10杯目 道の曲がり角 ①
朝の静けさの中、目を覚ましたミアは瑠璃色の目を何度かパチパチとさせた。
前足を前に突き出して、尻尾を高く上げると、しなやかに背中を伸ばす。それからそれに合わせるように大きくあくびをした。
ミアは軽やかな足取りで床に降り立つと、年季の入った木の床はミアの動きに合わせて微かにきしむ。まるで建物自体が目を覚ますかのようだった。
ミアは古民家カフェ『rheology』の2階で生活している。
店舗と同じだけの間取りで、猫1匹には広すぎるくらいだ。
しかも置かれているものといえば、ベッドにしている毛布と、小型の洗濯機、物干し竿と人間ほどの大きさの本棚。それとオーナーの莉央が買ってきてくれる食糧くらいのものだ。おそらく部屋の半分も使っていないだろう。
身体を伸ばし終えると、ミアは一階の店舗フロアに降りる。
まず始めに、入り口の横にある窓を開けた。すると外の新鮮な空気が室内に流れ込み、カフェ独特の懐かしい香りと混じり合った。それから窓から差し込む暖かい日差しを浴びて、また一つあくびをした。
危うく寝そうになったところを何とか堪え、次にミアはカフェの掃除に取りかかった。
テーブルと椅子は、温かみのある木製家具で統一されていて、古民家カフェのレトロな雰囲気をつくりだしている。一つ一つがかなり重く、家具の配置を整えていくのは、猫のミアにとっては重労働だった。それからミアは布巾を濡らし、テーブルを一つ一つ拭いていく。その後、床を丁寧に箒で掃き、埃を払った。
掃除が終わると、ミアはキッチンの整理整頓に取りかかった。
棚には様々な紅茶の茶葉が入れられたキャニスターが整然と並んでいた。
少なくなった在庫を確認したり、佐藤さんのお店で新たに購入した茶葉をキャニスターに詰めていく。
「さて、今日はどの紅茶をお勧めしましょうか」と独り言を言いながら、ミアは紅茶の缶を一つ一つ手に取って確認する。
お店を作り上げていく高揚感で、ミアは尻尾を左右に揺らす。
茶葉は季節によって、旬が異なる。ときには入れ替え作業をしなければならない。
それから前日に洗い終えていたティーカップやティーポットを、キッチンにセッティングしていく。
本来であれば注文を受けてからでもいいのだが、ミアの場合は時間がかかってしまう。
スペースが許す限り、あらかじめティーポットをセットしておく方がお客さまを待たせずに済むのだ。
やがて、時計の針は開店時間を指し示した。
ミアはジャンプして扉を開けてると、外に出る。
それから扉に掛けられたプレートを『Closed』から『Open』に裏返す。
それからチョークを持ち、扉の横に立てられている黒板スタンドに、今日のおすすめ『ダージリン』と書いた。上手く力が入れられず、いつも丸っこい文字になってしまう。
「むぅ、なかなか上手くなりませんね」
ミアは首を傾げて、少し不満げにヒゲを揺らす。
「可愛い字だと思うけどね」
ふいに、背後から声をかけられる。
振り返らなくても分かる、聞き覚えのある溌剌とした声だった。
「莉央さんが開店直後に来るなんて、珍しいですね」
そこに立っていたのは、『rheology』のオーナーである白城莉央だった。
彼女は明るいブロンドの髪を肩まで伸ばし、ふんわりと巻いている。そして彼女の動きに合わせて髪がきらめく。
スラリと手足が伸びていて大人っぽい容姿だが、表情にはどこかに子どものような雰囲気を残している。
「今日は仕込みの日じゃないですよね?」
オーナーの莉央がお店にくる日は、ケーキやサンドイッチなどの仕込みがあるときか、買い出しに行く日だ。
こうした何もない日は、大学が終わった夕方に来ることが多い。
「うん。すこしお店の様子が気になってね。一杯飲ませてよ」
「はい。もちろん」
莉央が木製の扉に手をかけると、擦れる音を立てて開く。そして1人と1匹は、お店の中へ足を踏み入れた。
『rheology』が開店してから、しばらくすると小さな足音とともに扉が開いた。
そしてランドセルを背負い、少し俯きがちに常連の小学生・高坂鈴が入ってきた。
「こんにちは」
鈴はその場で、ぺこりとお辞儀をする。
「いらっしゃいませ」とミアが声をかける。
開店直後からカウンターに座って、ハーブティーを楽しんでいた莉央も、振り向いて呼びかける。
「今日も学校帰り?」
「はい。そうです」
それから鈴は遠慮がちに訊ねた。
「今日も少し遅くまでいいですか?」
「ええ、もちろんです」
ミアが優しい口調で承諾すると、鈴もその笑顔に感化されて、朗らかな表情を浮かべる。
そして鈴は莉央の隣のカウンター席に座ると「おすすめのダージリンをお願いします」と明るく注文をした。
「かしこまりました」
ミアはカウンター奥の棚から、ダージリンのキャニスターを取り出した。
佐藤さんのところで仕入れて、今朝新たに詰めた茶葉だ。
「これはグームティーというダージリンです」
「へぇ、初めて聞いた名前ですね」
