第三話 さよなら彼女⑦
息を切らして走りながら、脳裏に蘇るのは、いつもと様子の違う薺の姿。心配させまいと無理に笑ったり、突然、気持ちを押し込めるように冷たい表情になったり。いつもの素直に想いを顔に出す彼女ではなかった。
「薺!」
玄関のドアを開け、名前を呼ぶ。返事は帰ってこなかった。肩で息をしながら、落とした視線の先には、家を出た時にはなかった、見慣れたパンプスがあった。
「泉、さん…。」
いて当たり前なのに、今は彼女が帰ってきている事に、嫌な予感がした。薺と泉がいるはずなのに、静まり返った我が家。つまり、2人のいる場所は…。
カン、カン、カン…。地下へと続く階段を一段一段ゆっくりと降りていく。少しだけ開いた扉から、話し声が聞こえてくる。
「ごめん、薺ちゃん。」
「いいえ、わかっていたことですから。……私は、あとどれくらい動いていられますか?」
「……正直、いつ止まってしまっても、おかしくはないわ…。」
「そうですか…。」
ドアノブにかけた手から力が抜ける。
聞こえてきた言葉の意味が理解できない。いや、理解できているから、今、こんなにショックを受けているのか。だから、頭が真っ白なんだ。
「ごめんなさい。薺ちゃんに沢山お礼を言わなければいけないのに、私、あなたに何もしてあげられない。」
「いいえ。泉様がこの部屋から私を見つけてくれたから、私、結良様に会えました。ずっと、会える日を楽しみにしていたんです。」
弾んだ声で話す薺には止まってしまう事の悲観が全く感じられない。どうしていいのかわからず立ち尽くしている自分とは違う。
どうして、別れをそんなに簡単に受け入れられるんだ。
気が付けば、勢いよく扉を開けていた。驚いたように2人がこちらに視線を向ける。研究室の真ん中に置かれた何も置かれていない無機質なテーブルの上に座り、薺はきょとん、としている。彼女の正面に立つ泉の瞳は涙で揺らいでいた。
「ねえ、止まるって何。」
「そ、れは…。」
「私を動かしている動力源が尽きかけているんです。」
口ごもる泉とは対照的に、薺は何でもない事の様に言った。動揺も何もない。そうだ。だって彼女はさっき、わかっていた事だと言った。
「メンテナンスすれば大丈夫って言ったじゃないか。」
「そうですね。主人に嘘をつくなんて、悪いロボットですね。」
ああ、だから罰が当たったのかも。おどけた口調でそう言って笑う薺に、結良は唇を引き結び、拳にぎゅっと力を入れた。
「誤魔化すなよ!そうやって笑って誤魔化してうやむやにしようとするなよ…。」
薺の顔を真っ直ぐ見ていることが出来なくて俯く。すとん、と軽やかな音がして、俯く視界の中に、薺の足が映る。
「泣いちゃ、ダメですよ。」
「泣いてない。」
嘘だ。本当はもう泣きそうだ。だって、薺がいなくなるなんて考えたこともなかった。彼女だけは変わることなく、ずっと一緒にいてくれると思っていた。
「何で、薺まで俺を置いていくんだ…。」
「それは、違いますよ。」
「え?」
意外な言葉に、結良は顔を上げた。目の前に立つ薺は悲し気に微笑んでいた。さっきまで、何でもない事の様に、いつもの様に笑っていたのに。
「置いていくのは、結良様で、置いていかれるのは、私です。」
言われている意味がわからず、結良は返答に窮していた。何も言葉に出来ぬまま立ち尽くす結良の手を取り、薺は言った。
「少し、散歩に出かけましょうか。」




