3-5
「これは?」
「痛いです」
「こちらは」
「痛いです」
「ではこれは」
「痛いに決まってんだろわたしは糖尿病患者じゃないんですよいい加減出るとこ出ますよ」
わたしの日常生活を我が物顔で占有している博士どのが四日前から日課に加えた虐待行為は、現在のところ朝昼晩の三回、用法容量は不明瞭なまま規則だけは正しく継続されている。
まず側頭部をはたき、頬をつねり、前腕をつねり――更に何かしようとしてくるが、大体その辺で抵抗しているので続きは知らない。
これによってドエムの変態がどのような快感を得ようとしているのかは甚だ謎である。
が、ひょっとすると、世界にも類を見ないほど慈愛に溢れたわたしと四六時中行動を共にすることにより肉体的な責め苦が享受できずにいることで禁断症状が出始めたのかもしれない。そうして、飢えと焦りで自制が効かなくなり、執拗ないやがらせを行うことで暴力的な報復を誘発せしめようと……。
などと考えると安易に殴り返すのも怖くて、多少はいたぶられてやってから抗議するという穏便かつ自然な態度で接している。しかしそれによりわたしが受けているストレスは半端でない。おまけに、虐待の後は必ず治癒魔術とやらで手当もしてきて、ますます理解不能でめちゃくちゃこわい。
ピンヒールで踏んで欲しかったらプロの所に行けって何度言えばわかってもらえるのかなあほんと勘弁して。或いは、理想のパートナーとは己の手で育てるものとか思っているのかもしれないが、そういうのも、同意の得られる相手と楽しんでくれ。
「……今日も、痛いだけですか」
はあ、と悩ましげに溜め息をついてくるが、どう考えてもそれはお前がとるべき態度ではない。
溜め息つきたいのはこっちだし、悩みを抱えているのもこっちだ。お前の欲求不満は夜のネオン街をさまようなりネットの掲示板に書き込みをするなり、そういう自助努力でどうにかすべき。
一応、博士の奇行はイリオさんに報告してある。というか、わけのわからなさに怯えて真っ先に泣きついた。だが、それに対する返答は、エスカレートするようであれば止めるというありがたいお言葉だけだった。更なる苦情は、お決まりの「たぶんそのほうが君のためだから」で封殺され、積極的に動いてくれるけはいは今もってない。
一体何がわたしのためだというのか、当のわたしにさっぱり理解できないというのに、なぜイリオさんに訳知り顔ができるのか。イリオさんの見ている世界とわたしの見ている世界は、そんなにも違うのか。それとも、面倒なので適当にあしらわれてるだけだろうか。へこむ。
はあ、と思わず溜め息を漏らしたら、博士どのの気に障ったらしく目をすがめられ、再び溜め息を吐き返された。溜め息合戦かよ。或いは溜め息でコミュニケーションをとる種族か。なんのために文明が発達したと思ってるいい加減にしろ。
「おい貴様」
「ああ、そういえば。街医者が子供の診療をした後に飴を与えるという話をイリオに聞いたので、ファッジを買っておきました。まあわたしは医者ではありませんが、似たようなものといえなくもないですし」
「こっ、こんなことで水に流せると思うなよ!」
たった今八割方流したけどな。
自慢じゃないが、賄賂はロシア人並みに大好きである。あっいや清廉な悟りびとであるわたしに卑俗な金銭欲なんてないけどね。だがしかし、世の中は不思議なことに、お布施の量は愛の量みたいな、そういうとこあるからね。贈り物を好むことは罪とは言えんよね。つまり賄賂も可。
しかしあんまり簡単に許す姿勢を見せてしまうと、この見た目にそぐわず精神年齢がティーン以下の痛々しい変態を付け上がらせてしまうので、態度は厳しく。別にツンデレの発露ではない。
己の良心に言い訳しながら瓶詰めのバターファッジをひったくって、一粒口に入れる。サクサク。甘い。ひじょうにウマい。……たぶん、これを博士に買わせたのはイリオさんか、観光局の誰かだな。なにしろ、こいつの自主性に任せると、大方ゲテモノかしょっぱいものになる。すごく頑張ってべっこう飴かゴーフレットだし。一度でもスーパーに行ったことがあれば、せめてルマンドくらい買ってこられるようになるはずなのに、一体どんな育ち方をしたんだか。
