縫い合わされた刻3
セリアスは重厚な木目のドアを開けるが、誰もいない。
「――っ」
アリアドネの姿はどこにもなかった。
テラスへと続く大きな窓が開け放たれており、冬の冷気が室内に流れ込む。部屋の暖かさはほとんどなく、窓が開けられてから時間が経っていることが分かる。
「姉さん、一体どこへ行ったのかしら……!」
リゼットはパニックになりそうなのを必死に堪え、呼吸を整えようとする。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「どうしたリズ、騒がしいぞ。ヴェントゥス卿も、一体なにが――」
騒ぎを聞きつけたアリアドネの兄、カリアンが部屋を覗き込んだ。だが、いつも静かに眠っていたはずの妹の姿はなく、ただ冬の冷気が立ち込める異常な光景を前に、彼は言葉を失った。
「リズ! これは、これは……っ!」
リゼットが慌ててカリアンのそばに駆け寄る。
その必死な妹の姿と、カリアンの本物の動揺。一連の様子を冷静に見ていたセリアスは、確信する。
「二人とも、取り乱している時間はありません」
セリアスはテラスの窓辺へと歩み寄り、冷え切った手すりに触れた。その瞬間、セリアスの心臓が跳ね上がる。
柵に触れると、そこに残るアリアドネの魔力の残留を確かに感じ取った。
懐かしさと同時に、「また飛び降りたのか」と少し呆れた感情も混じる。
いつだったか、嫉妬に狂った同僚たちにテラスに追い詰められた際、自ら飛び降りたことがあった。あの頃から何も変わっていない。
「君は、本当に変わっていないんだね」
セリアスは小さく呟くと、躊躇うことなく自らもテラスの手すりを越えようとする。
「ヴェントゥス卿!!」
「窓が開いてから時間が経っている。彼女は、自らの意思でここから外へ出た。……急いで行方を追います」
背後からのカリアンの制止を振り切り、セリアスは濃紺のコートを夜風になびかせた。
その瞬間、コートの裏地に細密に紡がれた、かつて彼女が施してくれた加護の力が、静かに、そして圧倒的な魔力を放って溢れ始める。
「大丈夫ですよ。……ボクには、特別な加護がありますから」
セリアスは冷たい冬空の闇へと、迷わず飛び立った。
グラリと、空中を進む身体が大きく傾く。
それもそのはず。彼女の魔力が紡がれたこの濃紺のコートを受け取ってから8年の歳月が経った。
補修することも考えたが、彼女以外に触れられたくなかったセリアスは、ここぞという決めた時にしかこのコートを使用していなかった。それでも経年による衰えは隠せない。
「長い時間は、厳しいな……」
セリアスは眼下に広がる静まり返った城下町を見つめ、彼女の行き先を考える。
ほんの一瞬、自分の邸へ向かったのではないかという考えが頭をよぎったが、目覚めたばかりの彼女がそんな行動をとるはずがないと、あり得ない思考をすぐに拭い去った。
「……それなら、きっと」
向かう場所は、一つしか思い当たらない。
アリアドネが大切にしている、すべてが詰まった仕立て店『風待ちの針箱』だ。
冬の夜空を滑るようにして駆け下り、セリアスは店の前に降り立った。
カラン、と静まり返った夜の街にドアベルが小気味よい音を立てる。
驚いたことに、ドアの鍵はかかっていなかった。
その事実だけで心臓が早鐘を打った。
「アリアドネさん……?」
暗がりの店内を見回すが、人影はない。
「アリアドネさん!!」
焦燥感に突き動かされ、声を張り上げたが、返事は返ってこない。ただ、冷え切った空気だけがそこにあった。
セリアスと同じ考えで行き着いたカリアンが、息を切らせて店の中へと入ってきたが、立ち尽くすセリアスの絶望的な表情を見てすべてを察した。
「一体、どこに行ったんだ……!」
カリアンは力が抜けたように、その場にガクリと膝をついた。
セリアスはかける言葉も見つけられないまま、フラフラとした足取りで店を出た。冷たい夜風に吹かれながら、次の行き先を必死に考える。
(師匠の元だろうか。それとも王妃様か、エシュリオン王子ではないと信じたいところだな……)
どれも決定的な確証は持てない。あちこちと思考を巡らせながら歩いているうちに、いつの間にか店から随分と離れた場所まで来ていた。
「なぁ、さっき空を飛んでた姉ちゃんだが……」
ふと、耳に飛び込んできた言葉に、セリアスは弾かれたように振り返る。
見れば、夜通し明かりを灯している露店の店主が、隣の店の売り子に話しかけていた。
「あぁ、見た見た! 凄い勢いだったよな。一体どこへ行ったんだ?」
