再会
僕ははがきに書かれていない優和の電話番号を教えてもらおうと、友花ちゃんの携帯に電話をした。できれば五年前のクリスマス以降のことも訊きたかった。
友花ちゃんとは去年電話で話したことがある。しかし、その時受話器から聞こえてきた声は、僕の知っている聞き慣れた声とは少し違っていて、囁くような、か細い声だった。何処か暗く、落ち込んでいるような疲れた声だった。
友花ちゃんは物凄く明るい声で受話器に出る娘だったから、あの「もしもし」が耳に残り、少し気になっていた。
「もしもーし、友花だよ。シュジシュジ、久し振りだね」
去年とはまるで別人のような、いつもの友花ちゃんの声に、僕は拍子抜けした。
「お、遅くにごめん。あのさ―」
「アハハハハ。やだぁ、シュジシュジ、『お』って、どもってるし」
僕の言葉は友花ちゃんの笑いに遮られた。
「あっ、もしかして緊張してる?」
「そ、そんなことないよ」
「アハハハハ。ほら、やっぱり」
僕としては去年のこともあり心配したが、その必要はなかったようだ。
「優和のことでしょ」
友花ちゃんは今の今まで笑っていたかと思ったら、一変して真面目な声になった。
「うん」
「…ごめん、今は話せないの」
え?
「…ごめんね」
「…今は話せないって…、なんかあったの?」
「ううん、なにもないけど」
「じゃぁ―」
「ごめん」
「…電話番号も?」
「…うん」
「でも、伝えたいことがあるって―」
「本当に、ごめん」
「………」
僕の中に不安がよぎった。もしかしたら伝えたいこととは、思い続けてきた人と結婚するという、はがきをもらって喜んでいた僕にとって絶望的なことなのでは。だからあえてはがきにアドレスを書かなかったんじゃないのか? と。そして、もしそうだったら、もう二度と会うこともなくなるだろう。やっぱり一方的な片思いで終わるのか、天国から地獄とは、まさにこういうことを言うんだ、と落胆した。
「分かった。…じゃあ、いいや。また電話する」
「あっ、ちょっと待って、シュジシュジ。なんか勘違いしてない?」
半ばヤケになって電話を切ろうとした僕に、友花ちゃんが慌てた口調で呼び止めた。
「なにが?」
「詳しいことは話せないけど、シュジシュジが思ってるようなことじゃないから。だからクリスマスまで待って。お願い」
「…シュジシュジだって、今でも優和のこと、…好きなんでしょ?」
「えっ、なんで…知ってるの?」
「そんなこと真ちゃんもなちも、とっくに知ってるよ」
「…そうだったんだ」
「で、どうなの?」
「え、…うん。…好きだけど」
「だったらお願い」
「まぁ、べつに付き合ってたわけじゃないし、待てと言われたら待つけど―」
「あのね、シュジシュジ。いつだったか、優和、言ってたよ」
僕の言葉を遮った友花ちゃんは、いつになく静かな口調だった。
「『私は付き合ってるつもりなんだけど、シュジはそうじゃないみたいなの。もしかして優和のこと好きじゃないのかなぁ』って。それでもシュジシュジとのデートってなると、その前の日なんか凄く喜んで、よく私に、『明日なに着て行ったらいーい?』って、はしゃいでたんだよ」
「福岡に移動が決まった時も、『あっちに行っちゃったら、もう会えなくなっちゃうよ』って、涙こぼしてたんだから」
「クリスマスにみんなで集まって遊ぼうって言ったのも、本当は告白するつもりだったの。待っても待っても、シュジシュジが告白してくれないから」
「でも、結局できなかったみたいなんだけど…」
「私ね、シュジシュジが優和のこと好きなの知ってたから、なんで告白しないんだろうって、ずっと不思議に思ってたの」
「あの日、カラオケ店の前で待っていたのも、たとえ優和が告白できなくても、シュジシュジならしてくれるって期待してたからなんだよ。なのにシュジシュジったら…」
「私、すっごく腹が立ったんだから」
「そうだったのか…。もっと早く話してくれればよかったのに」
「話せるわけないじゃない、勝手なこと言わないで。大体、シュジシュジがはっきりしないからでしょ」
友花ちゃんは今まで抑えていた感情を一気に放出するかのように声を荒げたが、「ハァ」と溜め息をつくと、すぐに落ち着きを取り戻した。
