輪が通るたびに灰色の筋が後ろへ伸びた。
馬の蹄の音が岩壁に反響する。一度鳴った音が少し遅れて戻ってくるたび、谷そのものが返事をしているようだった。
レイは頭上を見上げた。
「昨日遠くから見たときより、ずっと高いな」
「近くまで来ると迫力ありますね」
セレスも岩壁の上へ目を向ける。空は細長く切り取られ、その間を灰を含んだ雲がゆっくりと流れていた。
道は谷底に沿って何度も曲がっている。先が見通せる場所は少なく、曲がるたびに新しい岩壁が現れた。
時折、風が谷を抜ける。地面の灰がさらさらと流れ、足元を横切っていった。
「これが灰風?」
レイが布で口元を覆いながら聞く。
「まだ弱い方だ」
近くを歩いていた護衛が答えた。
「本当に荒れる時は、数歩先も見えなくなる」
「そんなに?」
「だから早い時間に抜けるんだよ」
護衛はそう言って、すぐに前方へ視線を戻した。レイもそれ以上は話しかけず、隊列から離れないよう歩いた。
谷へ入ってからしばらくすると、岩壁の間から差し込む光が少しずつ強くなってきた。太陽が高くなったらしい。
曲がりくねった道をいくつも抜けたころ、先頭を進んでいた荷車が速度を落とした。
レイはその先を見る。
「あれ……?」
少し先に、これまで街道で見てきたものより、はるかに大きな石造りの灯り台が立っていた。
高さは人の背丈よりも高いぐらい。太い石柱の上部が灯籠のように四方へ開き、その中央には黒い鉄籠が据えられている。その隣には、上部の鉄籠へ火を入れるための石段が置かれていた。
その周囲だけは谷底が少し広く開け、荷車を何台も止められるようになっている。
「大きいですね……」
リアが補給車から見上げる。
「昨日の灯り台とは全然違うね」
レイも足を止めた。
バルドが片手を上げる。
「ここで休むぞ! 馬にも水をやれ!」
八台の荷車が順に止まる。隊商の者たちは慣れた様子で馬を休ませ、荷の具合を確かめ始めた。
レイたちも休憩に入る。ミラとリアが補給車から降りると、ミラはすぐに背中を伸ばした。
「やっぱり歩いてる方が楽ね」
「また言っています」
リアが笑う。
「だって本当なんだもの」
ミラも笑い返した。
セレスは大きな灯り台を見上げた。
「これも旅火のためのものですか?」
「ああ。谷を通る連中は、ここで一度火を灯すんだ」
バルドはそう言って、石造りの灯り台へ向かった。
「街道の小さいやつとは、ずいぶん違うね」
レイが見上げる。
「ここは昔から休み場になってるからな。この火を灯して、フレイラに谷を無事に抜けられるよう願う」
「フレイラって、火の精霊フレイラ?」
「ああ。火の土地を見守ってくださる精霊様だ」
バルドは灯り台を見上げた。
「火がついてると、不思議と安心するんだよ。この辺りじゃ、フレイラ様が見守ってくださってるなんて言う奴もいる」
バルドは灯り台の隣に置かれた石段へ足をかけた。
「上の鉄籠も古いものでな。カルナの鍛冶職人が打ったものだって聞いてる」
「ずっと昔からあるんですか?」
リアが尋ねる。
「らしいな。俺も細かいことまでは知らん」
バルドは肩をすくめ、そのまま石段を上っていった。
上まで登ると、鉄籠の中へ乾いた薪を組み、火種を入れる。
ぱち、と小さな音が鳴った。細枝に移った火がゆっくりと広がり、やがて太い薪へ燃え移っていく。
炎が鉄籠の中で大きく立ち上がった。橙色の炎が、灰色の谷を明るく照らす。
バルドは炎の前で姿勢を正し、短く頭を下げた。
「火の精霊フレイラよ。この火を灯し、旅路の無事を願う。今日も俺たちを見守り、無事に谷を越えさせてください」
言葉を終えると、バルドは少しの間、燃え上がる火を見つめていた。
やがて石段を降りてくる。
「これでよし」
どこか満足そうに言う。
隊商の者たちにとっては、昔から繰り返されてきた旅の習わしなのだろう。火が灯ると、それぞれが水を飲んだり荷を確かめたりしながら、思い思いに身体を休め始めた。
ミラも篝火を見上げていた。
鉄籠の中で橙色の炎が揺れる。
その炎がふっと大きくなった、その瞬間――瞳の奥が熱を持った。
「……っ」
ミラは思わず瞬きをした。
痛みではない。熱いものが瞳の奥へ入り込み、内側からじんわりと広がったような、不思議な感覚だった。
赤みを増した虹彩の奥に、細い金の光が差す。
そして、もう一度篝火へ目を向けた時だった。
「……?」
炎の周りに、何かが見えた。
淡い橙色の光が、火から静かに広がっている。
煙でも、陽炎でもない。
薄い光の幕のようなものが灯り台を中心に広がり、休憩場所全体をぼんやりと包んでいた。
ミラは目を細める。
「……なに、これ」
輪郭ははっきりしない。目を凝らせば凝らすほど、橙色の光は霞んでいく。
何度か瞬きをすると、その光は見えなくなった。
残っているのは、鉄籠の中で燃える篝火だけだった。
「どうしたんですか?」
隣にいたリアが声をかける。
ミラはそちらを向いた。
「ん? ちょっと目の奥が熱くなって……」
「大丈夫ですか?」
「どうだろ。もう平気」
ミラは目元に指を当てる。熱はすでにほとんど消えていた。
もう一度篝火を見る。
さっき見えた橙色の幕は、どこにもない。
「……変なの」
小さく呟いた。
けれど、痛みも違和感も残っていなかったため、ミラはそれ以上深く考えなかった。
しばらくの間、一行は大きな灯り台の周囲で身体を休めた。馬に水を飲ませ、商人たちは荷の緩みを確かめる。レイたちも簡単に腹を満たし、水を飲んだ。
高い石造りの灯り台では、篝火が絶えず燃えていた。赤灰の谷の中に立つその火は、離れた場所からでもよく見えそうだった。
やがてバルドが空を見上げる。
「そろそろ行くぞ! ここから先も列を崩すな!」
隊商の者たちが動き始めた。
リアとミラも補給車へ戻る。荷台へ乗り込む前に、ミラは一度だけ篝火を振り返った。
瞳の奥に感じた熱は、もう残っていない。
橙色の炎だけが、鉄籠の中で変わらず揺れていた。
ミラはそのまま荷台へ上がった。
荷車が順に動き始める。
赤い鳥の隊商は燃え続ける篝火を背に、再び赤灰の谷の奥へと進んでいった。




