旅立ち
十六歳の春。
旅立ちの朝、レイは小屋の中で背負い袋の中身を確かめていた。
替えの服、保存食、水袋。
それから、ガレンが無言で押し込んできた簡単な薬草包み。
底の方には、小さな革袋もあった。
ベルデ村で薪割りや荷運びを手伝って貯めた銅貨と、ガレンがいつの間にか足していたらしい銀貨が数枚。
「……入れすぎだろ、これ」
小さく呟く。
けれど、革袋を背負い袋の底へ戻しながら、心の中でそっと思った。
――ありがとう。助かるよ、ガレン。
それを口に出すのは、少し照れくさい。
だから何も言わず、背負い袋の紐をしっかり結び直した。
戸口の向こうには、ガレンが立っていた。
腕を組み、いつも通り無愛想な顔で、森の方を見ている。
背負い袋を肩にかけ、小屋の外へ出た。
朝のスターリットの森は、まだ薄い霧をまとっていた。
木々のあいだから差し込む光はやわらかく、濡れた葉の先で小さく揺れている。鳥の声が遠くで鳴り、風が枝をかすめるたびに、森全体が静かに目を覚ましていくようだった。
何度も見てきた景色だった。
剣を振った朝も。
ガレンに叱られた昼も。
疲れて倒れ込むように眠った夜も。
この一年、レイの暮らしの中心は、この森と小屋だった。月に二度ほどベルデ村へ下りることはあったが、それでも外の世界と呼べる場所へ出たことはほとんどない。
けれど今日は、そこを離れる。
ガレンが、背負い袋をちらりと見た。
「忘れ物はないな」
「たぶん」
「たぶんで旅に出るな」
「……ないよ」
ガレンは短く息を吐き、ようやくこちらを向いた。
「街道沿いに進め。森を抜けたあと、最初の宿場で一泊。二日目も街道を外れるな。三日目の夕方にはシルヴィに着く」
「分かってるって」
「分かってる奴ほど道を間違える」
「……それ、俺のこと信用してないだろ」
「信用と警戒は別だ」
即答だった。
レイは少しだけ肩をすくめた。
言い返したかったが、ガレンが心配しているのも分かっていた。
ガレンの視線が、腰に下げた剣へ落ちる。
「無駄に抜くな。抜いたなら、迷うな」
「……うん」
「人の多い場所では、森より厄介なこともある」
「異獣より?」
「異獣は、牙を向ける理由が分かりやすい。だが人は、欲しいもののために嘘もつくし、奪いにも来る」
少し返事に困った。
ガレンの言葉はいつも簡単で、でも妙に重い。
森の中では、危険は分かりやすかった。
牙。
爪。
唸り声。
濁った気配。
けれど町では、そうではないのだろう。
相手が何を考えているのか。
何を欲しがっているのか。
何を隠しているのか。
それは、森の獣よりずっと見えにくいのかもしれない。
服の下には、母から渡されたペンダントがある。
何があっても大事にしなさい、と何度も言われたもの。
スターリットの森で暮らすようになってからも、一度も外さなかった。
理由は、まだ分からない。
けれど、それだけは手放してはいけない気がしていた。
そして、どこかで、この青い石は自分を守ってくれているのだとも感じていた。
はっきりした証拠があるわけではない。
けれど危ないときほど、この石は胸元に確かにあった。
ガレンの視線が、ほんの一瞬だけ胸元に落ちる。
だが、何も言わなかった。
代わりに、低い声で言う。
「アストラリス神殿に行くなら気をつけろ」
顔を上げる。
ガレンの表情は変わらない。
けれど、その声だけは、いつもより少しだけ硬かった。
「ルミナスの聖地だが、影も潜む」
「影……?」
「覚えておけ。光が強い場所ほど、濃い影もできる」
小さく息を呑んだ。
詳しく聞こうとしたが、ガレンはそれ以上言うつもりがないようだった。
沈黙が落ちる。
森の奥で、鳥が一声鳴いた。
背負い袋の紐をもう一度確かめる。
「……行ってくる」
ガレンは少しだけ目を細めた。
「生きて帰れ」
いつもの言い方だった。
けれど、それがガレンなりの送り出しだと分かっていた。
「うん。行ってきます」
そう答え、森の道へ踏み出した。
スターリットの森を抜ける道は、何度も通ったはずなのに、その日は少しだけ違って見えた。
木々の幹に残る朝露。
土に落ちた木漏れ日。
風に揺れる下草。
見慣れたものばかりなのに、一つひとつが妙に目に残る。
これが、しばらく見納めになるかもしれない。
そう思うと、足が少しだけ遅くなった。
けれど、戻ろうとは思わなかった。
森の奥で暮らしていても、分からないことがあった。
母が残したペンダントのこと。
自分の中に時折生まれる、言葉にできない違和感。
そして、アストラリス神殿という場所。
そこへ行けば、何かが分かるかもしれない。
はっきりした理由ではなかった。
でも、前へ進むには十分だった。
