9杯目 もてなしの心 ②
修人が飲み終えたのを見計らって、ミアは新しいティーカップに次の紅茶を注ぎ始めた。
いつの間にか、準備を終わらせていたようだ。
「これはディンブラといいます。スリランカの茶園の中でも高地で栽培されるセイロンティーです」
「セイロンティーということは、キャンディと同じなんだね」
修人は眉間に皺を寄せ、記憶を辿るように応えた。
「ええ。ただそれよりも紅茶としての味わいが深く、バランスが良いとされています」
「へぇ、そうなのか」
修人はカップの縁に顔を近づけ、その芳醇な香りを吸い込む。たしかにキャンディと似ているが、ディンブラの方がシンプルな印象だった。
それからティーカップを傾けて、口に含ませると、温かい紅茶が喉を滑り落ち、その豊かな味わいが口の中に広がった。
甘さと渋さ、力強さと繊細さが見事に調和しており、バランスが絶妙だ。最初に感じるのは、静かで重厚な渋み。それは次第に豊かなコクと爽やかさへと変化する。まるで深い森の中から、草原に出たかのようだった。
その後、柔らかい甘みが訪れ、口の中に心地よい余韻を残して去っていく。
紅茶らしい紅茶だったが、市販のものよりも、すっきりとしていて飲みやすかった。後味は清涼感に満ちている。
「これも美味しいですね」と、修人は思わず声を漏らす。
「ディンブラはセイロンティーの中でも、古い歴史と伝統があり、世界中の紅茶愛好家に愛されています。バランスの良さから優等生とも呼ばれることもありますね」
たしかに優等生と呼ばれるに相応しい味わいだ。
「紅茶と一口に言っても全然違うんだな」
その言葉には素直な驚きと納得が混ざっていた。
ゆっくりとディンブラを味わいながら、修人は初めて知る紅茶の奥深さに、すっかり心を奪われていた。
最後にミアはキッチンの片隅に設置されたアンティークのコーヒーミルに手を伸ばした。
コーヒー豆を入れて、木製の取っ手を丁寧に回すと、香ばしい香りとともに、ゆっくりと挽かれていく音が静かな店内に響いた。
挽き終わった豆を慎重に計量し、ドリッパーにセットする。
次に温度を正確に管理したお湯を、細口のやかんからゆっくりと注ぎ始めた。
「まさか、コーヒーを淹れているのか?」
修人は眉を上げて、裏返ったような声を出す。
「はい。お店の整理をしていたら、偶然コーヒーミルを見つけまして」
ミアはコーヒーの粉全体にお湯を行き渡らせるために、細かく円を描くように注ぐ。最初の注ぎでは、粉が膨らみ、芳醇な香りが一層強くなる。
その淹れ方はずいぶんと本格的だ。飲みやすいものと注文はしたが、まさか『rheology』でコーヒーを飲めるとは思っていなかった。
しばらく蒸らした後、ミアは再びお湯を注ぎ、今度は一定のペースでお湯を追加していく。お湯がドリッパーを通り抜け、下のカラフェに抽出されたコーヒーがゆっくりと滴り落ちていく。
濃厚な黒い液体は、まるで一滴一滴に拘りが詰まっているかのように、静かに鎮座している。
続いて、ミアは紅茶の準備に取りかかった。これまでと同じようにティーポットに注ぎ入れた。ゆっくりとその香りと味を解き放つ。
十分な時間が経過すると、ポットからカップに紅茶を注ぎ、その鮮やかな褐色がカップの中に広がった。
これから何ができあがるのか予想もできず、うかつに口も挟めないため、修人は疑念を抱きながらミアの作業を見守った。
するとミアは淹れたばかりのコーヒーを紅茶が入っているティーカップに入れていく。
「えっ!?」
しばらく黙って眺めていた修人も、思わず目を見開いて驚きの子を上げた。
チラッとミアの表情を伺ったが、まるでそれが当然のことかのように澄ました顔をしている。
割合はコーヒーの方が3分の1ほどだろうか。さらにそこに少量の牛乳を加え、マドラーでよくかき混ぜていく。コーヒーの重厚な香りと紅茶の爽やかな香りが絶妙に混ざり合い、独特の匂いが立ち上る。
そしてミアはティーカップを満足げに、修人の前に差し出した。
「どうぞ、鴛鴦茶です」
「え、えんおうちゃ?」
