夜行バスで隣に座っていたのが三年前に別れた元カレで、しかも今は親友の婚約者なんだけど、「朝になれば忘れる。だから今だけ」って手を握られて、私はどうすればいいの
「……偶然だな」
深夜一時二十三分。東京発大阪行きの夜行バス。
私は窓際の席で、よりにもよって三年前に別れた元カレの隣に座っていた。
しかも彼は今、私の親友の婚約者。
神様って絶対性格悪いでしょ。
「……そうだね」
それだけ言うのが精一杯だった。声が震えなかっただけマシだと思いたい。
瀬戸蒼真。二十八歳。建築士。切れ長の目に、少し長めの前髪。スーツの襟元を緩めた姿は、三年前より少しだけ大人びて見える。
——変わってない。
その声も、匂いも、隣にいるだけで心臓がうるさくなるこの感じも。
何も、変わってない。
車内は暗かった。非常灯の薄緑色だけが通路をぼんやり照らして、他の乗客はみんな眠っている。カーテンを閉め切った密室。まるで世界から切り離されたみたいに、私たちだけが取り残されていた。
窓ガラスに蒼真の横顔が映る。
——見ちゃだめ。
私は唇を噛んで、視線を逸らした。
流れていく街灯。オレンジ色の光が線になって後ろへ消えていく。東京の夜景がどんどん遠くなる。
逃げられない。この狭い座席から、あと六時間。
肘掛けひとつ分の距離。たったそれだけ。息を吸えば、微かに知っている匂いがする。三年前、毎日のように隣にあった匂い。
……なんで、覚えてるんだろう。
バスが高速に入った振動で、私の身体が少し揺れた。反射的に手首を握る。緊張すると出る、みっともない癖。
「美月から聞いてた」
不意に、蒼真が口を開いた。
「お前も大阪行くって」
心臓が跳ねる。美月。私の親友。この人の、婚約者。
「……聞いてたなら、別の便にすればよかったのに」
「急に決まったんだ。仕事で」
「ふうん」
興味なさそうに答える。本当は全然興味なくなんかない。この人が何の仕事で大阪に行くのか、誰と会うのか、いつ帰るのか、全部知りたい。
でも、聞く権利なんてない。
「お前は? 見舞いか」
「……美月から聞いたんでしょ」
「ああ。葉子さん、大丈夫なのか」
母の名前を呼ばれて、胸がざわついた。三年前、何度も実家に連れて行った。母は蒼真のことを気に入っていた。「いい子じゃない、あの人」って。
別れた後も、母は時々蒼真の名前を出した。『あんた、まだあの人のこと好きなんでしょ』って。
——うるさいな、母さん。
「大丈夫。検査入院だから」
「そうか」
沈黙が落ちる。
重い。息苦しい。なんでこの人はこんなに普通に話せるの。私はこんなに苦しいのに。
「……なんで、そんな普通に話せるの」
気づいたら、口に出していた。
蒼真が少しだけこちらを向いた気配がした。
「普通じゃないと、困るだろ。お前が」
「っ……」
言葉に詰まった。
そうだ。普通じゃなきゃ困る。私たちはもう他人で、しかも親友の婚約者と、その親友。それ以上でも以下でもない。
なのに。
「あの時さ」
蒼真の声が、少しだけ低くなった。
心臓が嫌な音を立てる。やめて。その先を言わないで。
「やめて」
「お前が泣いてたこと、俺——」
「やめてって言ってる」
遮った私の声は、思ったより震えていた。
窓ガラスに、泣きそうな顔をした女が映っている。前髪で隠した目元。噛みしめた唇。三年経っても何も変わっていない、みっともない私。
「……まだ、怒ってんのか」
「怒ってない。もう関係ないでしょ、私たち」
「関係ない、か」
「あなたは美月の婚約者。私は美月の親友。それだけ」
言い聞かせるように言った。自分に。この人に。
「……そうだな」
蒼真の声は、どこか空虚だった。
「だから、話しかけないで。寝るから」
目を閉じた。眠れるわけがない。でも、これ以上この人の声を聞いていたら、どうにかなりそうだった。
◇
どれくらい経っただろう。
眠れないまま、窓の外を見ていた。高速道路の防音壁が続いている。灰色。灰色。灰色。まるで私の心みたいだ、なんて思って、自分で自分に呆れた。
美月の顔が浮かぶ。
ふわふわのロングヘアを揺らして笑う、私の大切な親友。大学一年の春、オリエンテーションで隣になったのが始まりだった。人見知りの私に、美月は眩しいくらいの笑顔で話しかけてきた。
『ね、一緒にお昼食べよ?』
あの日から、ずっと一番の親友。