「シュジシュジさあ、本気で言っちゃうわけ? 『付き合ってたわけじゃない』って」
「だってさぁ、好きな人がいるって言うから…」
「んなわけないでしょ。優和のシュジシュジを見る目は、シュジシュジへの思いでいっぱいだったんだよ。シュジシュジを見る優和は、『私、あなたが好きです』って顔してたじゃない。私達にだって分かってたのに、シュジシュジ分からなかったの? ひどぉい。私、分かってないの、市川君だけかと思ってたのに…」
あきらかに友花ちゃんの声は、僕に呆れていた。そしてこの呆れは、やがて怒りに変わっていった。
「私達って…、保坂も?」
「そうよ。真ちゃんなんか、『俺には無理だ。優和の中に俺はいない。中ちゃんしか見てないもん。残念だけど仕方ないな』って、それからはずっと、シュジシュジと優和を見守ってたんだよ」
「でも、優和は保坂と帰ってたじゃん」
「だからそれは優和の思いを知るまでだよ。知ってからは別々に帰ってたんだって」
「…保坂はなんでそのことを黙ってたんだろう。言ってくれればよかったのに」
「シュジシュジ、子供じゃないんだからさぁ」
「…ごめん」
「私に謝ったってしょうがないでしょ」
「そうなんだけど…。でもなんで友花ちゃん、そんなに知ってるの?」
「私だって、知りたくって知ってるわけじゃないの。優和も真ちゃんも、みんな私に相談するんだもん。しょうがないでしょ」
「あのさぁ、シュジシュジ。今でも優和のこと好きなんだよねえ。だったら、なんで今までに告白しなかったの? チャンスは幾らでもあったでしょ? なんで好きな人がいると聞いて、勝手に諦めちゃうの? DONDONで待ち合わせしてたんでしょ? ソフトクリームだって食べ合ったりしてたんでしょ? 一つのいちごを二人で食べたんでしょ? それって、デートじゃないの? 恋人ってことなんじゃないの? 優和、とっても喜んでたんだよ。なのに…、なのになんで、『付き合ってたわけじゃない』とか平気で言っちゃうの? …これじゃあ、優和が可哀相だよ」
友花ちゃんの声は泣いていた。
さっきまで半ばヤケになっていたはずの僕は、言葉を失った。
僕達六人の関係は、「みんなで集まって楽しく遊びましょう」といった、いわゆるサークルの仲間のようなものだった。暗黙のうちに恋愛はタブーとなっていたが、そこは若者同士、恋愛をするなと言う方が無理な話。だから保坂がそうだったように、確かに僕にも告白するチャンスはあった。そして友花ちゃんの言うように、優和を見ていて「もしかしたら…」と思ったことも。しかし、優和にはずっと好きな人がいることを知る僕は、告白してもしも断られたら、僕達二人の関係がギクシャクしてしまうのではと恐れた。それならば、いっそこのままでいい。ずっと遊び友達のままでいい。ギクシャクして、最悪、会えなくなるよりは、たとえ遊び友達でも会える方がいい。会えるだけで幸せなんだと、初めから諦めてしまっていた。片思いでいいんだと。だから優和と二人っきりの時も、「これはデートじゃない。ただ遊んでるだけ」と自分に言い聞かせ、いつも気のない素振りをすることに極力努めたし、自分から優和を誘うこともなかった。ただ、僕の中の“好き”という思いが、優和の「あそぼ」の声を待ち望み、そしてその声に喜んだ。その声といることに。
今だって僕は、このはがきに喜んでいる。
もっと早く優和の思いに気付いていたら。僕が勝手な思い込みをしなかったら。僕が臆病者じゃなかったら。僕に…、僕に勇気があったなら、優和を悲しませることはなかった。僕達は今でも一緒にいられたんだ。
僕は過去の自分を悔やんだ。しかしその悔やまれる自分は、時を重ねてもなにも変わらず、今もここにいる。勇気のない臆病者がここに。
どのくらいそうしていたのだろう。受話器を耳に当てたまま、ただボーっと立ちすくんでいる自分に気が付くと、電話はもう切れていた。あの後、僕は友花ちゃんとなにを話したのかよく覚えていない。
「…馬鹿だよな」
「一緒にいたいから、『好き』って言えなかったのに…。そうだったなんて…」
「…ハァ」
受話器を置くと、友花ちゃんの、「クリスマスまで待って」、「本当は告白するつもりだったの」、の声が脳裏をよぎった。
ん?
