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熊野さん

「ハカセ、ハカセ、スゴいの見つけた!」

 そこに、熊野さんが右手の上に左手を乗せた状態で、小走りで近づいてきた。


「ハートマークがついている虫見つけた!」

 パッと左手を開けると、確かにその黄色い虫の背中にはハッキリと黒くてキレイな、小さいハートマークがあった。オレの頭の中の〈虫フォルダー〉が開いた。


「ホントだ!」

「かわいい!」

 女子の皆さん大はしゃぎで、撮影会が始まった。


「でも、なんか、形がカメムシっぽいね」

「そうだよ、これはカメムシの仲間だもん」

 オレは〈虫フォルダー〉を検索しながら答えた。


「げっ、カメムシ?」

「これは確か、エサキモンキツノカメムシっていうんだよ。オレも以前から、ハートマークがこんなにハッキリ付いているのに、何で女子人気が出ないのかと思っていたんだ」

 ドン引きした女子の皆さんが、一斉に解散して掃除に戻っていった。熊野さんとカメムシを残して。


「オレも本物を見たのは初めてなんだ。やっぱり、人気が出ないのはカメムシだからかな?」

「なんでカメムシだとダメなの?」

 どうやら熊野さんは、あのカメムシ臭を知らないらしい。

「そりゃあ、臭いからじゃない?」


 熊野さんは、自分の右手を顔に近づけてクンクンした。

「? 臭くないよ?」

「カメムシは身の危険を感じると、臭い匂いを出すんだよ」

 そう言いながらもオレ的にはかなりの衝撃的な行動だったので、つい、堪えきれずに笑ってしまった。


「何で笑うの」

 熊野さんに怒られた。


「いや、カメムシをこんなに間近でクンクンした人を初めて見たから。

 でも確か、人によってはカメムシの臭いを良い臭いと感じる人もいるという話を聞いたことがあるよ。熊野さんは、そのタイプかもしれないね」


 笑いが止まらない。何故ならば、『そのタイプの人』がカメムシを捕まえると、楊枝で突っついて臭いを出させてはクンクンするという話を聞いたことがあったので、その姿を熊野さんで想像してしまったからだ。ごめんなさい、熊野さん。


「だって、臭くないし、知らなかったし、しょうがないじゃん」

 熊野さんが恥ずかしそうにスネてしまった。


「ごめん、ごめん。カメムシ、オレが放してくるよ」

 そう言って、オレの手をエサキモンキツノカメムシの頭の上に添えた。そのままじっとして待つ。


「えーと、カメムシは後ろから触ると敵に攻撃されたと思って臭い匂いを出すらしいんで、こう、カメムシが自分で手に乗ってくるのを待つのがいいらしいんだ」

 何かじっとしているのも気まずいので、色々解説してみる。


「へー、そうなんだ。さすがハカセだね」

 熊野さんは素直に誉めてくれるから、素直に嬉しい。


「このエサキモンキツノカメムシは『幸せを呼ぶカメムシ』っていわれているんだよ。いいことあるといいね」

「えー、ホント? それは嬉しいなあ」

「そうだ、エサキモンキツノカメムシってね、幼虫もかわいいんだよ。背中の柄が笑っているの」

「えっ、何それ? スゴイ見たい! 幼虫も成虫もかわいいのに人気が無いなんて、もったいないね」

「それはやっぱりホラ、カメムシだから?」

「え~、カメムシ、かわいそう」


「いや、熊野さんもさすがに1回強烈な臭いを嗅いだら、たぶん納得するよ……あっ」

 卵を生んだ母親が孵化するまで覆い被さって卵を守るという、カメムシの中でも珍しい優しい習性があることを話す前に、エサキモンキツノカメムシがジワリとオレの手に移動し始めた。