おまけに、それを追及して返ってきた答えは「女性の好きなものはよくわかりません」だったからな。ばかにしてるのか。お前の選択からは、男女ではなく老若の間の隔絶を感じる。
「ところで先日の件ですが」
「なんの件ですか」
博士の感性の貧困について考えつつカロリーの塊を堪能していたら、突然何かを切り出され、首をひねった。
わたしとお前がなんらかの共通了解のもとに生きていると、ひとかけらでも思わないで欲しい。情操の未発達なドマゾの変態と聖人たるわたしとでは、魂のステージが五段くらいは違うんだ。説明には言葉を尽くしてもらわないと困る。
「先日の、貧相な詐欺屋台のことです」
「ああ……」
例の気持ちの悪い男のことか。
あの後すぐに保安官に引っ立てられていった男たちは、二人はシルキア皇国で服役中だったが脱獄して国外逃亡、もう一人はナタン共和国で強盗傷害を犯したのちそのまま逃亡してきた、いずれも指名手配犯だったようで、わたしたちも少々物々しい取り調べを受けた。まあやましいところは何もないし、行政関係者がバックにいるお陰ですぐに終わったが。
……終わったと、思っていたが、実はまだやらなきゃいけないことが残っているのか。法廷に参考人招致されてしまうのか。や、やだ、美容院に予約入れなきゃかな。
「彼らはそれぞれ、三日後に国に送り返されることになりました」
「えっもうですかえらいスピード解決じゃないですか」
あっさり結果を告げられて目をしばたたかせたが、博士はその反応こそ理解し難いというように、怪訝そうに眉を顰めて、腕を組む。
「これでも遅い方ですが……まあ、照合が終わりましたからね。あとは国許で裁かれるのが道理です」
「え? いやでも、ここでもこすい商売してたんじゃないですか。そっちはどうなったんです」
「国許での裁きに加味されます。ウルジアに対する賠償もそこで決まります」
「そういうもんですか」
「そういうものです」
わたしには納得できなかったが、そういうものらしい。
法律ってあまり理解してないけど、迅速に進展するものではなかった気だけはしているんだが……これも『消滅間際の山岳部族か、似たような隠れ住む人々の末裔』だけの常識だったんだろうか。ぐぬぬ、己の身元が不確かであるというのは、何かにつけて不便である。
と、ふいに身元の不確かさを思い出してちょっと落ち込んだ。
この事実を知らされて以来、時折考えるのだ。たぶんわたしは、もう帰れないから博士たちの気の狂ったような研究に協力したんだろうな、と。
だって、万が一奇跡が起こって家に帰れることになっても、そういう閉ざされた部族の生活なんて、村社会的な閉塞感に充ち満ちているに決まってる。一度外の空気を吸ってしまったわたしがそこに戻ったところで、もはや馴染めることはないのだ。知り合いの顔も親の顔もわかんないから余計だ。だから、もう『戻れない』なら何度リセットしてもおんなじだと思ったのだ、きっと。まあほんのちょっとだけ、通過した先がわたしの故郷の近くであったらいいなという、希望的観測もあったかもしれないけど。
とか。
ま、そんなふうにおセンチになるのは程々にしておくけれどね。
神様とか聖人は大体みんな言ってるけど、過去のことをくよくよ考えるのも未来のことで思い悩むのもばかばかしいし場合によっては罪深い。わたしもまたヴェルダースオリジナルを与えられた特別な聖人であるので、心は常に、清く正しく強靭であらねばならないのだ。
ふん、と鼻息を鳴らして意気込むと、博士にじっと凝視された。そ、そんなに見るなよ鼻毛が飛び出したわけでもあるまいに。
「それほどやる気があるなら、明日からは法律の勉強も加えましょうか」
「よ、よせ! いらない誤解をするんじゃない! 法律なんて道路交通法がわかれば十分だ!」
わたしの意気込みに妙な解釈を当てた博士を慌てて止めると、いやに残念そうな顔をされた。や、やめろ、お前は犬猫に芸でも仕込むような軽い気持ちなんだろうが、仕込まれるこっちはたまったもんじゃないんだ。使わないと脳は衰えるが、酷使し過ぎても死を招くんだ。