「あっちの方だったか?」
一人の男が、寒そうに首をすくめながら、王城とは反対の方向を指さす。
その指の先にあるのは――セリアス自身の家である、ヴェントゥス公爵邸だった。
セリアスは弾かれたように冬空へ飛び立つ。
やがて、見慣れたヴェントゥス公爵邸が視界に入ると、門の付近で使用人たちが落ち着かない様子で右往左往しているのが見えた。ただ事ではない雰囲気が遠目からでも伝わってくる。
「旦那様が帰ってきたぞー!」
上空から舞い降りたセリアスの姿を見つけた執事の一人が、声高らかに叫ぶ。
着地したセリアスの目は、門の奥、メイドたちに支えられ、抱えられている「一人の人物」へと釘付けになる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、セリアスは歩みを進めた。
心臓がこれまでにないほどに激しく脈打ち、胸を突き破りそうだった。
(この8年間、ずっと目覚めると信じて待っていた)
ありとあらゆる手段を試し、自分の魔力が尽き果てるほど、何度も何度も彼女の体へ魔力を流し込んだ。
それでも、彼女の目は覚めなかった。
氷のように冷たい体。真っ白な肌。固く閉じた唇。
息はなく、心臓の鼓動もなかった。
はじめは、誰もが死を確信し、諦めた。
けれど、奇跡か呪いか、彼女の身体が朽ちることは決してなかった。ベッドの上で何年も、何年も、まるで時を止められたかのように美しい姿のまま存在し続けていたのだ。
かつては髪さえも固く凍りついていたかのようなハニーブラウンの髪が、柔らかくメイドの腕にたれている。
「アリアドネさん……?」
掠れた、やっとの思いで絞り出した声だった。
その声に、アリアドネの身体がピクリと反応する。セリアスはその微かな動きを絶対に見逃さなかった
それを皮切りに、彼は弾かれたように、飛び込むような勢いでアリアドネの元へと駆け寄った。
「アリア――!!」
その華奢な身体を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないと言わんばかりに強く抱きしめる。
「……ヴェントゥス、様……?」
耳に触れたのは、紛れもないアリアドネの声だった。
この8年間、何千回、何万回とセリアスの頭の中で巡り、焦がれていた、あたたかくて優しい声。
腕の中で、晴れ渡るスカイブルーの瞳が大きく見開かれ、真っ直ぐにセリアスの姿を映し出していた。
「あぁ……本当にっ」
セリアスのトパーズの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、アリアドネの頬を濡らす。
世界の時間が、そしてセリアスの時間が、8年の時を経てようやく動き出した瞬間だった。
「ーーっ」
セリアスの涙に驚きながらも、アリアドネはそっと細い手を伸ばし、彼の濡れた頬に優しく手を添えた。
「泣かないで……?」
愛おしげにそう囁き、安心させるように微笑むと、張り詰めていた糸が切れたかのように、アリアドネはそのまま再び静かに意識を手放した。
* * *
アリアドネが目を覚ましたのは、窓の外に美しい月が昇り始めた頃だった。
背中に伝わる、自分のベッドとは違う上質なマットレスの感触。見上げる天井の美しい装飾。アリアドネにとって、それは「ほんの数日前」に訪れた記憶に新しい場所。セリアスの自室だった。
8年の歳月による多少の変化はあるものの、ここが彼の部屋であるということがすぐに分かった。
ふと、自分の右手にずっと、あたたかい大きなぬくもりがあることに気づく。
「……」
視線を落とせば、ベッドの傍らに跪き、自分の手を両手で頑ななほどに握りしめているセリアスの姿があった。
「ヴェントゥス様……良かった、生きてた……」
アリアドネの口から、心の底から安堵したような言葉が零れ落ちた。
彼女の記憶の中では、あの猛吹雪が吹き荒れる中での、氷竜との過酷な戦いがまだ昨日のことのように蘇ってくる。
彼がこうして生き残り、自分の目の前にいてくれる。その奇跡のような喜びに胸がいっぱいになり、アリアドネのスカイブルーの瞳にも、じわりと大粒の涙が溜まっていく。
「本当に、無事で……良かったです……っ」
「うん」
セリアスは優しく微笑んで短く返事をすると、彼女のスカイブルーの瞳から溢れそうになっていた涙をなぞるように、アリアドネのまぶたにそっと唇を落とした。
「アリア、ボクと結婚して?」
……ピタリ、とアリアドネの涙が止まる。
(……え? 結婚……? 誰が、誰と……?)
