表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜行バスで隣に座っていたのが三年前に別れた元カレで、しかも今は親友の婚約者なんだけど、「朝になれば忘れる。だから今だけ」って手を握られて、私はどうすればいいの

作者: uta
掲載日:2026/05/25

「……偶然だな」


深夜一時二十三分。東京発大阪行きの夜行バス。


私は窓際の席で、よりにもよって三年前に別れた元カレの隣に座っていた。


しかも彼は今、私の親友の婚約者。


神様って絶対性格悪いでしょ。


「……そうだね」


それだけ言うのが精一杯だった。声が震えなかっただけマシだと思いたい。


瀬戸蒼真。二十八歳。建築士。切れ長の目に、少し長めの前髪。スーツの襟元を緩めた姿は、三年前より少しだけ大人びて見える。


——変わってない。


その声も、匂いも、隣にいるだけで心臓がうるさくなるこの感じも。


何も、変わってない。


車内は暗かった。非常灯の薄緑色だけが通路をぼんやり照らして、他の乗客はみんな眠っている。カーテンを閉め切った密室。まるで世界から切り離されたみたいに、私たちだけが取り残されていた。


窓ガラスに蒼真の横顔が映る。


——見ちゃだめ。


私は唇を噛んで、視線を逸らした。


流れていく街灯。オレンジ色の光が線になって後ろへ消えていく。東京の夜景がどんどん遠くなる。


逃げられない。この狭い座席から、あと六時間。


肘掛けひとつ分の距離。たったそれだけ。息を吸えば、微かに知っている匂いがする。三年前、毎日のように隣にあった匂い。


……なんで、覚えてるんだろう。


バスが高速に入った振動で、私の身体が少し揺れた。反射的に手首を握る。緊張すると出る、みっともない癖。


「美月から聞いてた」


不意に、蒼真が口を開いた。


「お前も大阪行くって」


心臓が跳ねる。美月。私の親友。この人の、婚約者。


「……聞いてたなら、別の便にすればよかったのに」


「急に決まったんだ。仕事で」


「ふうん」


興味なさそうに答える。本当は全然興味なくなんかない。この人が何の仕事で大阪に行くのか、誰と会うのか、いつ帰るのか、全部知りたい。


でも、聞く権利なんてない。


「お前は? 見舞いか」


「……美月から聞いたんでしょ」


「ああ。葉子さん、大丈夫なのか」


母の名前を呼ばれて、胸がざわついた。三年前、何度も実家に連れて行った。母は蒼真のことを気に入っていた。「いい子じゃない、あの人」って。


別れた後も、母は時々蒼真の名前を出した。『あんた、まだあの人のこと好きなんでしょ』って。


——うるさいな、母さん。


「大丈夫。検査入院だから」


「そうか」


沈黙が落ちる。


重い。息苦しい。なんでこの人はこんなに普通に話せるの。私はこんなに苦しいのに。


「……なんで、そんな普通に話せるの」


気づいたら、口に出していた。


蒼真が少しだけこちらを向いた気配がした。


「普通じゃないと、困るだろ。お前が」


「っ……」


言葉に詰まった。


そうだ。普通じゃなきゃ困る。私たちはもう他人で、しかも親友の婚約者と、その親友。それ以上でも以下でもない。


なのに。


「あの時さ」


蒼真の声が、少しだけ低くなった。


心臓が嫌な音を立てる。やめて。その先を言わないで。


「やめて」


「お前が泣いてたこと、俺——」


「やめてって言ってる」


遮った私の声は、思ったより震えていた。


窓ガラスに、泣きそうな顔をした女が映っている。前髪で隠した目元。噛みしめた唇。三年経っても何も変わっていない、みっともない私。


「……まだ、怒ってんのか」


「怒ってない。もう関係ないでしょ、私たち」


「関係ない、か」


「あなたは美月の婚約者。私は美月の親友。それだけ」


言い聞かせるように言った。自分に。この人に。


「……そうだな」


蒼真の声は、どこか空虚だった。


「だから、話しかけないで。寝るから」


目を閉じた。眠れるわけがない。でも、これ以上この人の声を聞いていたら、どうにかなりそうだった。



どれくらい経っただろう。


眠れないまま、窓の外を見ていた。高速道路の防音壁が続いている。灰色。灰色。灰色。まるで私の心みたいだ、なんて思って、自分で自分に呆れた。


美月の顔が浮かぶ。


ふわふわのロングヘアを揺らして笑う、私の大切な親友。大学一年の春、オリエンテーションで隣になったのが始まりだった。人見知りの私に、美月は眩しいくらいの笑顔で話しかけてきた。