博士は諦めきれないようで、しばらく二人で睨み合うことになったが、やがて根負けしたように目が伏せられた。
「……知っておけば、役に立つこともあると思いますけどね」
お説ごもっともだが、それが役に立つような場面になど遭遇したくない。
「まあいいでしょう。ともあれ、彼らのひとまずの処遇は決まったのですが――事が事だっただけに、ミューネを抑えきれなくなりました」
「はい?」
どうやら、例の気持ち悪い男と貧相な仲間たちの件は本題ではなかったらしい。法律の話も、一緒に彼方にほっぽられて安心した。
だが、『ミューネを抑えきれなく』なったとはなんだ。
「ミューネとは」
困惑具合をわかりやすく可視化するため首を九十度近く傾けて聞いてみると、呆れたような顔の博士に首を垂直に戻された。……いや、呆れではないな。表情筋が最近ようやく働くようになってきた博士の顔色はひじょうに窺いづらいのだが、どうもこれは、苦虫噛み潰した顔、のような気がする。
そんな、嫌そうな気がする顔をした博士は、やっぱり嫌そうな気がする声を、薄く開いた唇から吐き出した。
「……わたしの同僚です。あなたの、以前のクートでもあります」
クート、というのがお世話係みたいなものだってことは、ぼんやり覚えていた。それでいくと、現在のわたしのクートがこの変態博士である。今回と前回で担当者が変わっているというのは明らかに無駄だと思ったが、以前の自分が変態とどんな付き合いをしていたのかは想像するだに恐ろしいので、前任者が別人でとても安心した。というのは脇に置いておいて。なぜその前任者の話が出てくるんだ。
再び首を横倒しにし、黙したまま解説を求めると、博士はまたもや頭の位置を正しながら溜め息をついた。何度目だナウシカ。
「先日の詐欺屋台の男が一人、あなたを見て変なことを口走っていたでしょう」
「……まあそんなこともありましたがあまり思い出したくないので触れないでもらえますか」
「わたしとしても不快極まりないのですが、そうもいきません。実はその男の罪状というのが、以前にあなたへ……いえ、なんと言いますか……『通過者』に対する不埒な行いをしたことなのです。ミューネは実際にそのとき現場に立ち会っていた者なので、先の顛末を知ってとうとう堪えきれなくなったようです」
わたしは呆気にとられて口を半開きにしてしまった。
ふ、不埒な行いってなんだ。まさか貞操の危機……いやそういうこともあったかもしれないけど、たぶん実際に何かされてはいないはず。それだったら、この博士さまはもっと言いづらそうにするはず。きっとそう。じゃあ何をされたんだ。か、考えるだけで寒気がするからもうやめる。色々危険だったけど、わたしはきっと無事だった。それで十分じゃないか。
気がついたら無意識に両腕をさすっていて、何を勘違いしたのか博士が自分が羽織っていた薄い上着を肩に掛けてくれた。
……うーん、この。この人なんで気遣いの方向が明後日なんだろうな。変態だからかな。今の完全に空気読めてたのに、何を間違って空振りしたんだろうな。
「わたしがあの男の正体に気づいたのはその事件が理由でしたから、ウルジアに提出する資料のこともあり、リアオーネスに状況を報告せざるを得なかったんです。本日返ってきた早便の中に、必要な書類に加え、別の同僚からの、ミューネについての走り書きが入っていたわけです」
「で、そのミューネさんが怒ってることが我々にどのような影響を?」
いまいち話の着地点が見えなくて尋ねると、博士はきゅっと柳眉をひそめた。これも、すごくわかりにくいがそれなりにバリエーションが読めるようになってきた。今のはやや哀れみが含まれている。――って、なんでだ。
「多大なる影響を及ぼします。まず、あなたは殴殺、圧殺の危険に備える必要があります」
「ちょっと待ってください博士さまの同僚なんですよね!?」
全くわけがわからなくて、博士の胸ぐらを掴んで怒鳴り立ててしまったが、仕方ないだろう。
