2日目
朝、目が覚めた時に昨日のことはすべて夢だったのではないか? ……と、ものスゴイ不安に駆られた。
しかし、手元にヨダレまみれになった昨日のプリントがあったので、ホッと胸をなで下ろした。
「そうだ、今日から朝ごはんを作らなきゃ!」
うちは母親がずっと家に居るので、幼稚園の頃から包丁を使ったり、パン生地をこねたり、いろいろ料理を仕込まれていたから、実は作ることに関してはまったく問題は無い。面倒くさいだけだ。
「うーん、自分で作るなら今日は久しぶりに甘々の卵焼きにしようかな」
作り始めると、それはそれで楽しいので鼻歌など歌いながら余裕で作業を進める。
「あんまりのんびり作っていると、食べる時間が無くなるよ」
母親がまた正しいことを言う。
「分かっているよ、うるさいなあ」
せっかく、楽しく作っているのに。でも、確かに時間は無い。
結局、卵以外は母親に用意してもらって、あわてて食べた。
★ ★ ★
玄関を出ると、登校中の生徒達が男女関係なく、入り混じって話していた。今まで見たことの無い光景だ。「おはよう」と、あちらこちらで挨拶が聞こえる。
皆、積極的でスゴイなあ……自分は大丈夫だろうか?
オレなんかに声をかけてくれる人なんているのかな? 自分から話しかけなくちゃいけないのかな? などと心配をしていると、すぐ後ろから声をかけられた。
「あっ、おーい、蛙!」
振り向くと、元いじめっ子の平くんがこっちに向かって走って来るではないか! 平くんの背後にキラキラした後光が差して見えた。
「平くん……」
あまりの嬉しさに、目からちょっと涙がにじんだ。オレに声を掛けてくれた平くんは、なんて良い人だろうと、胸がいっぱいになった。
そして、駆け寄ってきた平くんは、持っていた鞄をオレの頭に力いっぱい叩きつけて来た。
「よし、3人目ゲットだぜ!」
昨日からの幸せ気分から一転、一気にいつもの調子に戻されたオレは、さっきとは違う意味の涙がにじんでいた。
しかし、それでも痛い頭を抱えて頑張った。
「お、おはよう、平くん」
「何だよ、蛙が一丁前に挨拶しやがって!」
「え? い、いや、だって平くん、会話をしないといけないから」
「あ、そーか。じゃあ、そうだな、相変わらずお前の顔はバカっぽいな! ははは!」
「えーと……はい、そうですね?」
まあ、現実はこんなもんだ。
「ははは! よし、今日の会話は『古井戸は顔がバカ』な!」
「ええー……」
こんな会話でいいのかなあと悩んでいると、そこに、前方から2人のにぎやかな女子と一緒に日比野くんがこっちに向かって来た。そして。
「古井戸、遅いよ!」
と、いきなり怒られてしまった。
「ええっ、何だよ、蛙かよ? オレは?」
平くんも怒っている。そして怒ったままの日比野くんが、平くんに聞いた。
「『かわず』って何?」
「え? 何って、こいつのことだよ」
と、平くんがオレを指さした。
「そ、そんなあだ名があったの……? そうか、古井戸だから蛙とか……風流かよ」
日比野くんがオレの腕をつかんで、顔を覗き込んで言った。
「ちょっと来て」
2人の女子と平くんを置いて、日比野くんがオレの腕をつかんだまま走り出した。
オレは日比野くんに引っ張られて第2校舎へ向かって走って行き、そのまま下駄箱がある入り口の横のベンチに2人で倒れ込んだ。
日比野くんが息を切らせながら、「おはよう」と笑った。オレもゼーハー言いながら、「おはよう」とやっと言った。
「すごいね、もう2人も話したのか。あ、平くんも入れたら3人だね」
お、日比野くんが相手だと普通に話せるぞ。
「え? ああ、そうか、話したことにしちゃえばいいのか」
日比野くんも普通に返してくれる。
「いや、ちゃんと話していたし」
「でも、さっきの2人が誰だか分からないや」
「伊東さんと三原さんだよ?」
「へー、よく覚えているなあ」
「日比野くんだって、昨日皆と話したでしょ」
「あ、それ」
日比野くんが人差し指を立てて、オレの鼻先を突っついて言った。
「オレのことは、『史也』でいいよ」
「へ?」
「オレも、『未知流』って呼んでいい?」
「ええっ? う、うん」
びっくりして、オレは何度も首を縦に振った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「未知流?」
「は、はい」
うわあ。親以外から名前で呼ばれるのなんて……幼稚園以来、かな?
「ん?」
首を傾げて日比野くん……いや、史也が何かを待っている。
「ふ、ふ、ふみや……?」
「えへへー」
日比野くん、いや、史也が顔をくしゃくしゃにして、にっこり笑った。
何だろう、このくすぐったい状況は? オレの何が好かれているのか分からないまま、どんどん二人の仲は深まっていく様で……困った挙句、とりあえず、オレも笑ってみた。
「あ! 日比野くんと古井戸くん見っけ!」
人数をクリアしようというクラスメイトに見つかって、オレと史也はあっという間に引き離された。
史也はまた複数の女子に捕まり、オレは隣の席の寺崎くんに声を掛けられた。
「おはよー! もう、何人と話した?」
「お、おはよう。えーと、平くんと日比野くんの2人……かな?」
「あー、そりゃヤバいな。今日ってさ、4時間授業だろう? 朝と休み時間が3回しかないから、それぞれ9人以上話さないといけない計算だよな。オレ入れてまだ3人ってことは、始業時間までにあと6人は話さないと、この後ヤバイぜ」
「ああ、そうか!」
そんなことをまったく考えていなかったオレは、本気で感心した。
「寺崎くん、頭いいなあ」
「こんなの普通だろ」
寺崎君が上履きを履きながら、少し嬉しそうにニヤッと笑った。
「これさ、話すのはいいけど、教室に行ってあのプリントに誰と何を話したって書かなきゃいけないのが面倒くさいよな。オレもう、お前で8人目だし、忘れそうだよ」
「そうだね、早く教室に行って書かないと」
寺崎くんは、本当に誰とでも同じ感じで話せる、感じの良い人だなあとつくづく思う。うらやましいコミュ力だ。
「あ、穂坂だ」
オレ達のすぐ後ろに、穂坂くんが立っていた。
「オレと穂坂はもう、さっき話したから。古井戸、4人目!」
「えええっ!」
寺崎くんはオレの肩を叩いて、そのまま教室に走って行ってしまった。オレと穂坂くんを残して。
ヤバい。ものスゴイ、気まずい。
「……」
「……」
気まずいまま、2人で並んで階段を上った。
しかしオレは、昨日の決心を思い出していた。今日は絶対、オレから話しかけよう、と。
「あ、あの……」
全身から変な汗がドッと噴き出した。