『ね、一緒にお昼食べよ?』


あの日から、ずっと一番の親友。


蒼真と付き合い始めたことを、最初に報告したのも美月だった。『よかったねえ!』って、自分のことみたいに喜んでくれた。別れた時は、何も聞かずにアイスを買ってきてくれた。一晩中、隣で泣いてくれた。


『凛がいなかったら私、蒼真と出会えなかった』


婚約の報告を受けた時、美月は無邪気にそう言った。


——そうだよ。私が別れたから、美月と蒼真は出会えたんだ。


私が逃げたから。


自分から振ったくせに、三年も引きずってるなんて、笑える。惨めで、情けなくて、どうしようもない。


「降りたら関係ない」


不意に、蒼真の声が落ちてきた。


「……は?」


「朝になれば忘れる。だから今だけ」


何を言って——


そう思った瞬間、温かい指先が私の手に重なった。


「っ……」


息が止まった。


振り払わなきゃ。そう思うのに、身体が動かない。蒼真の手は大きくて、温かくて、三年前と何も変わっていなくて。


「なに、して——」


「三年、ずっと後悔してた」


低い声が、暗闇に溶ける。


「……聞きたくない」


「追いかければよかった。引き止めればよかった」


「今さらそんなこと言わないでよ」


声が震える。涙が滲む。やめて。やめてよ。


「『行くな』って、言えばよかった」


「っ……やめて、お願いだから」


「お前が『終わりにしよう』って言った時、俺は何も言えなかった」


「私が悪いって言いたいの」


「違う」


蒼真の声が、強くなった。


「俺が臆病だったんだ。お前の気持ちも聞かないで、仕事ばっかりで。お前が限界だったことにも気づかないで」


——限界だった。


そうだ。三年前の私は、限界だった。


独立を控えて忙しくなった蒼真。会えない日が続いて、連絡も減って、私はどんどん不安になっていった。でも、言えなかった。「寂しい」って。「もっと会いたい」って。


言ったら、重い女だと思われる。嫌われる。捨てられる。


だったら、先に自分から——


「じゃあなんで美月と付き合ったの」


気づいたら、言っていた。言いたくなかったのに。醜い嫉妬を、吐き出してしまった。


蒼真の手が、一瞬だけ強く握られた。


「……美月は、いい子だ」


「知ってる」


「俺のこと、まっすぐ好きでいてくれる」


「知ってるよ」


声が、かすれた。


「お前みたいに、急に『終わりにしよう』とか言わない。逃げない。傷つけない」


——傷つけた、のは私だ。


分かってる。全部、私が悪い。


「……じゃあなんで、手を握ったの」


蒼真は答えなかった。しばらくの沈黙の後、掠れた声が落ちた。


「分かんねえよ」


「は?」


「三年経っても、分かんねえんだよ。お前のこと」


「……ずるい」


「美月と一緒にいると、穏やかだ。幸せだって、思える。なのに——」


「やめて」


「お前の顔見た瞬間、全部吹っ飛んだ」


心臓が、痛いくらいに脈打った。


「最低だろ、俺」


自嘲するように、蒼真が言った。


「婚約者がいるのに。お前の親友なのに。それでも——」


「これ以上言わないで」


私は蒼真の手を振り払った。振り払えた。やっと。


「私、美月のこと裏切れない」


「分かってる」


「分かってない。あなたは分かってない」


声が大きくなった。涙が頬を伝った。


「私がどれだけ——どれだけ、あなたのこと……」


言いかけて、口を噤んだ。


言っちゃだめだ。言ったら、終わる。私と美月の友情も、美月と蒼真の幸せも、全部。


『まもなく、〇〇サービスエリアに到着いたします。十五分間の休憩となりますので——』


アナウンスが流れた。救われた、と思った。


「……バス、降りる」


立ち上がった。足が震えていた。


「俺も行く」


「来ないで」


振り返らずに言った。通路を歩く。出口に向かう。逃げる。三年前と同じだ。私はいつも逃げる。



バスを降りると、三月の夜風が頬を撫でた。


冷たい。でも、気持ちいい。深く息を吸い込む。肺の奥まで、冷えた空気が染み渡る。


サービスエリアの駐車場は思ったより広かった。大型トラックが何台か停まっていて、エンジン音が低く唸っている。自販機の青白い光。遠くで煙草を吸っている男性の背中。


私は建物から少し離れた、暗いベンチの方へ歩いた。


座る。空を見上げる。星は見えない。街灯が明るすぎて。


スマホを取り出した。画面を見る。美月からのLINEが三件。


『明日の打ち合わせ、よろしくね♡』

『ドレスの写真送るから見て!』

『凛がいてくれて本当に心強い!大好き!』


——大好き。


私も、大好きだよ。美月のこと。


そんな美月を、裏切るの?