「よしよし、そのまま……」

 何とか無事に、警戒されること無く移動してくれた。


「じゃあ、外に放してくるよ」

 と、オレが立ち上がると、熊野さんが一緒に立ち上がった。


「一緒に行く」

 熊野さんがにっこり笑った。

「だって、私の幸せを放すんでしょ?」


 言われてみればその通りなので、一緒に外に出た。暗かった屋内と比べて、外は夏の日差しと光る緑が眩しく、セミの声もうるさいくらいで、夏真っ盛りな熱気だった。


「せっかく外に出してもすぐ戻ってきたら困るから、少しここから離れたところで放しているんだ。まあ、あんまり関係ないと思うけど」

「そうだね、虫だらけだもんね」


 熊野さんがオレの顔を覗き込んだ。

「古井戸くん、ちょっと話してもいい?」

「はい?」

「あの、ちょっと古い話しなんだけど」


 熊野さんが何か思い出すように視線を泳がせてから、またオレの目を覗きこんで言った。

「私が古井戸くんについて書いた紙が無くなったのって、覚えている?」


「ああ、結局出てこなかったよね」

「あれね、隠したのはたぶん、日比野くんだよ」


 あまりの驚きに、オレは一瞬何を言われたのか理解できなかった。

「はあ?」


 一拍おいて、言葉の意味を理解した。

「なっ、なななな何で? 史也が?」

「うん、だって、あの内容を隠して得をする人って日比野くんだけだもん。あの後もう一回書き直す時も、『この部分を削れ』って日比野くん、注文つけてきたし」


「ええー……」

オレは正直、スゴいショックだった。

「ぶっちゃけ、本人に聞いてみたんだよね。『隠したの、日比野くんでしょ?』って」


「えっ、聞いたの?」

「そしたら、ニヤニヤ~って笑って、『エヘヘー』だって」

 あの、いつもの甘えた笑顔が、懐かしく思い出された。


「ええ……、史也が? そ、そうなの? ……ホント、あいつは何を考えているのか分からん……」

 オレは困惑した。マジなのか……


「あのね、日比野くんの考えている事って結構、単純だと思う。隠したのも、悪気はまったく無いのよ」

「うーん、熊野さんはスゴいなあ……」

 何で、熊野さんの方が史也の事を良く理解しているんだろう?


「あのね、私が日比野くんを理解できるのは、私が傍観者だからだよ」

 熊野さんが、おかしそうに笑った。


「だって、日比野くんが一番興味のある対象は古井戸くんだもん」


「はあ?」

 何を言っているんだ、熊野さんは?

「え? オレ?」


「うん、やっぱり分かってなかったんだ。日比野くん、いつも言っていたのに」

「え、いや、好かれているのかなとは思ってはいたけど……」

 ど、どういう事?


「うん、古井戸くんを好きなのは間違いないと思うけど、日比野くんはちょっと、違うかな。古井戸くんがいろんなものに興味があるみたいに、日比野くんは古井戸くんという存在に興味があるのよ」

「はあ?」

 なんじゃそりゃあ。オレという存在? に、興味があるの?


「日比野くんね、今まで他人に興味を持ったことが無かったんだって。

 でね、初日の自己紹介を順番にしている時に、隣で変なヤツが一生懸命話しているなーって思って、そっちばっかり気になっていたんだって。で、いざ自分の番が来たら何を話したらいいか分からなくて困っちゃったって言っていたけど。覚えてる?」

「そ、そりゃあ覚えてはいるけど……」

 え? あの状況で隣の会話を聞いていたの? あ、だから怒られていたのか?


「でもオレ、あの時はもう、いっぱいいっぱいだったから」

「そう、そのいっぱいいっぱいな状況で話す古井戸くんが、日比野くんにとって、とても面白かったらしいのね。それなのに、日比野くんに対しては、古井戸くんはスゴイ普通な態度で普通なことを言って来るし、何なのコイツ、変なヤツって。で、彼の人生で初めて、自分からお友達になりたいって思ったらしいのね」


「えーと、つまりオレが変なヤツだから、興味を持たれたわけだ」

 褒められているのか何だかよく分らないし、訳わかんない。


「でね、確か私が初めて日比野くんに古井戸くんのことを話したのは、『古井戸くんっていろんなことを知っているけれど、そのことについて話す時って絶対知ったかぶりしないで、逆にこんなこと知っていてすみませんみたいな態度なのがおかしいよね』って言ったのね。そしたらそれが、日比野くんの古井戸像に合っていたらしくて、『お前は古井戸を語ってよろしい』みたいな許可が出たのよ。訳わかんないでしょ?」

 熊野さん、大笑い。こんなに笑う人だったのか。


「で、まあそんな内容が、書き直す時に日比野くんに『削れ』って言われた部分なんだけど」

「えっ、そんなことが書いてあったの?」

「うん、ごめんね」

 謝られてしまった。


「でも、日比野くんはその辺を古井戸くんに隠しておきたかったみたいで」

 こうして熊野さんと話していると、熊野さんをこんなに表情豊かに、自信を持って話せるようにしたのは、史也の力なんだろうなと感じる。


 オレだって、史也がいてくれたから他の人とも話せるようになったんだと思うし、なんだかんだ、史也の存在はでかいのだ。


 そしてオレは、熊野さんに聞かなくてはいけないことを思い出した。

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