なぜ博士の同僚の、しかも以前クートを務めてくれたというひとに殺されねばならないんだ。
混乱するわたしに哀れみの目を向けたまま、博士は静かに言葉を続ける。
「イリオに説明した際、あなたも聞いていたはずですが――今回のあなたの通過は、周囲の意向を無視したものでした。もちろん、クートとして一番側にいたミューネの意向もです。それについて未だ根に持っているようですし、そもそもミューネは感情が昂るとすぐに手が出るのです」
「な、なるほど。確かにそれは過去のわたしが犯した逃れようのない過ちですね。償う覚悟はそこそこできていますがひょっとして殴られるんですか」
「その可能性もありますし、それ以外の可能性もあります。例えば感極まって抱擁するという行為も、ミューネの場合は極技になります」
「さ、鯖折りか!」
「わたしはあまり詳しくはありませんが、おそらくそれでしょう」
なんということだ。要するに、重要な決断を勝手にしてしまったことを、覚えてないけど誠心誠意謝らねばならず、よしんばそれが許されても再会の感激から背骨をバッキバキにされてしまうのだ。もうその人研究者じゃなくて格闘家か、せめてスポーツ選手になれよ。個人的には、どこかの檻の中で過ごして頂きたい。
カートゥーンみたいにくちゃくちゃにされる未来を幻視してぞっと血の気が引いたが、しかし、わたしはまだ三十日はウルジアに滞在していられる。よかった。それだけが救いだ。三十日の間に、ミューネさんが記憶喪失になってくれるようクロノスに祈るしかない。
「ミューネの到着ですが、おそらく明日でしょう」
「なんでだ!!」
待て待て待て。今までの会話の中でそれ説明された? されてないよね? さも当たり前のように到着予定日の話を持ち出されたけど、お前はまずミューネさんがウルジアに向かっていることを明言しておけ。ぬか喜びしてしまっただろ。
「現在、未確認現象調査局には竜の扱いに長けた者が滞在しているんです。常であれば二日はかかる旅程ですが、ミューネは恐らく彼を使うでしょうから」
「そういうことを訊いたわけではないけどご丁寧に教えてくださって有り難うございます!」
一日か、厳密に計算すると、悪くて半日。それしか猶予がない。なんということだ。ミューネさんが来訪するまでに、わたしはどれだけの鉄板と防弾チョッキを手に入れられるだろう。
「ミューネは何を差し置いても真っ先にあの男を殴りにいくでしょうから、明日は朝から留置所に詰めておくつもりです。気休めでも、ストッパーがいた方が国として体面が立ちます。その間、あなたにはイリオのところにいてもらいます」
ぶるぶる震えていたら、そんなことを言われた。あの男ってのは、まああの男のことだわな。完全に自業自得だと思うし溜飲も下るが、冥福は祈ってやる。
「わたしもイリオもいないときにミューネと遭遇しないよう、あなたも気をつけなさい。決してひとりにならないように」
「そういうフラグみたいな台詞を容易く口にするのはやめてください」
「あなたの言うことは相変わらずよくわかりませんが……とにかく慎重に動くように。イリオにも頼んでおきますから」
「ラジャーっす」
異文化コミュニケーションは諦めている。博士とわたしとでは文化基盤が違うのだ。まあ聖人たるわたしと俗人たる博士の素養に共通点などあったら困るけど。
――などとまあ、すぐにもやってくるであろう筋肉爆弾について警告を受け、ひとしきり恐怖し終えると、観光局へイリオさんを訪ねることとなった。ついでに道すがら、いつも通りのフラネイ観光もしていく。
明日のことをそれなりに心配しているらしい博士はやけに優しく、普段なら体に悪いと言って買ってくれないような屋台のご飯やお菓子も次々に買い与えてくれた。
しばらくは子鹿のようにぷるぷると歩んでいたわたしであったが、おいしいものをたらふく食べたら元気になった。そうだ、未来のことは、それが現実になったときに悩めばよいのだ。
