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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
第2章 祝福の町シルヴィと聖地アストラリス神殿
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旅立ち

十六歳の春。


旅立ちの朝、レイは小屋の中で背負い袋の中身を確かめていた。


替えの服、保存食、水袋。


それから、ガレンが無言で押し込んできた簡単な薬草包み。


底の方には、小さな革袋もあった。


ベルデ村で薪割りや荷運びを手伝って貯めた銅貨と、ガレンがいつの間にか足していたらしい銀貨が数枚。


「……入れすぎだろ、これ」


小さく呟く。


けれど、革袋を背負い袋の底へ戻しながら、心の中でそっと思った。


――ありがとう。助かるよ、ガレン。


それを口に出すのは、少し照れくさい。


だから何も言わず、背負い袋の紐をしっかり結び直した。


戸口の向こうには、ガレンが立っていた。


腕を組み、いつも通り無愛想な顔で、森の方を見ている。


背負い袋を肩にかけ、小屋の外へ出た。


朝のスターリットの森は、まだ薄い霧をまとっていた。


木々のあいだから差し込む光はやわらかく、濡れた葉の先で小さく揺れている。鳥の声が遠くで鳴り、風が枝をかすめるたびに、森全体が静かに目を覚ましていくようだった。


何度も見てきた景色だった。


剣を振った朝も。


ガレンに叱られた昼も。


疲れて倒れ込むように眠った夜も。


この一年、レイの暮らしの中心は、この森と小屋だった。月に二度ほどベルデ村へ下りることはあったが、それでも外の世界と呼べる場所へ出たことはほとんどない。


けれど今日は、そこを離れる。


ガレンが、背負い袋をちらりと見た。


「忘れ物はないな」


「たぶん」


「たぶんで旅に出るな」


「……ないよ」


ガレンは短く息を吐き、ようやくこちらを向いた。


「街道沿いに進め。森を抜けたあと、最初の宿場で一泊。二日目も街道を外れるな。三日目の夕方にはシルヴィに着く」


「分かってるって」


「分かってる奴ほど道を間違える」


「……それ、俺のこと信用してないだろ」


「信用と警戒は別だ」


即答だった。


レイは少しだけ肩をすくめた。


言い返したかったが、ガレンが心配しているのも分かっていた。


ガレンの視線が、腰に下げた剣へ落ちる。


「無駄に抜くな。抜いたなら、迷うな」


「……うん」


「人の多い場所では、森より厄介なこともある」


「異獣より?」


「異獣は、牙を向ける理由が分かりやすい。だが人は、欲しいもののために嘘もつくし、奪いにも来る」


少し返事に困った。


ガレンの言葉はいつも簡単で、でも妙に重い。


森の中では、危険は分かりやすかった。


牙。


爪。


唸り声。


濁った気配。


けれど町では、そうではないのだろう。


相手が何を考えているのか。


何を欲しがっているのか。


何を隠しているのか。


それは、森の獣よりずっと見えにくいのかもしれない。


服の下には、母から渡されたペンダントがある。


何があっても大事にしなさい、と何度も言われたもの。


スターリットの森で暮らすようになってからも、一度も外さなかった。


理由は、まだ分からない。


けれど、それだけは手放してはいけない気がしていた。


そして、どこかで、この青い石は自分を守ってくれているのだとも感じていた。


はっきりした証拠があるわけではない。


けれど危ないときほど、この石は胸元に確かにあった。


ガレンの視線が、ほんの一瞬だけ胸元に落ちる。


だが、何も言わなかった。


代わりに、低い声で言う。


「アストラリス神殿に行くなら気をつけろ」


顔を上げる。


ガレンの表情は変わらない。


けれど、その声だけは、いつもより少しだけ硬かった。


「ルミナスの聖地だが、影も潜む」


「影……?」


「覚えておけ。光が強い場所ほど、濃い影もできる」


小さく息を呑んだ。


詳しく聞こうとしたが、ガレンはそれ以上言うつもりがないようだった。


沈黙が落ちる。


森の奥で、鳥が一声鳴いた。


背負い袋の紐をもう一度確かめる。


「……行ってくる」


ガレンは少しだけ目を細めた。


「生きて帰れ」


いつもの言い方だった。


けれど、それがガレンなりの送り出しだと分かっていた。


「うん。行ってきます」


そう答え、森の道へ踏み出した。


スターリットの森を抜ける道は、何度も通ったはずなのに、その日は少しだけ違って見えた。


木々の幹に残る朝露。


土に落ちた木漏れ日。


風に揺れる下草。


見慣れたものばかりなのに、一つひとつが妙に目に残る。


これが、しばらく見納めになるかもしれない。


そう思うと、足が少しだけ遅くなった。


けれど、戻ろうとは思わなかった。


森の奥で暮らしていても、分からないことがあった。


母が残したペンダントのこと。


自分の中に時折生まれる、言葉にできない違和感。