聞き慣れない名前に、修人はそのまま反芻する。その響きは、どこか異国的で新鮮に感じられた。
「はい。コーヒーと紅茶を混ぜ合わせたものです。「鴛鴦」はオシドリという意味で、仲睦ましく相性がいい夫婦というニュアンスが名前に込められています」
「コーヒーと紅茶が……」
「起源は定かではありませんが、香港などではポピュラーな飲み物で、カフェに行けば定番メニューになっているそうですよ」
修人はまだその意外な組み合わせを信じられないような顔をして、テーブルの上の鴛鴦茶に視線を戻した。。
色合いはカフェオレのような薄茶色だ。しかし味の想像が全くできなかった。ミアが言うように相性がいいのかどうかも分からない。
修人は恐る恐る、鴛鴦茶を口に含ませる。
すると最初は戸惑いが顔に現れたが、次第にその表情は驚き、そして喜びへと変わっていった。
「これは…想像以上に美味しいですね」
鴛鴦茶の味わいは、それぞれの異なる文化がぶつかったかのようだった。
まずコーヒーの濃厚で力強い苦味が舌の上を支配する。濁流のように口の中を支配して、自分たちの縄張りを主張する。遅れて紅茶の優雅な渋味と華やかな香りがふわりと広がった。まるで静かな英国の午後、庭園で過ごす穏やかな時間を彷彿とさせる。
そしてこの2つの味が溶け合う瞬間、それぞれの味が共鳴し合い、新たな味わいを引き出していた。
コーヒーの力強さが紅茶の柔らかさを引き立て、紅茶の繊細さがコーヒーの深みを際立たせる。そのバランスは絶妙であり、互いを補完し合っていた。
そのなかにミルクが加わることで、鴛鴦茶は一層まろやかに、そして甘美な味わいへと変貌していた。ミルクのクリーミーな滑らかさが全体を包み込み、カフェオレともミルクティーとも言えない優しさがあった。
最後に喉を通り過ぎる時の余韻は、心地よい苦味と甘味が交錯し、深い満足感に包まれていた。
以前までコーヒーを飲んでいた修人も楽しめる味だ。
「コーヒーと紅茶がこんなに合うなんて思いもしませんでした」
ミアは得意げに「そうでしょう? 喜んでいただけると思いました」と微笑んだ。
「そのためにわざわざコーヒーを?」
修人は、ふと疑問を口にした。
するとミアのわずかに口元を上げ、確かな意図を持っていたかのように笑う。
「はい。もしお客さまがまたいらっしゃったらお出しできるように」
「どうして、そこまでしてくれるんですか? 他のお店だったらそこまでしませんよ」
1人の客のために、普段は使わないコーヒーミルを取り出して、コーヒー豆を買って淹れてくれるお店なんて聞いたことがない。
もちろんメニューにあるはずもなかった。
ミアは少し考え込み、自分のヒゲをもて遊ぶようにいじった。どこか思うような事柄がある、といったような仕草だ。
「最近、自分の仕事について考える機会がありました」
やがてミアは静かに口を開く。
「紅茶を淹れることで、お客様にどんなサービスができるのか。正直、ただ飲み物を出すだけでは、何も変えられないのかもしれません。だからこそお客さまに向き合い、できる限りのことをしたいと思ったんです」
その言葉には、確固たる信念が感じられた。
それからミアは瑠璃色の目を逸らし、遠慮気味に呟く。
「生意気な言葉だと思われるかもしれませんが……」
「いえ、素晴らしいと思います」
修人はミアの言葉を遮って、否定する。
「どんな仕事にも通じる信念だと思います。『客の求める商品をそのまま売るのは二流。一流は客ですら気づいていない需要を満たす』」
修人はいつかのビジネス書で読んだ言葉を、思い出したようにぽつりと呟いた。
それから空になったティーカップをゆっくりとテーブルに戻す。
「また今度来たときも、鴛鴦茶を頼んでいいですか?」
「ええ、ぜひ。お客さまにそう言っていただけるのは、とても励みになります」
ミアは小さく頷き、少し背中を丸めてカウンターに手をつく。そして、再び修人の方を向いた。
その声は、心の底から嬉しさを滲ませている。控えめながら確かな情熱が、その一言に凝縮されていた。