手首を、強く握った。爪が食い込んで痛い。でも、痛みがないと、どうにかなりそうだった。


「——凛」


名前を呼ばれて、心臓が止まるかと思った。


振り返る。暗がりの中に、蒼真が立っていた。


スーツの上にコートを羽織って、白い息を吐いている。街灯の光が斜めに落ちて、彼の顔を半分だけ照らしていた。


「……追いかけてきたの」


「お前が降りたから」


当たり前みたいに言う。なんなの、それ。三年前は追いかけてこなかったくせに。


「来ないでって言ったでしょ」


「さっきの続き、聞いてくれ」


「聞きたくない」


「嘘つけ」


蒼真が近づいてくる。一歩。二歩。私は立ち上がれない。足が竦んで、動けない。


「俺さ、ちゃんと聞きたかったんだ」


「……何を」


「あの時、お前が『終わりにしよう』って言った本当の理由」


心臓が、ぎゅっと締め付けられた。


「別れたかったから」


「嘘だろ」


見透かされている。この人には、いつも全部見透かされる。


「……帰って」


「凛」


「帰ってよッ!」


振り返って、叫んだ。涙でぐしゃぐしゃの顔で。みっともない。最低だ。でも、止められなかった。


「私のこと、もう見ないで。忘れて。美月と幸せになって。私は——私は、もう関係ないの」


蒼真が、目を見開いていた。


そして、一歩踏み出した。


「お前が決めることじゃない」


「え……」


「俺の気持ちは、俺が決める」


強い声だった。三年前には聞いたことのない、強い声。


「あの時、俺は何も言えなかった。お前が泣いてるのに、『行くな』って言えなかった。追いかけることもできなかった」


「……」


「でも今は違う」


蒼真の手が、私の頬に触れた。冷たい指先。でも、そこから熱が伝わってくる。


「俺、ちゃんと考える」


「何を……」


「美月のことも、お前のことも。ちゃんと向き合って、考える」


「そんなの——」


「待ってろとは言わない」


蒼真が、真っ直ぐに私を見ている。


「でも、逃げるのはやめる。三年前みたいに、黙って終わらせるのは、もうやめる」


心臓が痛い。苦しい。でも、目が離せない。


「お前も、逃げるな」


「私は——」


「自分の気持ちから、逃げるな」


ずるい。


最後まで、ずるい人だ。


「……ずるいよ、蒼真」


「ああ。知ってる」


蒼真の手が離れた。冷たい夜風が、その隙間に入り込む。


バスのクラクションが鳴った。出発五分前の合図。


「……戻ろう」


私は背を向けた。今度は振り返らなかった。



バスに乗り込む。自分の席に座る。窓際。


数分後、蒼真が戻ってきた。何も言わずに、隣に座った。


バスが動き出す。


沈黙が戻る。さっきよりも重い、でもどこか温かい沈黙。


窓の外、サービスエリアの明かりが遠ざかっていく。また、暗闇が広がる。


蒼真の手が、そっと伸びてきた。


今度は握らない。ただ、小指が触れるだけ。


温かい。


「……なんで」


「分かんねえって言っただろ」


低い声が、暗闘に落ちる。


「分かんねえけど、お前の隣にいたい。今だけでも」


私は何も言えなかった。小指を、振り払えなかった。


窓の外、夜が続いている。


夜明けまで、あと三時間。



眠れなかった。


蒼真も眠れなかったと思う。隣で、規則的な寝息が聞こえなかったから。


小指だけが触れている。その微かな接点を、私たちは一晩中、保ち続けていた。


窓の外が、少しずつ白んできた。


濃紺だった空が、紫になり、薄い青になり、そして——遠くの山の稜線が、淡いオレンジ色に染まり始める。


夜明けだ。


私たちの「六時間」が、終わろうとしている。


「……綺麗だな」


蒼真が、ぽつりと言った。


「うん」


私は答えた。喉がカラカラだった。一晩泣いて、何も飲んでいない。


『まもなく、大阪駅前に到着いたします』


アナウンスが流れた。バスの中がざわつき始める。乗客たちが荷物をまとめ、ストレッチをして、日常に戻る準備をしている。


私も、戻らなきゃ。


母の待つ病院へ。


美月の結婚式の打ち合わせへ。


「藤崎さん」の顔に、戻らなきゃ。


蒼真の小指が、離れた。


「凛」


名前を呼ばれて、私は初めて隣を向いた。


目が合った。


切れ長の目。少し充血している。一晩眠れなかった証拠。朝日が差し込んで、彼の瞳に光が宿っている。


「俺、美月とちゃんと話す」