「それじゃぁ、伝えたいことって…」
―でも、それならなんでクリスマスの後、連絡が取れなくなったんだろう。なんでアドレスを内緒にするんだ? なんで「クリスマス・イブに」なんだ?
話の流れと友花ちゃんの迫力に圧倒され、結局クリスマス以降のことは訊けずじまいだったが、ともあれ、クリスマス・イブの再会は、僕にとっていい結果をもたらしてくれるようだった。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、そして冬を迎える。子供の頃に比べると、大人になった今は時間が早く過ぎる。しかし、それでも十二月はまだまだ遠い。
優和、君は今、どうしているの?
早く来い、クリスマス。
期間限定のイルミネーション。永遠の愛を誓い合うには罪深き光たち。あまりに美しいそれらは、聖なるものというよりは、恋人達の今を育むシチュエーションとして彩られ、僕達はその空間を、時間を、ロマンティックと言う。
僕の前を行き交う恋人達、横で寄り添い合う恋人達も、この空間と時間を楽しんでいる。
ロータリーの中心にある巨大ツリーは、そんな二人の世界を照らし、見守っているように思えた。
ロータリー内は整備され、一般車両の駐車が禁止になっていて、もう張り付いている車はなかった。タクシーとバスの領域の中で、送り迎えの車が肩身を狭くしている。
確かに昔と違って混雑していないし、安全なのかもしれない。でも、本当にこれでいいんだろうか。なにか大事なものを忘れてしまってはいないか? そこには政治的な難しい背景が絡んでいたからかもしれないが、張り付く車を問題視していたのならば、なぜ最優先してでも、もっと早くに整備しなかったのか。それは、人々もそれまでの状況に我慢ができていたからではないのだろうか。文句はあっても許すことができていたからなのでは。だからその必要がなかったのでは。
混雑するロータリーがいいはずがない。しかし僕は昔のロータリーの方がいい。一見、無秩序に見えたそこは、実はみんながそれぞれに気を付けていた。危険だからこそ、その危険に注意をしていた。みんながみんな、周りに気を配っていた。今思えば、僕にはそれが生き生きとして見えた。しかし整然としているここには、“生”を感じられない。無機質で、何処か他人事の空間に思えてならない。
いつからなのだろう。我慢ができなくなったのは。許すことができなくなったのは。僕もそうなのだろうか。優和はどうなのか。僕達は変わってしまっているのだろうか。
柄にもないことを思った自分に苦笑し、コーヒーショップの壁に凭れ掛かって夜空を仰ぎ見ると、瞬くイルミネーションが小さな夜を薄めていた。
DONDONは“コーヒーコーナー”になっていた。
七時十分。既に十分が過ぎた。
なにかあったのかなぁ…。
…もしかして、友花ちゃんから話を聞いて、怒って来ないんじゃ…。
そんな不安を覚えつつも、しかし僕には、たとえ日付が変わっても、ずっと待ち続ける覚悟はできていた。たとえ来ないとしても…。
もう、諦めたりはしない。
電車やバスが到着すると、僕の前を行き交う流れは、その方向からの流れが強くなる。もう何度この流れを眺めただろう。優和はその流れを乱すように、雑踏の中を歩いてきた。
ゆっくり、ゆっくり、歩いてきた。
人の流れはそんな優和を避けるようにして追い越していく。
僕はその流れに逆らって優和のもとへと急ぎ、数歩手前で立ち止まった。
「空は青いそうです」 「でも、会えなくなっちゃって…」
―そういうことだったのか…。
今、具体化されない不安が消えた。
カシ、カシ、カシ、カシ―。
パシ。
「あっ、ごめんなさい。私…」
僕の足を叩いて立ちすくむ優和を、僕はギュッと抱きしめた。人目も気にせず、ギュッと。
「優和」
「―しゅう…じ?」
初めは戸惑っていた様子の優和も、僕だと知ると抱きしめた。力一杯、抱きしめた。
「…修司、会いたかった」
僕は黙ったまま、何度も頷いた。