蒼真と付き合い始めたことを、最初に報告したのも美月だった。『よかったねえ!』って、自分のことみたいに喜んでくれた。別れた時は、何も聞かずにアイスを買ってきてくれた。一晩中、隣で泣いてくれた。
『凛がいなかったら私、蒼真と出会えなかった』
婚約の報告を受けた時、美月は無邪気にそう言った。
——そうだよ。私が別れたから、美月と蒼真は出会えたんだ。
私が逃げたから。
自分から振ったくせに、三年も引きずってるなんて、笑える。惨めで、情けなくて、どうしようもない。
「降りたら関係ない」
不意に、蒼真の声が落ちてきた。
「……は?」
「朝になれば忘れる。だから今だけ」
何を言って——
そう思った瞬間、温かい指先が私の手に重なった。
「っ……」
息が止まった。
振り払わなきゃ。そう思うのに、身体が動かない。蒼真の手は大きくて、温かくて、三年前と何も変わっていなくて。
「なに、して——」
「三年、ずっと後悔してた」
低い声が、暗闇に溶ける。
「……聞きたくない」
「追いかければよかった。引き止めればよかった」
「今さらそんなこと言わないでよ」
声が震える。涙が滲む。やめて。やめてよ。
「『行くな』って、言えばよかった」
「っ……やめて、お願いだから」
「お前が『終わりにしよう』って言った時、俺は何も言えなかった」
「私が悪いって言いたいの」
「違う」
蒼真の声が、強くなった。
「俺が臆病だったんだ。お前の気持ちも聞かないで、仕事ばっかりで。お前が限界だったことにも気づかないで」
——限界だった。
そうだ。三年前の私は、限界だった。
独立を控えて忙しくなった蒼真。会えない日が続いて、連絡も減って、私はどんどん不安になっていった。でも、言えなかった。「寂しい」って。「もっと会いたい」って。
言ったら、重い女だと思われる。嫌われる。捨てられる。
だったら、先に自分から——
「じゃあなんで美月と付き合ったの」
気づいたら、言っていた。言いたくなかったのに。醜い嫉妬を、吐き出してしまった。
蒼真の手が、一瞬だけ強く握られた。
「……美月は、いい子だ」
「知ってる」
「俺のこと、まっすぐ好きでいてくれる」
「知ってるよ」
声が、かすれた。
「お前みたいに、急に『終わりにしよう』とか言わない。逃げない。傷つけない」
——傷つけた、のは私だ。
分かってる。全部、私が悪い。
「……じゃあなんで、手を握ったの」
蒼真は答えなかった。しばらくの沈黙の後、掠れた声が落ちた。
「分かんねえよ」
「は?」
「三年経っても、分かんねえんだよ。お前のこと」
「……ずるい」
「美月と一緒にいると、穏やかだ。幸せだって、思える。なのに——」
「やめて」
「お前の顔見た瞬間、全部吹っ飛んだ」
心臓が、痛いくらいに脈打った。
「最低だろ、俺」
自嘲するように、蒼真が言った。
「婚約者がいるのに。お前の親友なのに。それでも——」
「これ以上言わないで」
私は蒼真の手を振り払った。振り払えた。やっと。
「私、美月のこと裏切れない」
「分かってる」
「分かってない。あなたは分かってない」
声が大きくなった。涙が頬を伝った。
「私がどれだけ——どれだけ、あなたのこと……」
言いかけて、口を噤んだ。
言っちゃだめだ。言ったら、終わる。私と美月の友情も、美月と蒼真の幸せも、全部。
『まもなく、〇〇サービスエリアに到着いたします。十五分間の休憩となりますので——』
アナウンスが流れた。救われた、と思った。
「……バス、降りる」
立ち上がった。足が震えていた。
「俺も行く」
「来ないで」
振り返らずに言った。通路を歩く。出口に向かう。逃げる。三年前と同じだ。私はいつも逃げる。
◇
バスを降りると、三月の夜風が頬を撫でた。
冷たい。でも、気持ちいい。深く息を吸い込む。肺の奥まで、冷えた空気が染み渡る。
サービスエリアの駐車場は思ったより広かった。大型トラックが何台か停まっていて、エンジン音が低く唸っている。自販機の青白い光。遠くで煙草を吸っている男性の背中。
私は建物から少し離れた、暗いベンチの方へ歩いた。
座る。空を見上げる。星は見えない。街灯が明るすぎて。
スマホを取り出した。画面を見る。美月からのLINEが三件。
『明日の打ち合わせ、よろしくね♡』
『ドレスの写真送るから見て!』
『凛がいてくれて本当に心強い!大好き!』
——大好き。
私も、大好きだよ。美月のこと。
そんな美月を、裏切るの?