心臓が、止まりそうになった。


「……え?」


「このまま結婚するのは、美月にも失礼だ」


「待って、それは——」


「お前のためじゃない」


蒼真が、静かに言った。


「俺自身のためだ。中途半端な気持ちで美月と一緒にいるのは、俺が許せない」


「……」


「結果がどうなるかは分からない。美月を選ぶかもしれない。お前を——いや、誰も選ばないかもしれない」


蒼真の声は、落ち着いていた。でも、その目は真剣だった。


「でも、逃げない。ちゃんと向き合う」


私は、何も言えなかった。


バスが停まった。大阪駅前。ガラス張りのビルが朝日を反射して眩しい。乗客が立ち上がり、出口に向かって動き出す。


私も立ち上がった。荷物を取る。通路に出る。


蒼真も、後に続く。


バスを降りた。朝の空気が冷たい。排気ガスと、どこかのパン屋の匂い。日常の匂いだ。


「じゃあ」


私は振り返らずに言った。


「……美月に、よろしく」


言って、自分で自分に呆れた。何を言ってるんだ、私は。


「凛」


「——なに」


「携帯、変わってないよな」


心臓が跳ねた。


「……変わってない」


「そうか」


それだけ言って、蒼真は反対方向へ歩いていった。


振り返らなかった。私も、振り返らなかった。


人混みの中に、彼の背中が消えていく。


私は深呼吸した。白い息が、朝日に溶けて消えた。


スマホが震えた。


美月からのLINE。


『おはよう!無事着いた?お母さんによろしくね!打ち合わせ、楽しみにしてる♡』


——楽しみにしてる。


私は、どんな顔で美月に会えばいいんだろう。


返信を打とうとして、指が止まった。


『逃げるな』


蒼真の声が、耳の奥で響いている。


私は三年間、逃げ続けてきた。自分の気持ちから。蒼真への未練から。「幸せになっちゃいけない」という思い込みから。


——幸せすぎて、怖かった。


三年前、私が蒼真と別れた本当の理由。


こんなに愛されていいはずがない。いつか捨てられる。だったら、先に自分から終わらせた方がいい。そう思って、逃げた。


馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたい。


母さんの声が浮かんだ。


『逃げてもいいよ。でも、後悔だけはするな』


——後悔したくない。


もう、逃げたくない。


スマホを握りしめた。


美月への返信は、まだ打てない。でも、いつか——ちゃんと話さなきゃいけない日が来る。


その時、私は逃げない。


自分の気持ちを、ちゃんと言葉にする。


——たとえ、全部壊れても。


駅に向かって歩き出した。朝の人混みが、私を飲み込んでいく。


背中に、朝日が当たっている。温かい。


夜行バスの窓から見た夜明けは、こんなに綺麗だったっけ。


私は一人、笑った。


泣きながら、笑った。


六時間の密室は終わった。でも、何かが——確かに、始まろうとしていた。



病院に着いたのは、午前八時過ぎだった。


母は、ベッドの上で本を読んでいた。白髪交じりのショートヘア。柔らかい皺の刻まれた顔。私を見ると、眼鏡を外して微笑んだ。


「来たの」


「うん」


「夜行バス? 疲れたでしょ」


「……ちょっとね」


私はベッド脇の椅子に座った。母の手を取る。細くて、温かい手。


「検査、どうだった」


「大丈夫よ。大げさなのよ、先生が」


「嘘。ちゃんと聞いたから」


母が、少しだけ目を伏せた。


「……心配かけてごめんね」


「いいよ。私がいるから」


沈黙が落ちる。でも、重くない。母といると、いつもそうだ。何も言わなくても、安心できる。


「凛」


「なに」


「あんた、泣いた顔してる」


——この人には、何も隠せない。


「……バスで会ったの。蒼真に」


母は、何も言わなかった。ただ、私の手を握り返した。


「偶然、隣の席で。六時間、一緒だった」


「そう」


「色々、話した。三年前のこととか」


「そう」


「私——まだ、好きみたい。蒼真のこと」


声が震えた。涙が、また溢れてきた。


「でも、美月がいるの。美月は私の大切な親友で、蒼真の婚約者で。私が好きだって言ったら、全部壊れる」


「壊れるかもしれないね」


母の声は、穏やかだった。


「でも、壊れないかもしれない」


「……え?」


「あんたが思ってるより、人は強いよ。美月ちゃんも、蒼真くんも。あんた自身も」