会いたかった。誰よりも会いたかった。…涙がこぼれた。
「元気だった? 驚いたでしょ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ? そうかぁ、ちょっとだけかぁ」
「優和も元気そうじゃん」
「うん、…なんとかね」
「―髪、切ったんだ」
「へん?」
「いや、似合ってる」
「ほんと? よかったぁ」
普通、こういう場合、肘とか二の腕辺りを掴んでもらうんだろうけど、僕達は手を繋いで歩いた。ゆっくりと。
優和の僕を掴む力は強く、僕は頼られているんだと実感できた。僕は話をしながらも、優和の前の障害物に気を付けた。
ロータリーから延びる路地がある。片側に飲み屋がしばらく続き、もう一方は高いフェンスが立っている。このフェンスの向こうになにがあるのか、昔も今も僕には分からない。べつに知りたいとも思わないし、仮に知ったところでたいした感激もないと思う。
昔はロータリーが一杯だと、この壁にもよく張り付いたものだったが、今は当然ここにも張り付く車はない。
僕の知る雰囲気と少し違うのは、やはりイブだからなのか、それとも年月の成せる技なのか、サラリーマンが多かったはずのこの路地は、若者達で賑わっている。
こんなに広かったんだ…。
僕達はやけに広く感じる路地をぬけ、駐車場へと向かった。
「車、新しくした?」
「うん」
「新車の匂いがする。買ったばっか?」
「いや、もう二年になる。あまり乗ってないけど」
「そっか」
「それよりさぁ、何処行こうか」
「“おばあちゃんの店”に行きたいな。おなか空いちゃった」
「おばあちゃんの店かぁ、久し振りだなあ。いいね、行こう」
「あっ、でも、修司、おなか空いてる?」
「昼からなにも食べてないよ」
「よかったぁ。じゃあ、一緒に食べようね」
「ああ。おばあちゃん、覚えてるかなぁ」
「覚えてるよ、きっと」
「おやおや、久し振りだねぇ。何年振りかねぇ」
「僕達のこと、覚えてるんですか?」
「ああ、覚えているよ。今日も一緒だね」
この時間には珍しく、店内に客はいなかった。
おばあちゃん一人で切り盛りしているこの店は、それほど広くない。四人掛けの昔ながらのテーブル席が二つと、奥の座敷にやはり四人掛けのテーブル席が二つあるだけの小さな店だった。
僕達は座敷の窓のある方の席に向かい合って座った。ここがいつもの場所だったからだ。あの頃のように、僕が窓に背を向けて。勿論、この席が空いていない時は別の席に座ったが、優和が、「この窓から見える港って、私、好きなの」と言って以来、この席が二人の定番の席となっていたのだ。
「いつものでいいかい?」
「はい、お願いします」
本日のA定食は刺身定食。B定食はとんかつ定食だった。
「優和はAの刺身とBのとんかつ、どっちがいい?」
「とんかつがいいな」
「うん」
メニューはこの日替わりのAとBの定食のみだが、味は申し分なく、学生相手の店だけあってか、ご飯とおかずの量が半端ではない。それなのに、どちらも六百円はかなり安い。
僕達は決まってこの二つの定食を注文しては、おかずを分け合っていた。これも僕達の定番だった。
「おばあちゃん、私達のこと覚えてたね」
優和はニコニコしながら僕に顔を寄せてそう喜ぶと、僕の背中の港に暗闇の眼差しを向けた。
「船、ある?」
「うん。でっかい貨物船が泊まってる」
「そっか」
僕の言葉に、優和は窓の外を見詰めた。
「―夜景、綺麗?」
「うん」
「そっか」
五年振りの会話は、なんとなくギクシャクして終わった。僕は何処を見るでもなく、ただ店内を見渡すばかりになり、優和も視線を上げたり下げたりを繰り返すばかりになった。
「おまちどうさま。A定食はどっちかね」
「あ、はい」
僕は手を挙げた。
「はい、修司ちゃん、A定食ね」
「ありがとうございます」
僕にA定食を手渡すと、おばあちゃんは調理場に戻っていき、今度は優和のB定食を運んできた。曲がった腰で。
「はい、優和ちゃん、B定食」