手首を、強く握った。爪が食い込んで痛い。でも、痛みがないと、どうにかなりそうだった。
「——凛」
名前を呼ばれて、心臓が止まるかと思った。
振り返る。暗がりの中に、蒼真が立っていた。
スーツの上にコートを羽織って、白い息を吐いている。街灯の光が斜めに落ちて、彼の顔を半分だけ照らしていた。
「……追いかけてきたの」
「お前が降りたから」
当たり前みたいに言う。なんなの、それ。三年前は追いかけてこなかったくせに。
「来ないでって言ったでしょ」
「さっきの続き、聞いてくれ」
「聞きたくない」
「嘘つけ」
蒼真が近づいてくる。一歩。二歩。私は立ち上がれない。足が竦んで、動けない。
「俺さ、ちゃんと聞きたかったんだ」
「……何を」
「あの時、お前が『終わりにしよう』って言った本当の理由」
心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
「別れたかったから」
「嘘だろ」
見透かされている。この人には、いつも全部見透かされる。
「……帰って」
「凛」
「帰ってよッ!」
振り返って、叫んだ。涙でぐしゃぐしゃの顔で。みっともない。最低だ。でも、止められなかった。
「私のこと、もう見ないで。忘れて。美月と幸せになって。私は——私は、もう関係ないの」
蒼真が、目を見開いていた。
そして、一歩踏み出した。
「お前が決めることじゃない」
「え……」
「俺の気持ちは、俺が決める」
強い声だった。三年前には聞いたことのない、強い声。
「あの時、俺は何も言えなかった。お前が泣いてるのに、『行くな』って言えなかった。追いかけることもできなかった」
「……」
「でも今は違う」
蒼真の手が、私の頬に触れた。冷たい指先。でも、そこから熱が伝わってくる。
「俺、ちゃんと考える」
「何を……」
「美月のことも、お前のことも。ちゃんと向き合って、考える」
「そんなの——」
「待ってろとは言わない」
蒼真が、真っ直ぐに私を見ている。
「でも、逃げるのはやめる。三年前みたいに、黙って終わらせるのは、もうやめる」
心臓が痛い。苦しい。でも、目が離せない。
「お前も、逃げるな」
「私は——」
「自分の気持ちから、逃げるな」
ずるい。
最後まで、ずるい人だ。
「……ずるいよ、蒼真」
「ああ。知ってる」
蒼真の手が離れた。冷たい夜風が、その隙間に入り込む。
バスのクラクションが鳴った。出発五分前の合図。
「……戻ろう」
私は背を向けた。今度は振り返らなかった。
◇
バスに乗り込む。自分の席に座る。窓際。
数分後、蒼真が戻ってきた。何も言わずに、隣に座った。
バスが動き出す。
沈黙が戻る。さっきよりも重い、でもどこか温かい沈黙。
窓の外、サービスエリアの明かりが遠ざかっていく。また、暗闇が広がる。
蒼真の手が、そっと伸びてきた。
今度は握らない。ただ、小指が触れるだけ。
温かい。
「……なんで」
「分かんねえって言っただろ」
低い声が、暗闘に落ちる。
「分かんねえけど、お前の隣にいたい。今だけでも」
私は何も言えなかった。小指を、振り払えなかった。
窓の外、夜が続いている。
夜明けまで、あと三時間。
◇
眠れなかった。
蒼真も眠れなかったと思う。隣で、規則的な寝息が聞こえなかったから。
小指だけが触れている。その微かな接点を、私たちは一晩中、保ち続けていた。
窓の外が、少しずつ白んできた。
濃紺だった空が、紫になり、薄い青になり、そして——遠くの山の稜線が、淡いオレンジ色に染まり始める。
夜明けだ。
私たちの「六時間」が、終わろうとしている。
「……綺麗だな」
蒼真が、ぽつりと言った。
「うん」
私は答えた。喉がカラカラだった。一晩泣いて、何も飲んでいない。
『まもなく、大阪駅前に到着いたします』
アナウンスが流れた。バスの中がざわつき始める。乗客たちが荷物をまとめ、ストレッチをして、日常に戻る準備をしている。
私も、戻らなきゃ。
母の待つ病院へ。
美月の結婚式の打ち合わせへ。
「藤崎さん」の顔に、戻らなきゃ。
蒼真の小指が、離れた。
「凛」
名前を呼ばれて、私は初めて隣を向いた。
目が合った。
切れ長の目。少し充血している。一晩眠れなかった証拠。朝日が差し込んで、彼の瞳に光が宿っている。
「俺、美月とちゃんと話す」
心臓が、止まりそうになった。
「……え?」
「このまま結婚するのは、美月にも失礼だ」
「待って、それは——」
「お前のためじゃない」
蒼真が、静かに言った。
「俺自身のためだ。中途半端な気持ちで美月と一緒にいるのは、俺が許せない」
「……」
「結果がどうなるかは分からない。美月を選ぶかもしれない。お前を——いや、誰も選ばないかもしれない」