そして、アストラリス神殿という場所。


そこへ行けば、何かが分かるかもしれない。


はっきりした理由ではなかった。


でも、前へ進むには十分だった。


やがて木々の間から、ベルデ村の屋根が見えてきた。


朝の村は、まだ静かだった。


中央広場では、井戸のそばに水桶が並び、家々の煙突から細い煙が上がっている。パンを焼く匂いが、白い朝霧の中にかすかに混じっていた。


月に二度ほど来ていた村だ。


鍛冶師に剣の手入れを見てもらった日もある。


広場で村人たちに声をかけられた日もある。


成人の儀で「レイ」の名を授かったのも、この村だった。


礼拝堂の前を通りかかると、自然と足が緩んだ。


中央広場に面した、小さな祈りの場。


あの日、白布の上に置かれた星輪が朝の光を受け、壁に小さな星のような光を散らしていた。


――今日より、この子はレイの名で歩みます。


神官の声が、ふと胸の奥によみがえる。


あの日から、自分はレイになった。


いや、ユーマだった日々が消えたわけではない。


その上に、この世界で歩くための名が重なった。


礼拝堂へ小さく頭を下げる。


そのとき、井戸のそばにいた村の女性が顔を上げた。


「あら、レイ。もう出るのかい?」


「あ、うん。シルヴィまで行ってくる」


「そうかい。気をつけてね」


「ありがとう」


短いやり取りだった。


けれど、その声が思ったより胸に残った。


村の中央を抜けると、背後から誰かが手を振っている気配がした。


振り返ると、広場の端にいた子どもがこちらを見ていた。


軽く手を上げると、その子は嬉しそうに両手を振った。


小さく笑い、前を向く。


ここには、自分を知る人たちがいる。


そう思うと、足元が少しだけ確かになった。


村の外れには、白い祈り柱が立っていた。


古びた礼拝堂とは違い、その石肌にはまだ新しさが残っている。刻まれた星と花の紋もはっきりとしていて、根元には青い花が供えられていた。


その前で、一度だけ足を止めた。


この柱が建てられた理由を、村の人たちは「あの夜」のこととして話していた。


森が膨れた夜。


異獣が外へ溢れかけた夜。


そして、ガレンが村を助けた夜。


――ガレンさんがいてくれなかったら、俺たちは生きていない。


そう言っていた村人の声を思い出す。


詳しいことは知らない。


ガレンも、その話を自分からはほとんどしなかった。


祈り柱に軽く頭を下げ、また歩き出した。


村を抜けると、道はやがて広い街道へつながっていく。


森の匂いが淡くなり、代わりに乾いた土と草の匂いが混じりはじめた。


枝葉の影が途切れ、前方に明るい光が見える。


息を整え、その光の方へ進んだ。


そして――街道へ出た。


視界が、一気に開ける。


「……うわ」


声が、思わず漏れた。


そこには、スターリットの森とはまるで違う世界が広がっていた。


ゆるやかな丘陵が、遠くまで続いている。


斜面には麻の畑が広がり、若い穂が春風に揺れていた。淡い緑の波が、陽の光を受けながら、丘の向こうへゆっくりと流れていく。


ところどころには小麦が混じっている。まだ柔らかな金色を宿した穂先が、風に合わせて小さく揺れ、朝の光をやわらかく返していた。


踏み固められた街道には、いくつもの馬車の轍が重なっている。


荷を積んだ馬車が、ゆっくりと進んでいた。


行商人が馬の手綱を引き、旅人たちが肩を並べて歩いている。


どこかで笑い声が上がり、遠くの畑からは農具の音がかすかに聞こえた。


森の外にも、人の暮らしがある。


当たり前のことなのに、少し不思議に思えた。


(……平和だな)


思わず、そんな言葉が胸に浮かぶ。


森の奥では、常に何かが潜んでいた。


枝の揺れ。


獣の息。


土を踏むかすかな音。


そういうものを見逃さないように、身体はいつも張りつめていた。


けれど、この街道にはそれがほとんどない。


剣の柄にかけていた手が、いつの間にか自然に下りていた。


(異獣の気配が、ほとんどない……)


空気の奥に、淡く満ちているものがある。


目には見えない。


けれど確かに、そこにあると分かる。


それは、一年前、ベルデ村で成人の儀を受けたときに感じた空気に、どこか似ていた。


(これが……ルミナスの加護、か)


光の精霊ルミナス。


その加護は、聖地とその周辺に穏やかな影響を与えると、ガレンは教えてくれた。


異獣を完全に消し去るわけではない。


だが、凶暴性を鈍らせ、近づきにくくする。


荒れたものを、そっと静めるような力。


ガレンの言葉を思い出しながら、少しだけそれを肌で感じ取っていた。


遠くには、セレスティアル山の稜線が見えた。


青く霞んだ山並みの向こう、白い雲がゆっくりと流れている。


あの山の中腹に、アストラリス神殿がある。


まだ見えない。


けれど、そこへ向かっているのだと思うと、胸の奥が小さく鳴った。


(……行けば、何か分かるのかな)


そんな期待が、胸の奥にかすかに灯った。


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