おばあちゃんは優和の前に定食を置くと、何処になにがあるのか教え始めた。優和はそれを一つ一つ手で確認しながら、「はい」、「はい」と頷いた。
「ありがとう、あばあちゃん」
「いいよ、いいよ」
優和が笑みを向けると、おばあちゃんの優しい微笑みが優和の笑みに注がれた。
おばあちゃんはいつも厚焼き玉子をサービスとして付けてくれた。今日も厚焼き玉子が付いている。おばあちゃんの厚焼き玉子は甘く、ダシが利いていて旨い。僕達の好物だった。
僕が優和の顔を見ると、優和も箸を銜えながら僕を見ていた。
「修司、ちょっとちょうだい?」
「うん」
僕達はあの頃のように、おかずを分け合った。
「ふぅ、おなかいっぱい。ごちそうさまでした」
自分のおなかを軽くポンポンと叩くと、優和は両手を合わせて合掌した。
「ごめんね、待たせちゃったね」
優和は僕がとっくに食べ終わっていたことに気付いていて、今度は僕に合掌した。
「どこ行く?」
あの頃は優和がこう訊いていたのに、今は僕が訊いている。
僕はシートベルトを締めると、フロントガラスの向こうの、でっかい貨物船の光を見詰める優和へ視線を注いだ。
「平に、行こ?」
「いいけど、平に行っても…」
「お願い。あの路肩に連れてって」
「…分かった」
「はがき、ありがとう。よく分かったね、住所」
「友花に教えてもらったの」
僕はクリスマス・イブに優和と会ってから一年程して会社を辞め、東京にいた。理由は一つ、優和を今度こそ諦めるためだった。一年も連絡がない。それは終わりを意味しているのだと思ったからだ。しかし東京に出て一人になってみても、なにも解決はしなかった。定職に就こうともせず、アルバイトを始めては二カ月と続かない、その繰り返しの日々だった。三年目にどうにか再就職したものの、ただ仕事を無難にこなすだけで仕事に対する情熱など微塵も持っていなかった。同僚と酒を酌み交わすこともなく、ただ自宅と会社を往復する毎日だった。
優和のはがきは、そんな荒んだ僕の生活の中に届けられた。
僕は再就職が決まって初めて、保坂と友花ちゃんに東京のアドレスを教えた。親とは必要な時だけ一方的に自分から電話をかけるという方法で連絡を取っていたが、二人とは三年の間、一切連絡を取っていなかったから、電話をした時はみんな一様に驚いていた。保坂達にしてみれば、僕は失踪し、行方不明になっていたようだ。
勿論、親にもこの時ちゃんと教えている。ただ、この時初めて僕の親は自分の息子の真相を知ることになり、僕はこっぴどく叱られてしまったのだが。
車内に流れる思い出の曲。僕は優和のリクエストどおり、車をあの路肩に向けて走らせていた。
「懐かしいね、この曲」
「うん」
なにを話していいか分からない。なにから話していいのかも。話したいことは一杯あるはずなのに、本当はこの時をずっとずっと待っていたはずなのに、僕達はそれからずっと黙ったままだった。あのイブの夜のように。
相変わらず僕達には交わす言葉もないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「…着いたよ」
「うん」
優和は小さく頷き、窓の外に顔を向けると、パワーウインドウを下した。
「気持ちいー」
「ほんとだ」
暖房で火照った顔に、冬の冷たい風が心地よかった。
「ねぇ、夜景、見える?」
「…うん」
「綺麗?」
「…うん」
「『うん』ばっかだね」
「うん」
「ほら」
クスッと優和が微笑む。
「…他の場所、行こうか?」
「ううん、ここがいい」
「でも…、楽しくないだろ」
「そんなことないよ。そっかー、綺麗なんだー」
僕の声に優和は明るく振る舞った。
そんな優和を見て、僕はそれ以上続ける言葉がなかった。
優和はパワーウインドウを上げると、フロントガラスの向こうにある木々に視線を向け、静かに話し始めた。
「ねぇ、修司。私ね、本当は修司のこと、もっと前から知ってたの。ルージュで会ったのが初めてじゃないの」