気分が良くなったので、果物を詰めた生地を油で揚げて砂糖をまぶしたパニンとかいうお菓子を博士にも分けてやろうとしたが、食べかけはいらないと拒否された。……なんでこう、肝心なときに空気が読めないかなこいつは。
じとりと白い目を向けると、博士は頭痛に耐えるかのるように眉間を押さえた。
「……あのですね。あなたの故郷ではどうであったか知りませんが、普通、異性間でひとつの皿を突き合うことや食べさしを差し出すことは、血縁または婚姻関係にない限り有り得ないことです。あなたのそれが無知故のものだとは承知していますが、慎みを持つ努力はしてください」
「あーはいはいなんのてらいも躊躇もなくポンポン財布から金を出すさまを見て薄々気づいてはいましたが、そういうね、食べたいものは全部自分で買うし量的に食べられないぶんは気軽に捨てる階級のお育ちでしたか破産しろ」
チッ、金持ちがいい気になりやがって。美味しそうなケーキがショーケースに並んでいても、全部は買えないし食べきれないから一緒に買った人に一口分けてもらう、それがつましく誠実な庶民の生き方だというのに……うっ、なんだ……今何か思い出しかけたような……気のせいかな。
大体、異性間でペットボトルの回し飲みができなくてからかわれるのは、中高生の通過儀礼だろ。えーっひょっとして何か意識しちゃってるの? やだー自意識過剰ー、って言われるイベントを経験しなかったのか。いやわたしは衛生面の問題で無理って応えてた気もするんだけど。……ん?
あれ?
ちょっと待て?
「博士どの。つかぬことをお伺いしますが、性別は」
「……男です」
「なるほど。薄々そうじゃないかと思っていました」
って、思ってねーんだけど。思ってたことないんだけど。
ごく普通に女性だと思っていた――いやまあお綺麗な造形だとは思っていたけど女としては肩幅も上背もありすぎるし声も低いし、どっちかといったら男であったほうが自然だと深層意識が言っていた気もするんだけど――しかし、たぶん、見た目は綺麗すぎるし機能は便利すぎたので――女でも、男でもなくて――これは博士という生き物だ、と思っていた。
性別なんか超越した、博士という生き物だと思っていた。
だが、しかし、こいつは――男なのか。
「えっと」
自分の、リアオーネス国民という素性すら偽りであったと知ったとき以上に、わたしは動揺している。ば、ばかな。そんなに慌てることじゃないだろ、もしかして異性として意識してんの? ひゅーひゅー。そんなわけあるか。
違う、そうじゃない、そうじゃないんだ、そうじゃなくて――だって――こいつドマゾ……いやそれは今はいい。
そんなことより、こいつは――毎日――わたしの、下着も、洗ってんだぞ。
「明日からお洗濯は自分でします」
「……そうしてください」
無表情に頷いた博士が何を考えているかはわからなかったが、自分が男だと思われていないことを知っていたらしいことは、なんとなくわかった。
……早く言ってくれよ。
動揺の治まらないまま、パニンの端、口をつけていない部分を千切って渡すと、博士は何も言わず、複雑そうな顔をして受け取ってくれた。
そうして二人で存外に弾力のある生地をもっちゃもっちゃしながら、無言で一直線に目的地を目指した。
観光局に到着するとイリオさんが出迎えてくれたが、我々の纏う微妙な雰囲気にすぐに気づいて首を捻られた。
わたしからは説明しづらかったので博士に目配せをすると、ぽつぽつと道中の経緯を語り出した。最後まで聞き終えると、イリオさんはなんとも生温い視線をこちらに向けながら中途半端に笑ってくれた。
……お前もかブルータス。お前も知っていたんだな早く言ってくれよ。
なんかもう、自分の目に映る何もかもが信用できない気がしてきたから、イリオさんにも性別を確認した。彼が間違いなく男性であったことに、わたしはひじょうに安心した。うっかり気を抜いたせいで防弾チョッキを購入する必要性まで頭から抜け落ちたのはたぶん明日めちゃくちゃ後悔するだろうが、今はそれより事実確認が大事なのだ。
コンドミニアムに帰ってから風呂場で自分の性別を確認した事実は、墓場まで持っていこうと思う。