鈴がキャニスターを覗き込む。
ほのかに香ばしい香りが広がっていて、茶畑の風景が目に浮かぶかのようだった。深い緑色の茶葉が集まり、暗い谷底のようになっている。
「ダージリンの中でも長い歴史と伝統があり、正統派の味わいのお茶を作り続けています。風格のある香りと滑らかな口当たりが楽しめるんですよ」
そう言うとミアはティーポットにグームティーの茶葉を入れ、沸かしたお湯を注いで蒸らした。
するとカフェ全体に心地よいグームティーの香りが広がった。
ミアの動きは丁寧で、一つ一つの仕草に高い技能と深い愛情が感じられた。時間を迎えるとゆっくりと動作でティーポットを持ち上げ、香りが一層引き立つようにティーカップに注ぎ始めた。
その瞬間、湯気がふわりと立ち上がり、カフェ全体がさらに香りに包まれた。
ミアは「お待たせいたしました」と優しい声で言いながら、丁寧に鈴の前にティーカップを置いた。
「ありがとう、ミアさん」
置かれたティーカップには美しい細工が施されている。表面には花の模様が彫り込まれており、縁取りは金色に輝き、光が当たるたびに柔らかい輝きを放つ。
持ち手部分には、絡み合う蔓のような装飾が施されており、まるで蔦がティーカップにしがみついているかのようだった。
手に取るとほんのりとした温かさが伝わってきた。水色は濃く深みのある赤茶色だ。鈴は期待に胸を膨らませカップを見つめながら、香りを楽しむように深呼吸をした。
そしてゆっくりと紅茶を口に近づけ、一口含ませる。
その瞬間、心がほっと安らぎ、身体が和らいでいくのを感じた。
「香りは深くて力強いのに、優しくて飲みやすいですね」
「はい。この時期であれば、1番バランスが良く、おすすめできるダージリンだと思います」
鈴はグームティーを堪能しながら、のんびりと過ごす。
家に帰れない彼女にとって『rheology』に滞在する時間は、どんな場所よりも心地良いものになっていた。
鈴が紅茶を飲み終えたころ、莉央がふと話題を切り出した。
「鈴ちゃん、学校では友達と遊んだりするの?」
鈴は一瞬、話すのをためらった仕草を見せたが、気丈な態度を崩さずに答える。
「友達がいないので、あまり遊んだことはないですね。1人で本を読んだり、勉強していることが多いです」
「へぇ、そうなんだ。なんか意外だね」
莉央がミアに同意を求めるように、目配せをする。
「そうですね。大人しくて礼儀正しいですし、お友達は多いかと思っていました」
「1人でいるのが好きなの?」
「嫌いじゃないです。だけどそれ以上に、どうやってクラスメイトと仲良くなるかがよく分からなくて、いつも何を話したらいいのか悩んじゃうんですよね」
「そっかー。会話なんて適当でいいと思うけどね」
莉央があっけらかんと笑って言うと、鈴は思わず苦笑する。
「莉央さんみたいに、元気に振る舞えたら良いんですけどね」
「莉央さんって、友達多そうですもんね」
鈴の言葉にミアも軽く尾を振って同調する。
莉央は同年代に限らず、どんな人とでも簡単に打ち解けることができる。鈴のような初めての客にも、佐藤さんのような常連にも自然と声をかけ、気さくに振る舞っている。おそらく医者を志している莉央の性格が関係しているのだろう。
問診で症状を聞き出す時や、患者との信頼関係を築くためには、コミュニケーション能力が欠かせない。
「やっぱり明るく話しかけた方がいいんですかね?」
鈴が少し戸惑いの仕草を見せて、莉央に訊ねる。
「もちろんそれは大事だけど、初めは相手の話をよく聞くことだね。そこで共感してあげて、自分が感じた意見を伝えたりとか、質問とかしてたら、普通に話せるでしょ」
「分かりました。今度からやってみますね」
鈴はぐっと力を込めて、宣言するように声を発した。
それから鈴はミアの方に向き直った。
「ミアさんは友達多いんですか?」
するとミアはピクリと耳を動かし、俯いて深く考え込む。
「うーん、そうですね……」
ミアの尻尾が地面を這うようにして、行ったり来たりする。思い当たる節がないかと、考えを巡らせているのが、尻尾から伝わってきた。
「莉央さんはオーナーですし、お店のお客さまを友達と呼ぶのは、やっぱり違いますよね」
ミアはそう小さな声で呟き、苦笑いを浮かべる。
佐藤さんのような人もいるが、彼も仕事を通じての付き合いであり、それもまた友達という真柄とは違うような気がした。休日に一緒に出かけたり、プライベートで遊んだりするようなこともない。
そんな人は、ミアにはまったく思い浮かばなかった。
ミアはとうとう観念して「私も友達が少ないかもしれません」と、自虐的に呟いた。
「ミアの場合は、仕事しすぎなんだよ。たまには遊んだ方がいいと思うよ」と、莉央が呆れたように言いながら肩をすくめる。
その言葉には、どこか親しみと優しさがにじんでいた。
「……そうかもしれませんね」
ミアは小さく息を吐いて、瑠璃色の瞳を瞬かせた。