僕はその横顔に振り向いた。言葉には出さなかったが、多分、「えっ」という顔をしていたと思う。
「修司さぁ、昔、平沼のバス停に毎朝いたでしょ」
平沼のバス停。それは僕が大学一年の頃、通学に使っていたバス停だった。寮生活をしていた僕が、寮の先輩と後輩の間に存在した、体育会系のノリといった理不尽ともいうべき上下関係に、怒りを抱きながらも従うしかなく、地獄のような毎日を過ごしていた中でのバス停だった。
「…なんで知ってるの?」
「私もそのバス停にいたのよ。修司ったら周りの学生と違って、無言のまま、ただジーっと前を見てたの。変な人だなぁって、初めは距離を置いて列に並んでたんだけど、毎朝見てたらなんだか面白くなっちゃって、徐々にだけど修司の近くに寄っていったの。修司の隣に並んだことも何度かあるんだよ。だけどそんなこと全然気にしないで、ただジーっと前を見たままだった」
「そうかぁ、全然知らなかった」
「そうだよね。修司も私も、お互い知らない者同士だったんだもん。それが当然なんだけど」
何処か遠くを見て話す優和の眼差しは、その暗闇の中で僕を探すと、ジッと見詰めた。
「修司、バスの中で女子高生に席を譲ったこと、ない?」
「…ある」
「それ、私だよ」
「え?」
「一度だけだけどね。修司に席を譲ってもらったことあるんだよ、私」
「修司、その時のこと覚えてる?」
「うん、覚えてる。女性に席を譲ったの、あの時が初めてだったから」
「座席に着いたら横に女子高生が立ってて、そしたら、無意識というか、気が付いたら譲ってたんだ」
「その時、私の顔、見た?」
「…見てない」
「やっぱり」
ブランクはあるものの、今日までの僕を見てきてた優和は、少し呆れたように言うと、クスッと笑い、なにかを納得したかように、
「修司らしいね」
そう言って微笑んだ。
「修司のことは真ちゃんがね、お店に来るたびに話してたから知ってたんだけど、でも、それは真ちゃんの友達の中山さんだったのね。それで、今度連れてくるよって話になって、後日、修司がお店に来たの。修司の顔を見た時は凄いビックリしちゃった。だって、ずっと思い続けてた人が目の前にいるんだもん」
え?
じゃぁ…。
「でも、相変わらず昔みたいにジーっと前を見たり、俯いたりで、なかなか私の顔、見てくれなかったけどね」
「あ、あの時は緊張して…」
「そだね」
優和は再びクスッと笑った。しかしその笑みを残したまま、見えるはずのない夜景に視線を落とすと、その横顔は次第に真顔になっていった。
「…修司」
定まらない眼差しが僕を見る。
「あのね…、私…」
優和の眼差しは確かになにかを決心していた。定まらずとも強い眼差しだった。しかしその一方で、懸命になにかと格闘しているようでもあった。
それがなんなのか、今の僕には胸の奥の奥にまで、痛いほどに伝わってくる。なにを決心し、なにと格闘しているのかが、痛いほどに。
そんな優和の姿が、切ないほどに愛おしい。
「優和。俺、優和が好きだ。ずっとずっと、好きだった。…初めて会った時から、ずっと」
「…今まで言えなくて、ごめんな」
今までずっと言えずにいた、たった二文字の言葉を、「好き」という二文字を、僕は初めて口にすることができた。
「…嬉しぃ」
「…やっと言ってもらえた」
「…よかったぁ」
「ずっと…、待ってたんだよ…」
そっと目を閉じた優和の頬に、涙が光った。
クリスマス・イブということもあって、ホテルは何処も満室だったが、それでもなかには空いているホテルもあったりする。どうやらキャンセルが出たらしい。
港の見えるシティホテル。この“ホテル サンシティ”のレストランには何度か来たことがある。しかし、全室がハーバービュウで、特にクリスマスともなると恋人達に大人気のこのホテルは、平日でも宿泊料金がそれなりに張るため、誰もが手軽に宿泊できるというホテルではなかった。だから当然安月給の僕には、レストランのランチが精一杯の場所だった。ただ僕の場合、宿泊料金以前に“恋人”という重大な問題があったから、そういった意味でもレストランのランチが精一杯だったのだが。
