第1章「アヤ:爪先の鎧と、蜘蛛の糸」
安アパートの天井には、いつも同じシミがある。 雨漏りの跡なのか、カビなのか、あるいはもっと別の何かなのか。昼下がりの淀んだ空気の中、アヤは虚無の瞳で、見飽きた天井のシミの数を数えていた。
昨夜もキャバクラで浴びるように飲まされた酒が、鉛のように胃を荒らしている。ベッドから起き上がる気力もなく、アヤは毛玉だらけのタオルケットを引き寄せ、派手なジェルネイルで彩られた自分の指先を見つめた。 赤とゴールドの、鋭く尖った爪。 それは、夜の街で「ただの金蔓」になり果てないための、せめてもの鎧だった。
「……あと、四千五百万か」
乾いた唇から漏れた呟きは、部屋の冷たい空気に吸い込まれて消えた。
2年前。彼女はまだ「アヤ」ではなく、地方から上京してきたばかりの、平凡な派遣社員だった。 贅沢はできないが、小さなアパートで慎ましく暮らす日々に不満はなかった。あの男――タクミに出会うまでは。
タクミは、アヤの派遣先のIT企業に出入りしていたフリーランスのエンジニアだった。 人懐っこい笑顔と、少し強引な優しさ。東京という街で孤独だった彼女にとって、タクミの存在はあっという間に心の隙間を埋めていった。 「俺、いつか自分の会社を立ち上げたいんだ。誰もが驚くようなサービスを作ってさ」 安居酒屋で熱っぽく夢を語る彼を、アヤは眩しいものを見るような目で見つめていた。私には何もないけれど、彼の夢を支えることならできるかもしれない。それが、いつしかアヤ自身の生きがいになっていた。
出会って半年が経った頃、タクミは言った。 「起業の資金融資の審査が通ったんだ。でも、一つだけ問題があって……連帯保証人が必要なんだ」 彼は申し訳なさそうに眉を下げ、アヤの手を強く握った。 「親には縁を切られてるし、頼めるのはお前しかいない。これが成功したら、結婚しよう。絶対に幸せにするから」 その言葉に、アヤの胸は熱くなった。自分が彼にとっての「特別」なのだと確信した。渡された書類の『極度額:5000万円』という恐ろしい数字も、彼への愛と信頼の前では、ただのインクの染みにしか見えなかった。
それが、地獄への片道切符だとも知らずに。
書類にサインをしてから3ヶ月後。タクミは忽然と姿を消した。 電話は繋がらず、彼のマンションはもぬけの殻だった。パニックになるアヤのアパートにやってきたのは、警察でもタクミでもなく、安物のスーツを着た目の笑っていない男たちだった。
「タクミくん、飛んじゃったみたいなんだよね。で、あんたが連帯保証人ってわけ。わかるでしょ?」 土足で上がり込んできた男が、アヤの顔にあの契約書のコピーを突きつけた。 「利息も合わせて五千数百万。派遣の給料じゃ、一生かかっても無理だよねえ。でも安心して、俺たちが『いい仕事』紹介してあげるから」
逃げる権利などなかった。 借金の債権者であり、裏社会に通じる「事務所のオーナー」に身柄を移された彼女は、その日から『アヤ』という源氏名を与えられ、オーナーが息のかかった違法スレスレの高級キャバクラで働かされることになった。 毎晩のように横柄な客に愛想笑いを浮かべ、無理やり強い酒を煽り、心無い言葉や屈辱を浴びせられる日々。稼いだ金のほとんどは、理不尽な高金利の返済へと消えていく。
最初のうちは毎晩、店の更衣室で泣き崩れ、タクミを恨み、自分の愚かさを呪った。だが、地獄のようだった疲労も屈辱も、半年も経てば麻痺していく。 人間は、心が完全に壊れてしまう前に「感情のスイッチを切る」という防衛本能を持っているのだと、アヤは身をもって知った。
ただ借金の利息を返すためだけに、穴の開いたバケツで水を汲み続けるような日々。 そんなある日、アヤは事務所のオーナーに呼び出された。 革張りのソファで葉巻をくゆらせるオーナーは、アヤの無表情な顔を見てニヤリと笑った。
「お前、よく稼いでくれてるけどよ。このままだと完済する前に身体を壊しちまうぞ。……どうだ、一つ『ゲーム』に参加してみないか?」 「……ゲーム?」 「ああ。今夜、俺の仲間内のVIPルームで特別な麻雀の卓が立つ。4人の女が参加する余興だ。そこでトップを取れたら、お前の借金、俺が全部チャラにしてやるよ」
アヤの心臓が、久しぶりに大きく脈打った。 「チャラ……全部、ですか」 「ああ、約束する。ただし、負ければ……お前の人生は一生、俺たちの『奴隷』として、日の当たらない裏カジノの地下労働に引きずり込んでやる。まあ、どっちに転んでも俺は損しないからな」
悪趣味なデスゲーム。 金持ち連中が、絶望した女たちが潰し合う様を酒の肴にしたいだけなのだ。 麻雀のルールは知っている。タクミと付き合っていた頃、彼の友人たちと卓を囲んだ程度の知識だ。勝てる保証などどこにもない。
だが、アヤは震える手で、赤とゴールドのネイルを強く握りしめた。 (一生、こんな底辺で他人の借金のためにすり減って終わるくらいなら――!)
「……やります」
アヤの声には、数年ぶりに『彼女自身の意志』が宿っていた。 オーナーは満足げに笑い、彼女に黒いレースのドレスを投げ渡した。「綺麗に着飾ってこいよ。見世物なんだからな」と。
――そして現在。 地下深くのコンクリートに囲まれた無機質な部屋。 アヤは、黒いドレスに身を包み「南家」の席に座っていた。 目の前の卓がゆっくりとせり上がり、13枚の牌が配られる。監視カメラの向こうで、自分を虫ケラのように見下ろしているであろう男たちの視線を感じる。
(私は、負けない。こんな理不尽な世界から、絶対にお金をむしり取って這い上がってやる……!)
アヤは静かに息を吸い込み、配牌を理牌した。 そして、自分の手牌に並んだ『異常な配列』を見た瞬間、彼女の目は見開かれた。
萬子、筒子、索子の端牌、そして東南西北白發中の字牌。 ――国士無双、13面待ち。
地獄の底から垂れ下がった、たった一本の純白の蜘蛛の糸を、アヤの赤い爪が強く握りしめた。




