【碧の闇】
聖都イグニア:通常作品
「……もうそれでいいわ。ありがとうね、騎士アルシオ」
ここは竜舎前の庭。たまたま頭が向いていたので竜舎を眺めていると、訓練を終えた同胞たちが、パートナーと共に続々中へ戻っていく。もう夕方のそういう時間帯だ。
そんな中、わたしは軽く体をゆすぶって、全身をぬらす水気を払った。すると右後方から若い声が応じた。
「いいえそんな。まだ時間もありますので、あなたさえ良ければ、最後までやらせてもらえないでしょうか」
「そう? じゃあお願いしてしまってもいいかしら」
「もちろんです! 任せてください!」
嬉しそうな声と共に再び水を浴びせられた。それからごしごしと背中の方をこすられる。わたしの鱗は強化魔法をかけていないと若干やわらかく、傷がつきやすい。しかしドラゴン好きで有名なアルシオの磨き加減は絶妙で、うっとりしてしまうような心地よさだ。
「ギー! かゆいところはありませんかー!」
洗浄の腕だけでなく、こうして気安く愛称を呼んでくれるところも含めて、アルシオが好きだ。
こんなこと、決して『彼』には望めない。少なくとも今のところは。
「悪いわねぇ。山中とは違って、城内でこの身体を洗うのは骨なものだから。騎士アルシオはいい人ね。うちのパートナーとは大違いだわ」
ぴたりと、鱗をこする手が止まった。
しまったと思った。案の定、アルシオの声は不機嫌そうに低くなっていた。
「ひとつ、お聞きしてもいいでしょうか」
「なにかしら?」
「ギーはどうしてあんな――その、彼をパートナーに選んだんです?」
以前から聞きたくて仕方がなかったと、そんな響きが感じられた。
どう説明すべきかと思案する。アルシオは年齢こそ若いが上級騎士。中級騎士であるパートナーの上官になる。下手に悪感情を抱かせるのはきっとよくない。
ともかくまずは首を回し相手の顔を見ようとした。ところが。
アルシオはすでに、そこにはいなかった。
「あら……?」
庭中見渡しても姿はない。何が起こったのかわからずあ然としてしまう。
それでも空白の時間は長くなかった。
アルシオは再び門の向こうからやってきた。もうひとり、別の人間の手を強引に引きながら。
「あの、アルシオさん? ボクに何か……?」
気の抜けたような細い声が聞こえた。対するアルシオの言には怒りがこもっていた。
「エリアス! 君に言っておきたいことがある!」
ぱっと、手を振り払ったのはアルシオの方だ。払われたわたしのパートナー、エリアス=キルラッシュは、いつもどおりの茫洋とした笑顔だった。
「なんでしょうか」
「君は見たところ、彼女をあまり大切にしていないようだ。問題だぞ。戦場で行動をともにする相手とコミュニケーションのひとつも図らずにいるというのは。特に君たちはパートナーとなってから日も浅いことだしな」
「……ああ。おっしゃっているのはもしかして、ドラゴンのことですか」
「知っているんだぞ! 君はせっかくパートナーとして選ばれたにも関わらず、出撃の時にしか竜舎へ来たことがないだろう!」
びしっと指をさされてエリアスは背筋を伸ばした。
そこに続くセリフは、わたしには容易に想像できた。
「申し訳ありませんでした。ご忠告に従い、今後は鋭意努力いたします」
やはり想像したとおりの内容を淡々とのたまって、パートナーは敬礼した。
よほどのことがない限り上官に逆らわないのが彼の流儀だ。その命令がどんな無茶でも理不尽でも。心の中でどんなことを、どんな風に思っていたとしても。
「そ、そうか。それならいいが。……いいかエリアス、これから1日1回は彼女の様子を見るようにするんだぞ。パートナーの体調を把握しておくのも騎士の務めだ!」
「了解しました」
アルシオはまだ何か言いたそうだった。しかし相手が素直に従っている以上その先は言いづらかったようだ。ひとつため息をつくと、今度はわたしの方を示した。
「ちょうど彼女の体を洗っていたところだ。手始めに、水気をふきとるのは君がやるといい」
用意してあった大きな布を拾い上げ、エリアスに押しつけると、アルシオは憤懣やるかたない様子で足早に去っていった。
そしてわたしとエリアスが残された。
少しの間の、沈黙――
「で。これで貴女を拭けばいいということなんでしょうか」
エリアスがわたしを見上げた。わたしは苦笑をおさえられなかった。内心いやがっているのはすぐわかった。笑顔であることに変わりはないが、モスグリーンの瞳に、先ほどまでより深く陰がさしている。
「無理をしなくてもいいのよ」
「命令だから仕方がありません。仕方ありません」
「くりかえさなくていいわ」
「明日からは毎日来ます。来て、様子を見ればいいらしい」
布の感触がわきばらあたりに触れた。期待したほど優しくはなかったけれど、予想よりは丁寧な手つきだった。それに、騎乗する以外で触れてくれたのは初めてだったように思う。わたしはアルシオに感謝の念を捧げた。
その時だった。
「ドラゴンの住処に、毎日、か――」
珍しくエリアスがひとり言をもらした。その手が自らの顔に触れる。
噂によれば。彼の長くのばした前髪の下、顔の右半分には、古いやけどの痕があるという。それは子供の頃に火口ドラゴンに襲われてできたものだと。ただ、本人はそういったことを一切語らないので、まだ確認はできていない。
だからわかることはひとつだけ。わたし自身に向けられる視線や気配でそれだけは察してしまった。とても残念なことだけれど。
彼は、ドラゴンという種族に憎悪を抱いている。
「エリアス? わたしから騎士アルシオにお願いしておきましょうか?」
「……何をです?」
必要ないという意味を含ませて、エリアスは微笑した。
背筋がぞくりとした。
彼の――目。
「問題ありません。実はボクも、そろそろ貴女とのことをどうにかする必要があると考えていましたから」
「……」
彼の言葉を読み替える。おそらく大きくはずれてはいないはず。
どんなにイヤでも、わたしというパートナードラゴンの存在がある以上、必ず共に戦場へ赴くことがある。ならば早いうちに、その状況に慣れなければならない。
――そのためだけに、今は仕方なくつきあおう――
「終わりました。今日は、これで」
はっとして頭を上げると、エリアスはもう背中を見せて門の方へ歩いていくところだった。片手に握られた布がずるずると地面を這っていく。
彼がふり返ることはもうないだろう。だからわたしも「また明日」とだけ声をかけ、竜舎に向かった。
* * *
エリアスはなぜ『ああ』なのだろう。
それを知りたいと、初めて出会って、初めて目を合わせた瞬間に思ってしまった。それが半年ほど前のこと。
だから住み慣れた山脈地帯から、彼の迷惑も省みずについてきた。
けれどいまだに、彼のことはよくわからない。
わからせてくれない。
その分、ますます知りたくなっている。
「おかしいのよねぇ……こんなこと、今までにはなかったのに」
「ギー? なに言った?」
夜闇の中、近くで聞こえた眠そうな声に「なんでもないわ」と答えておく。そしてわたしも目を閉じた。
明日からは、毎日会える。
END
【一部キャラクターをお借りしています】