お湯と思い出
リリィは手をゆったりと動かしながら、昔見た白い翼の事を思い出していた。まだ子供の自分が、もっと幼い頃の、思い出せる最古の記憶。
逆光の中暗く写る人影から左右に大きく伸びた、白く輝く恐ろしい翼……天使。思い出しただけでも身震いがする。あれはきっと、恐怖すべき何かなのだろうと幼心に理解していた。しかし本来なら忘れたいと願うような恐怖と結びついた記憶が、どうしても心に引っかかって離れなかった。
物思いにふけっていると、いつのまにか手の動きが乱雑になってしまっていたようだ。
「そっ、そこはそんなに強く洗うな!そもそも前は自分で洗えると言ってるだろう!」
可愛らしい苦情に、白い翼は記憶の中から消えていった。意識を現実に戻すと、目の前には泡に塗れた滑らかな背中と、赤く染まった顔を振り返らせて抗議する、幼い美貌があった。記憶の中の美より目の前の美。そう思ったリリィは、目の前の裸体に枝垂れかかると、胸へと回した手の動きを再開した。
「あら、エルはいけずねぇ。姉妹なんだから恥ずかしがらなくてもいいじゃない。裸の付き合いよ、裸の。大体、胸だって大して大きく無いんだから、触られたって恥ずかしがる事ないじゃない。」
エルと呼ばれた少女は最近10歳になったばかりであり、胸の大きさなど気にする必要は無い。しかしリリィはサキュバスと言う種族柄、同い年の彼女よりも幾らか胸に凹凸があった。エルの背中にからかうように乳房を当て擦る姿は、小悪魔ではなく既に立派な悪魔であった。
「うるさい!失礼な奴め……大体、私たちは姉妹では無い。お前は従者で、私がご主人様なんだぞ!」
健気にも未だに自分との間に上下関係を築こうとする友達に、S気を催した。そんな事をつゆ知らず、エルは背中からリリィを追い払うように、肩甲骨から生えた蝙蝠のような黒い羽根を動かした。それがダメだった。
「アッ……///ダメで御座いますご主人様///そのように羽根でリリィの胸を虐めては❤️リリィは、リリィは気持ちよくなってしまいまする///」
本当は胸に一瞬羽根が触れただけだが、大袈裟な反応で主従関係を当てこすったのだ。年は同じでもサキュバスにこの手の応酬で勝つのは不可能である。
「ううぅ、もうやだ!リリィとお風呂はいるのもうやだぁ!」
風呂場に反響するわざとらしい嬌声に精神を削られたエルは、威厳の為に取り繕っていた言葉遣いをかなぐり捨てて、とうとう根をあげた。3日ぶり10回目の敗北宣言であった。
リリィと言うサキュバスは孤児だった。天界から攻め込んできた天使の軍であり、リリィの両親を含め多くの魔族が犠牲になった。リリィは数少ない生き残りで、戦災孤児としてヴァンパイアの貴族に引き取られたのだ。
リリィと一緒に風呂に入っていたエルは、この貴族家の側室の子で、将来的にリリィは彼女の補佐官としての役割が期待されていた。しかしリリィはどこ吹く風で、セクハラを楽しんでいる。この状況に大人達は特に注意をしなかったので、現状は何も変わらない。天使の侵攻を止められなかったと言う後ろめたさを感じている事、側室の子と言う優先度の低さ、更には子供のする事だし、と適当な対応しか取らなかった。
まあ、彼女も彼女で、どんな結果になるか分かっていて一緒に風呂に入ったので、もうリリィの毒牙にかかってしまっているのだが、口だけでもの抵抗はしていた。
「ふぇぇ。そんな、エルまでリリィから離れていくの?寂しいよぉ…悲しいよぉ〜。」
「ちょっ、泣くな泣くな。分かったから、これからも一緒にお風呂入ってやるから、ほら。」
(やったわ)
下手な嘘泣きで騙される程度には、エルはリリィを気にかけているのだった。そんなエルを、リリィもそれなりに愛していた。
洗いっこを交代して洗われる番になったリリィは、最近手馴れてきたエルの指使いを堪能していた。しかしリラックスしているうちに、再び白い翼の事が気になってきた。
掠れ切った昔の記憶に、何故こんなにも執着しているのか、リリィはその理由に気付いていなかった。
天使に対する魔族の本能的な恐怖で忘れられないから?両親を殺した敵が、白い翼の持ち主だと考えているから?
どの考えにもピンとこなかった。答えの出ない疑問を、友達とのお風呂と言う楽しいイベントの最中に思い浮かべるなど、本来はあり得ない事だった。天使の事が頭から離れないなんて、まるで
(まるで天使に恋をしているみたい)
と、サキュバスの自分には一生理解できないであろう感情に、思いを馳せた。