蒼真の声は、落ち着いていた。でも、その目は真剣だった。
「でも、逃げない。ちゃんと向き合う」
私は、何も言えなかった。
バスが停まった。大阪駅前。ガラス張りのビルが朝日を反射して眩しい。乗客が立ち上がり、出口に向かって動き出す。
私も立ち上がった。荷物を取る。通路に出る。
蒼真も、後に続く。
バスを降りた。朝の空気が冷たい。排気ガスと、どこかのパン屋の匂い。日常の匂いだ。
「じゃあ」
私は振り返らずに言った。
「……美月に、よろしく」
言って、自分で自分に呆れた。何を言ってるんだ、私は。
「凛」
「——なに」
「携帯、変わってないよな」
心臓が跳ねた。
「……変わってない」
「そうか」
それだけ言って、蒼真は反対方向へ歩いていった。
振り返らなかった。私も、振り返らなかった。
人混みの中に、彼の背中が消えていく。
私は深呼吸した。白い息が、朝日に溶けて消えた。
スマホが震えた。
美月からのLINE。
『おはよう!無事着いた?お母さんによろしくね!打ち合わせ、楽しみにしてる♡』
——楽しみにしてる。
私は、どんな顔で美月に会えばいいんだろう。
返信を打とうとして、指が止まった。
『逃げるな』
蒼真の声が、耳の奥で響いている。
私は三年間、逃げ続けてきた。自分の気持ちから。蒼真への未練から。「幸せになっちゃいけない」という思い込みから。
——幸せすぎて、怖かった。
三年前、私が蒼真と別れた本当の理由。
こんなに愛されていいはずがない。いつか捨てられる。だったら、先に自分から終わらせた方がいい。そう思って、逃げた。
馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたい。
母さんの声が浮かんだ。
『逃げてもいいよ。でも、後悔だけはするな』
——後悔したくない。
もう、逃げたくない。
スマホを握りしめた。
美月への返信は、まだ打てない。でも、いつか——ちゃんと話さなきゃいけない日が来る。
その時、私は逃げない。
自分の気持ちを、ちゃんと言葉にする。
——たとえ、全部壊れても。
駅に向かって歩き出した。朝の人混みが、私を飲み込んでいく。
背中に、朝日が当たっている。温かい。
夜行バスの窓から見た夜明けは、こんなに綺麗だったっけ。
私は一人、笑った。
泣きながら、笑った。
六時間の密室は終わった。でも、何かが——確かに、始まろうとしていた。
◇
病院に着いたのは、午前八時過ぎだった。
母は、ベッドの上で本を読んでいた。白髪交じりのショートヘア。柔らかい皺の刻まれた顔。私を見ると、眼鏡を外して微笑んだ。
「来たの」
「うん」
「夜行バス? 疲れたでしょ」
「……ちょっとね」
私はベッド脇の椅子に座った。母の手を取る。細くて、温かい手。
「検査、どうだった」
「大丈夫よ。大げさなのよ、先生が」
「嘘。ちゃんと聞いたから」
母が、少しだけ目を伏せた。
「……心配かけてごめんね」
「いいよ。私がいるから」
沈黙が落ちる。でも、重くない。母といると、いつもそうだ。何も言わなくても、安心できる。
「凛」
「なに」
「あんた、泣いた顔してる」
——この人には、何も隠せない。
「……バスで会ったの。蒼真に」
母は、何も言わなかった。ただ、私の手を握り返した。
「偶然、隣の席で。六時間、一緒だった」
「そう」
「色々、話した。三年前のこととか」
「そう」
「私——まだ、好きみたい。蒼真のこと」
声が震えた。涙が、また溢れてきた。
「でも、美月がいるの。美月は私の大切な親友で、蒼真の婚約者で。私が好きだって言ったら、全部壊れる」
「壊れるかもしれないね」
母の声は、穏やかだった。
「でも、壊れないかもしれない」
「……え?」
「あんたが思ってるより、人は強いよ。美月ちゃんも、蒼真くんも。あんた自身も」
母が、私の頭を撫でた。子供の頃みたいに。
「逃げてもいい。でも、後悔だけはしないでね」
——後悔だけは、しないで。
私は、母の手を握りしめた。
「母さん」
「なに」
「私、逃げないよ」
母が、優しく笑った。
「そう。それでいい」
窓から、朝の光が差し込んでいる。
病室は白くて、清潔で、どこか寂しい。でも、母がいる。私がいる。それだけで、十分だった。
◇
その日の夜、スマホが鳴った。
知らない番号——いや、知っている番号だった。三年前に消したはずの、でも忘れられなかった番号。
蒼真からだった。
『美月と話した。婚約は、白紙に戻すことになった』
心臓が、止まりそうになった。
『お前に会いたい。話したいことがある』
指が震えた。返信を打とうとして、何度も消した。
——会いたい。
会いたいに決まってる。でも、美月は? 美月はどうなるの?