あまりにも直球すぎる言葉に、アリアドネの思考は完全にフリーズした。
目覚めてから数日経っていたし、目の前にいる、見違えるほど男らしく美しく成長した騎士が、あの「セリアス」だということも理解はしている。
けれど、彼女としては、彼はつい数日前まで「生意気で可愛い年下くん」だった。それが突然、大人の男の姿になって、プロポーズしてくる。
「え、あ、あの……ヴェントゥス様……? い、いつの間にそんな、たちの悪い冗談を言うようになったのですか……?」
混乱のあまり、アリアドネは引きつった笑みを浮かべてそっと手を引こうとした。
しかし、セリアスは手を握る力を微塵も緩ませない。それどころか、そのトパーズの瞳の奥にある光は、冗談など一欠片も含まれていない、底なしに重く真剣なものだった。
「ボクは、本気だよ?」
「だって、ヴェントゥス様は公爵家の大切なお客様ですし、それに、私より年下で……」
「うん、それで?」
セリアスの微笑みが、わずかに陰る。
彼は躊躇うことなくアリアドネの華奢な身体を軽々と抱きかかえると、有無を言わさず自分の膝の上へと囲い込んだ。驚く彼女の右手を、逃がさないようにしっかりと握りしめる。
「だ、だって……っ!」
完全にキャパシティを越えて混乱するアリアドネ。そんな彼女の赤くなった頬に、セリアスはあやすように優しく、また一つキスを落とした。
「長髪の、落ち着いた年上の男性――になったよね?」
「えっと、それって……」
「君の理想。髪はあの日から一度も切っていないんだ。それに、今のヴェントゥス公爵家の当主はボクだよ。……あれから8年が経った。ボクはもう26歳、君の5つ上だ」
「5つ、上……っ!?」
頭の中で必死に計算を試みるものの、あまりの衝撃にアリアドネの思考回路は完全に焼き切れてしまった。
年下だった青年が、いまや自分の理想をすべて体現した大人の男になり、しかも自分を膝の上に囲っている。この異常事態に、アリアドネは顔から火が出そうなほどに混乱していた。
セリアスはそんな彼女の慌てた姿を、ひどく愛おしそうに眺めている。形勢が完全に逆転していることを、これ以上ないほど楽しんでいた。
「ねぇ。――今度は、ここに触れても良いかな?」
低く、鼓膜を甘く痺れさせるような声。
セリアスは囁くと同時に、親指の腹で、アリアドネの柔らかな唇をゆっくりと、 輪郭をなぞる。
「ひゃ、ゃ……っ! よ、余裕ありすぎです、ヴェントゥス様ー!?」
かつての「年下くん」の面影はどこへやら、完全に翻弄されっぱなしのアリアドネは、ゆでダコのように真っ赤になって叫ぶ。
目覚めたばかりの身体に、あまりにも過剰なときめきと羞恥心が押し寄せ、限界を迎える。
アリアドネの視界はシャットダウンし、氷竜の恐怖とはまったく違う、甘い熱に浮かされたまま、またしても意識を手放してしまった。




