変わりゆく王都邸
湯あみをするということで案内された部屋は、以前わたくしがアディと使っていた左翼棟の三階の客室ではなく、家族の私室がある右翼棟の一室でした。そう、つまり、当主夫人の部屋ですわね。
領邸では当たり前のように使っていた女主人の部屋ですけれど、この王都邸では初めて足を踏み入れましたわ。品のいい、けれどもとても上等な家具は──どう見ても真新しいですわね。薄紅の花を散らせた優しい印象の象牙色の壁紙に、淡紅色のカーテンが愛らしいです。カーテンと揃いの布が張られたソファには、まるで客を迎える主のような顔をしたリディが置かれておりました。
「ミシェルたちの仕業?」
なんとも言えない心地に、つい付き添いの侍女であるミシェルに訊いてしまいました。漏れ出たちょっと子どもっぽい響きの声音に、恥ずかしくなってしまいますわ。
「実際に部屋を整えたのはケリーたちで、指示をされたのは旦那様でございます」
「さあ、奥様、冷えたお身体を温めましょう。湯の準備はされておりますから」
微笑みながら返答するミシェルの隣で、ポーラがおかしそうに笑いながら浴室へと誘導します。その先ではわたくしの身支度を任されているエミリーがドアを開けて待っていますわ。
王都邸は領邸のように複数人で使うお風呂はございません。こちらは家族の私室に設けられたものですから、その部屋の持ち主だけが使う浴室ですわね。
二重に張られた紗の内側に据えられていたのは、優美な曲線を描く真っ白な浴槽。王宮で使っていたものと似ていますから、きっとエリザベス様の輿入れ時に作られたものでしょうね。
「頭痛が起きてはいけませんから、あちらと同じように薬草は使わず磨かせていただきます」
「頭痛は大丈夫ですわ、ポーラ。でも、気遣ってくださってありがとう。あなたたちの手間がないのならばお任せするわ」
頭痛がひどい時の湯あみは香りがこもることを避けるために、薬草や花を湯に浸けることはしなかったのですが、こちらに来てもそれは同じようでした。
冬場とはいえ、四六時中頭が痛いわけではないのだけれど、わたくしが体調を崩したことでだいぶ気を遣わせてしまっているみたいですわね。
「社交の準備もありますから、お茶が終わったらレイラを呼んで頂戴」
「レイラならばケリーと打ち合わせの後、ミシェルと交代して奥様に付く予定となっておりますので、お茶の時間までには戻るかと」
エミリーに髪の手入れをしてもらいながら、肌をこするポーラに伝えます。こうやって湯を使うことは普段通りなのに、なんだかすごく気持ちよくて眠くなってしまいますわ。たくさんのクッションに埋もれていたけれど、やっぱり馬車の旅は疲れますわね。
「お茶を取りやめて、この後は休憩にいたしましょう。無理は禁物ですよ」
「えぇ……? だいじょうぶよ……」
「奥様、眠いということは身体からの休息の合図ですわ。少しだけお眠りになったら、晩餐の頃には普段通りの体調に戻られておりますわ」
「でも……これからの予定を、詰めなくちゃ……」
「奥様の補助はわたくしどもの仕事ですよ。大丈夫です」
そうなのね、ここは王宮ではないもの。ゆっくりしていても大丈夫なのだったわ……。そうよ、ゆっくり眠るのって素敵なことだったもの、また味わっても怒る人はここにはいないのだったわ……。
ポーラの子守歌のような声を聞いているうちに、わたくしは眠り込んでしまい──結局お茶の時間には居間へ向かうことはできなかったのでした。
◇
しばらく仮眠をとってすっきりしたわたくしは、着替えて正餐室へ向かいました。エインズワースではコルセットドレスでなくても許されるから本当に楽ですし、食事が楽しいですわ。
本日のメニューは蕪のポタージュ、柑橘で和えられたサラダに雉のパイ包み、牛肉の赤ワイン煮。起きたばかりだからか、わたくしの分は量が少なくなっておりますが、今の食欲にぴったりでありがたい限りです。
酸味の利いた林檎の果実水を口にしながら、わたくしはアディに声を掛けました。
「ごめんなさいね、アディ。わたくし一緒にお茶をいただこうと思っていたのですけれど」
「母様、よく休めまして?」
「ええ、皆がよくしてくれましたから。アディはどうしていましたの?」
「わたし、お父様とお茶をして、その後アリスとホリーを連れて図書室に行っておりました」
王都邸の皆の前だからか、ちょっとアディがかしこまった様子でわたくしが不在だった時間のことを教えてくださいました。その公爵令嬢らしいたたずまいに、王都邸の使用人たちが皆一様ににこにこしておりますわね。
「なにか気に入った本は見つかって?」
「ええ! あのね、お父様が小さい頃読んでらした冒険物語があったの。それをお借りしたらとてもおもしろかったのです」
「まあ! 読み終わりましたら、どんなお話だったのかわたくしにも教えてくださいませ」
「どこまで読んだんだい? アデル」
わたくしとアディの会話に、ディオンも参加いたします。領邸では普通のことでしたけれど、やはり王都邸ではとても珍しいようで、わたくしは二人と話しながらも、王都邸の皆の様子を伺うのが楽しくなっていました。驚きますでしょう? もう仕事の鬼のようだったディオンはおりませんし、アディは完全なる貴族令嬢でしてよ!