部屋に入ると、港の明かりが薄明るく射し込んで、僕達を優しく照らした。明かりは点けなかった。これで十分だった。
僕達はこれまでの時間を取り戻すかのように、熱く、深く、しかし時には優しく、ゆっくりと愛し合った。
射し込む明かりと二人の汗が、三つのクロスを時より光らせた。
「あっ、修司の心臓の音、聞こえるよ」
「うん」
「…友花から聞いたよ。ごめんね、はがきに電話番号書かなくて」
「べつにいいさ」
優和はためらっているようだったが、まだ火照りを残した身体を僕の胸に預けると、静かに話し始めた。
「…福岡に行って、…修司に会えなくなって、…修司の声が聞きたくなって、…電話しようと何度も思ったの。…でも、私のこと、修司はどう思っているのか分からなかったから、…怖くて、結局かけられなかった。もしかしたら私のことなんて、なんとも思ってないんじゃないかって…。友花は、『だいじょうぶだよ』って言ってくれてたんだけどね」
「…初めはね、八月頃だったの。最初は夏バテだと思ってたんだけど、だんだん辛くなって、何日か会社を休んだの。良くなっては、すぐに辛くなって…。そんなことが何回か続いたから、これはおかしいなって病院に行ったら、…そんなに遠くない将来に失明するって言われちゃったの。…あの時はあまりのショックでどうしていいか分からなかった」
「…ずっと、修司に会いたいって思ってた。まだ見えるうちに修司に会いたいって。目を閉じるとね、修司の顔が浮かんでくるの。でもね、友花はそれからもずっと、『だいじょうぶだよ』って言ってくれてたんだけど、もし、修司に好きな人ができてたら迷惑になっちゃうでしょ。だからなかなか電話できないでいたの。そしたら友花が、『じゃあ、みんなで会えばいいよ。集合時間まで二人で会いなよ』って、クリスマス・パーティーを計画してくれたの。おかげで、修司に『あそぼ』って、電話することができたんだけど、でも、修司が私に電話したら、こうなることを知られてしまうんじゃないかと思って、あの時、『私から電話する』って言っちゃったんだ」
「私、あの時もう、福岡にいなかったから…」
「そうか、だからクリスマスの後、友花ちゃんに訊いても、『そのうちかかってくるよ』って、電話番号教えてくれなかったんだ」
「うん。私が友花に頼んだの」
「…私ね、本当はクリスマス・イブのあの日に、告白するつもりだったんだぁ。失明したら、もう会えないと思ったから、自分の気持ちだけでも伝えておこうと思って。でも、何度かチャレンジはしてみたんだけど、なかなか言えなくて…」
「みんなと別れた後、港に連れていってくれたでしょ。あの時、もしかしたら修司の方から告白してくれるんじゃないかって、ドキドキしてたんだけど、どうもそうじゃなかったみたいで…。だから最後のチャンスと思って、駅で言おうとしたの。でも…」
「はっきり言えばよかったな。『ずっと前から好きだった。修司のこと愛してる』って…。最後と思ってもだめだった。勇気が出なかったの」
「俺の方こそ、ごめんな。…あの日、俺も本当は告白しようと思ったんだ。…でも、好きな人がいるのに告白なんかしたら、優和を困らせてしまうんじゃないかと思って、…言えなかった」
優和は僕の胸の中で、「うん」と、言葉にならない声で軽く頷いた。
「あと、…俺、知ってたんだ。その―」
「友花に聞いたんでしょ」
「…うん」
僕が告白を決心し、覚悟を決められた理由を優和は知っていた。
「ずるいよな、俺って…」
「ううん、そんなことないよ。だって、ほんとに嬉しかったもん」
優和は穏やかに、「ほんと、修司らしいよね」という目で僕に微笑むと、その眼差しを元の位置に埋めた。
「…それから年が明けて、二月に見えなくなってからは、外出することもなくなって、一日中、家に閉じ籠るようになったの。覚悟はしてたんだけど、いざ、なってみるとやっぱりね…」