やがて木々の間から、ベルデ村の屋根が見えてきた。
朝の村は、まだ静かだった。
中央広場では、井戸のそばに水桶が並び、家々の煙突から細い煙が上がっている。パンを焼く匂いが、白い朝霧の中にかすかに混じっていた。
月に二度ほど来ていた村だ。
鍛冶師に剣の手入れを見てもらった日もある。
広場で村人たちに声をかけられた日もある。
成人の儀で「レイ」の名を授かったのも、この村だった。
礼拝堂の前を通りかかると、自然と足が緩んだ。
中央広場に面した、小さな祈りの場。
あの日、白布の上に置かれた星輪が朝の光を受け、壁に小さな星のような光を散らしていた。
――今日より、この子はレイの名で歩みます。
神官の声が、ふと胸の奥によみがえる。
あの日から、自分はレイになった。
いや、ユーマだった日々が消えたわけではない。
その上に、この世界で歩くための名が重なった。
礼拝堂へ小さく頭を下げる。
そのとき、井戸のそばにいた村の女性が顔を上げた。
「あら、レイ。もう出るのかい?」
「あ、うん。シルヴィまで行ってくる」
「そうかい。気をつけてね」
「ありがとう」
短いやり取りだった。
けれど、その声が思ったより胸に残った。
村の中央を抜けると、背後から誰かが手を振っている気配がした。
振り返ると、広場の端にいた子どもがこちらを見ていた。
軽く手を上げると、その子は嬉しそうに両手を振った。
小さく笑い、前を向く。
ここには、自分を知る人たちがいる。
そう思うと、足元が少しだけ確かになった。
村の外れには、白い祈り柱が立っていた。
古びた礼拝堂とは違い、その石肌にはまだ新しさが残っている。刻まれた星と花の紋もはっきりとしていて、根元には青い花が供えられていた。
その前で、一度だけ足を止めた。
この柱が建てられた理由を、村の人たちは「あの夜」のこととして話していた。
森が膨れた夜。
異獣が外へ溢れかけた夜。
そして、ガレンが村を助けた夜。
――ガレンさんがいてくれなかったら、俺たちは生きていない。
そう言っていた村人の声を思い出す。
詳しいことは知らない。
ガレンも、その話を自分からはほとんどしなかった。
祈り柱に軽く頭を下げ、また歩き出した。
村を抜けると、道はやがて広い街道へつながっていく。
森の匂いが淡くなり、代わりに乾いた土と草の匂いが混じりはじめた。
枝葉の影が途切れ、前方に明るい光が見える。
息を整え、その光の方へ進んだ。
そして――街道へ出た。
視界が、一気に開ける。
「……うわ」
声が、思わず漏れた。
そこには、スターリットの森とはまるで違う世界が広がっていた。
ゆるやかな丘陵が、遠くまで続いている。
斜面には麻の畑が広がり、若い穂が春風に揺れていた。淡い緑の波が、陽の光を受けながら、丘の向こうへゆっくりと流れていく。
ところどころには小麦が混じっている。まだ柔らかな金色を宿した穂先が、風に合わせて小さく揺れ、朝の光をやわらかく返していた。
踏み固められた街道には、いくつもの馬車の轍が重なっている。
荷を積んだ馬車が、ゆっくりと進んでいた。
行商人が馬の手綱を引き、旅人たちが肩を並べて歩いている。
どこかで笑い声が上がり、遠くの畑からは農具の音がかすかに聞こえた。
森の外にも、人の暮らしがある。
当たり前のことなのに、少し不思議に思えた。
(……平和だな)
思わず、そんな言葉が胸に浮かぶ。
森の奥では、常に何かが潜んでいた。
枝の揺れ。
獣の息。
土を踏むかすかな音。
そういうものを見逃さないように、身体はいつも張りつめていた。
けれど、この街道にはそれがほとんどない。
剣の柄にかけていた手が、いつの間にか自然に下りていた。
(異獣の気配が、ほとんどない……)
空気の奥に、淡く満ちているものがある。
目には見えない。
けれど確かに、そこにあると分かる。
それは、一年前、ベルデ村で成人の儀を受けたときに感じた空気に、どこか似ていた。
(これが……ルミナスの加護、か)
光の精霊ルミナス。
その加護は、聖地とその周辺に穏やかな影響を与えると、ガレンは教えてくれた。
異獣を完全に消し去るわけではない。
だが、凶暴性を鈍らせ、近づきにくくする。
荒れたものを、そっと静めるような力。
ガレンの言葉を思い出しながら、少しだけそれを肌で感じ取っていた。
遠くには、セレスティアル山の稜線が見えた。
青く霞んだ山並みの向こう、白い雲がゆっくりと流れている。
あの山の中腹に、アストラリス神殿がある。
まだ見えない。
けれど、そこへ向かっているのだと思うと、胸の奥が小さく鳴った。
(……行けば、何か分かるのかな)
そんな期待が、胸の奥にかすかに灯った。