スマホが、また震えた。
美月からだった。
『凛、ちょっといい? 電話していい?』
私は、深呼吸した。
そして、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『凛』
美月の声は、思ったより落ち着いていた。
『蒼真から、全部聞いた』
「……ごめん」
『謝らないで』
美月の声が、少しだけ震えた。
『私、薄々気づいてたの。蒼真が、まだ凛のこと忘れてないって』
「美月——」
『でも、見ないふりしてた。気づかないふりしてた。だって、蒼真のこと好きだったから。手放したくなかったから』
涙が、頬を伝った。
『ずるいのは、私も一緒だよ』
「……」
『凛は、私の大切な親友。それは変わらない。でも——』
美月が、一度言葉を切った。
『正直、今は会いたくない。ちょっとだけ、時間がほしい』
「……うん」
『でも、絶縁とかじゃないから。ちゃんと、また話そう。落ち着いたら』
「美月」
『なに』
「ありがとう」
沈黙が落ちた。長い、長い沈黙。
『……馬鹿。お礼なんか言わないでよ』
美月の声が、泣いていた。
『じゃあね、凛。またね』
電話が、切れた。
私は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
◇
三日後。
私は、大阪駅のカフェにいた。
窓際の席。コーヒーはとっくに冷めている。でも、手が震えて、カップを持ち上げられなかった。
入り口のドアが開いた。
蒼真だった。
スーツ姿。少し疲れた顔。でも、目だけは真っ直ぐに私を見ていた。
「……来てくれたんだ」
「約束したから」
蒼真が、向かいの席に座った。
沈黙が落ちる。でも、夜行バスの時とは違う。重くない。どこか、温かい。
「美月と話した」
「……聞いた」
「お前にも、ちゃんと言わなきゃいけないことがある」
蒼真が、真っ直ぐに私を見た。
「俺は、お前のことが好きだ」
心臓が、痛いくらいに脈打った。
「三年前も、今も。ずっと好きだった」
「……蒼真」
「でも、すぐに付き合おうとは言わない」
蒼真の声は、落ち着いていた。
「美月を傷つけた。お前のことも、三年間傷つけてた。俺は最低な男だ」
「私だって——」
「だから、一からやり直したい」
蒼真が、手を伸ばした。テーブルの上で、私の手に触れる。
「元カノでも、親友の元婚約者でもなく。ただの、藤崎凛として」
温かい。大きな手。三年前と、何も変わっていない。
「俺と、やり直してくれないか」
涙が、溢れた。止められなかった。
「……ずるい」
「ああ」
「本当に、ずるい」
「知ってる」
蒼真が、笑った。少年みたいな、危うい笑顔。
私は、その手を握り返した。
「……いいよ」
「え?」
「やり直そう。一から」
蒼真の目が、大きく見開かれた。そして——泣きそうな顔で、笑った。
「……ありがとう」
「お礼なんか言わないで。馬鹿」
窓の外、春の陽射しが降り注いでいる。
私たちの物語は、ここから始まる。
三年前に終わったはずの物語が、夜行バスの窓から見た夜明けとともに、もう一度——
私は、手首を握らなかった。
初めて、逃げなかった。
——これが、私の「始まり」だ。