「今はね、一巻目の終わりまで読んだの。ユルクーゼたちが竜に相まみえたところよ!」
「ああ、懐かしいな。あれは盛り上がる場面だろう?」
「そうなの! ドキドキしちゃう……どうなるのかしら。ああ、早く続きが読みたいわ」
もう、絵本ではなく、物語を楽しめるようになっているのですね。アディの成長度合いにはわたくしも驚かされます。いったいどんなお話なのかしら。流行りものだったならば、わたくしも題名だけは知っているかしら……。
社交に不必要なものは与えられなかったので、わたくしは流行りの物語の内容にはうといのです。こういうとき、アディと一緒に楽しめないのは残念ですわ。
そう思うと、つい口を衝いて出てしまいました。
「わたくしも読んでみたいです……」
成人したわたくしが読むものではないって言われてしまうかしら? いいえ、ディオンはそんなことは言わないはず。
そう思った気持ちは正解だったようで、アディとディオンがよく似た笑顔を浮かべて首肯いたします。
「わたしが読み終わったら、母様へお渡しするわ!」
「アデルだけでなく、ディアまで興味を持ってくれるなんて嬉しいよ。幼い頃、本当に好きな話だったんだ」
「読み終わったら、またお話しても?」
「もちろん。三人で語ろうじゃないか。おすすめの場面とかね。はは、私も読み返そうかな」
三人で本の話で盛り上がるなんて、本当に、この屋敷に来た時には思いもしませんでした。
この正餐室だって、ディオンとご一緒した記憶はございません。ずっと王宮にいらして、戻ってこられた後は体調を崩されておりましたから。
そうね、この部屋の思い出といったら、アディとの時間だわ。実戦でマナーと教えつつ、食材から勉強に繋げて……ああ、とても楽しい時間でしたわね。
「母様、覚えてらっしゃる? この仔牛のワイン煮……以前もいただきましたよね? あのときは、シーク領の牛だったわ。今日のものはどこの領地で育てられた牛でしょう?」
以前の思い出をそっとなぞっていると、笑顔のアディが食事のメニューに纏わる話題を口にいたしました。思い出していることがあまりにも同じで、とても……言葉に表せないほど嬉しいわ。
「わたくしも、同じことを考えておりました」
「後で、図書室に参りましょ? わたし、今度はよその国ではどこの牛が有名なのか知りたいです。産地の特色は同じなのかしら?」
ぎゅっと、胸が絞られるように痛みました。けれど、これは幸せな痛み。だって、わたくし、素晴らしく幸せな気分だもの!
「では、まずは地図を拝見しなくてはね」
◇
領邸と違って、王都邸は規律正しい場所でした。
王宮と比べておりましたから、以前はとてものんびりしたいいところだと思っておりましたけれど、それでもやっぱり由緒正しい筆頭公爵家の王都邸だけあって、使用人たちは私語をすることもなく、粛々と職務に励んでおりましたわ。働いている者たちは己の職務から離れることはなく、主人の生活に口を挟むことはありませんでしたし。
そのせいでアディのおかしな生活が七年もまかり通ってしまったのですけれど、その中でも幾度となくアディの環境の是正依頼が王宮のディオンのもとへ届けられていた通り、表に出さないだけで彼らにも感情や意見はございます。
だから、アディが王都邸に慣れてくるにつれて振りまくようになった笑顔や愛らしさに、彼らが早々に陥落したのも致し方なかったのかもしれません。
「奥様……本当に、本当にありがとうございました」
王都邸に戻ってしばらくののち、わたくしはケリーとジョセフから、それぞれ涙ながらに感謝の言葉を述べられました。
「お嬢様があんなにも幸せそうで……」
「旦那様がお元気になられて……」
ケリーとジョセフは別々にわたくしの元へ来たのですけれど、訴えることはほぼ同じですわ。
アディの成長を歯がゆく思いながら見ることしかできなかったケリーは、アディの健やかな成長に涙し。
王宮で潰れるようにして仕事をするディオンを心配していたジョセフは、肌艶もよく親子の仲もいいディオンの様子に感極まっております。
ですけれど!
二人してわたくしを女神だと崇めるのはやめてくださいまし!
侍女たちも賛同しないでくださいませ!
わたくしは! 単なる貴族夫人でしてよ!
長時間の馬車の旅って、絶対疲れる…。
王都邸だからか、アディが少し緊張していますね。