母が、私の頭を撫でた。子供の頃みたいに。


「逃げてもいい。でも、後悔だけはしないでね」


——後悔だけは、しないで。


私は、母の手を握りしめた。


「母さん」


「なに」


「私、逃げないよ」


母が、優しく笑った。


「そう。それでいい」


窓から、朝の光が差し込んでいる。


病室は白くて、清潔で、どこか寂しい。でも、母がいる。私がいる。それだけで、十分だった。



その日の夜、スマホが鳴った。


知らない番号——いや、知っている番号だった。三年前に消したはずの、でも忘れられなかった番号。


蒼真からだった。


『美月と話した。婚約は、白紙に戻すことになった』


心臓が、止まりそうになった。


『お前に会いたい。話したいことがある』


指が震えた。返信を打とうとして、何度も消した。


——会いたい。


会いたいに決まってる。でも、美月は? 美月はどうなるの?


スマホが、また震えた。


美月からだった。


『凛、ちょっといい? 電話していい?』


私は、深呼吸した。


そして、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『凛』


美月の声は、思ったより落ち着いていた。


『蒼真から、全部聞いた』


「……ごめん」


『謝らないで』


美月の声が、少しだけ震えた。


『私、薄々気づいてたの。蒼真が、まだ凛のこと忘れてないって』


「美月——」


『でも、見ないふりしてた。気づかないふりしてた。だって、蒼真のこと好きだったから。手放したくなかったから』


涙が、頬を伝った。


『ずるいのは、私も一緒だよ』


「……」


『凛は、私の大切な親友。それは変わらない。でも——』


美月が、一度言葉を切った。


『正直、今は会いたくない。ちょっとだけ、時間がほしい』


「……うん」


『でも、絶縁とかじゃないから。ちゃんと、また話そう。落ち着いたら』


「美月」


『なに』


「ありがとう」


沈黙が落ちた。長い、長い沈黙。


『……馬鹿。お礼なんか言わないでよ』


美月の声が、泣いていた。


『じゃあね、凛。またね』


電話が、切れた。


私は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。



三日後。


私は、大阪駅のカフェにいた。


窓際の席。コーヒーはとっくに冷めている。でも、手が震えて、カップを持ち上げられなかった。


入り口のドアが開いた。


蒼真だった。


スーツ姿。少し疲れた顔。でも、目だけは真っ直ぐに私を見ていた。


「……来てくれたんだ」


「約束したから」


蒼真が、向かいの席に座った。


沈黙が落ちる。でも、夜行バスの時とは違う。重くない。どこか、温かい。


「美月と話した」


「……聞いた」


「お前にも、ちゃんと言わなきゃいけないことがある」


蒼真が、真っ直ぐに私を見た。


「俺は、お前のことが好きだ」


心臓が、痛いくらいに脈打った。


「三年前も、今も。ずっと好きだった」


「……蒼真」


「でも、すぐに付き合おうとは言わない」


蒼真の声は、落ち着いていた。


「美月を傷つけた。お前のことも、三年間傷つけてた。俺は最低な男だ」


「私だって——」


「だから、一からやり直したい」


蒼真が、手を伸ばした。テーブルの上で、私の手に触れる。


「元カノでも、親友の元婚約者でもなく。ただの、藤崎凛として」


温かい。大きな手。三年前と、何も変わっていない。


「俺と、やり直してくれないか」


涙が、溢れた。止められなかった。


「……ずるい」


「ああ」


「本当に、ずるい」


「知ってる」


蒼真が、笑った。少年みたいな、危うい笑顔。


私は、その手を握り返した。


「……いいよ」


「え?」


「やり直そう。一から」


蒼真の目が、大きく見開かれた。そして——泣きそうな顔で、笑った。


「……ありがとう」


「お礼なんか言わないで。馬鹿」


窓の外、春の陽射しが降り注いでいる。


私たちの物語は、ここから始まる。


三年前に終わったはずの物語が、夜行バスの窓から見た夜明けとともに、もう一度——


私は、手首を握らなかった。


初めて、逃げなかった。


——これが、私の「始まり」だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