「…時々、友花が遊びに誘ってくれるんだけど、周りの目を気にしながら友花に誘導してもらって歩くのが嫌で、でも一人で歩くのは怖くてできなくて、結局友花の手を煩わせて歩いてた。レストランに行ってもグラス倒しちゃうし…。毎日が辛かったんだぁ。だからしまいには友花の誘いさえも断るようになっちゃって…」
「それでも、相変わらず友花は遊びに来てくれてたの。でも、本当は誰にも会いたくなくって。…生きているのがね、嫌になってた」
「去年、修司が友花に電話したのはそんな頃だったの。修司のアドレスはちゃんと友花から聞いてたんだけど、そんな状態だったから電話もできなかった…」
「…そうだったんだ」
僕はそっと優和の髪に手を添えた。
「うん。でも、そんな私をずっと見てきた友花が、ある日、凄い剣幕で泣きながら怒ったの。それで帰り際に、『富士山に登るからね』って言ったの。友花は凄い迫力で、とても断れなかった。友花が帰った後、一人になって、なんで富士山? って思ったんだけど、『いつか修司と富士山に登るんだ』って、私が前に話してたことを、友花はちゃんと覚えていたみたいなの」
「大変だったけど、登ってよかったぁ。手を引かれながらだったけど、今度は修司と登りたいと思えるようになったし、会いたいって思えるようになったから」
「電話番号を書かなかったのは、歩行指導の人に指導してもらって、修司に会うまでに一人で歩けるようになりたかったからなの」
「はがきを送った後、友花が修司に私のことを言わなかったのは、もしも途中で修司の声を聞いてしまったら、すぐにでも会いたくなって気持ちが挫けちゃう気がしたし、なによりも修司に心配かけちゃうから、私が『内緒にして』って頼んだからなの」
僕は優和の髪を撫でながら、僕の胸に沈める優和の寝顔を見詰めていた。
あの後、僕は優和から、「ルージュで働いていたのは、父親の借金の返済の手助けのため」だと聞いた。福岡に行ってからは、見知らぬ土地ということもあって、副業は断念したため、仕送りの金額は減ったものの、それでも親への仕送りは欠かさなかったという。
そんな中での失明への不安を、そして、失明による苦しみを、瞼を開けばいつでも優和を見ることのできる僕には、おそらく何十分の一も分かってあげられないのだと思う。話を聞いて、「大変だったね」と想像するのは簡単だが、しかしそれは、あくまで僕自身の想像でしかなく、現実の厳しさは僕なんかの想像を遥かに超えていたに違いないのだから。
結局、優和の両親は仕送りには一切手を付けず、全額、優和名義で貯金をしていて、借金も自力で返済したそうだ。
自らの借金に加え、突然の娘の病気。僕が東京でグダグダな生活をしている同じ頃に、優和の両親は現実と戦い、そして優和もまた、底知れぬ不安と苦しみの中にいたなんて…。
それに比べて、僕はいったいなにをしていた? ただ子供のようにいじけて、拗ねていただけじゃないのか?
僕は、いかに自分が情けなく、軟弱だったか思い知らされた。
考えてみれば、僕は「好き」という気持ちばかりで、「一緒にいたい」という思いばかりで、優和の生い立ちも家族のことも知らない。知ろうとも、話もしてこなかった。いくら遊び友達だとしても、少しくらいは知っていても不思議じゃないのでは? なのに僕はなにも知らない。優和の書いた文字を見たのだって、あのはがきが最初だった。
あの頃、僕はなにをしていたんだろう。優和のなにを見ていたんだろう。僕は結果を恐れるあまり、見えているもの、見なければいけないものから目を背け、“今”という時間の流れに、ゆるりゆるりと漂っていたにすぎないのでは?
僕が知っている優和といえば、いつも一生懸命だった。我が儘で、淋しがり屋のくせに強がって、でも、いつも包み込んでくれるような優しさを持っていた。そして、いつも笑顔だった…。
ん? そうか、僕はこれまでずっと優和のことを思ってきた。それは事実だ。でも、実はそれ以上に、僕が優和に思われていたんだ。僕なんかよりも、ずっと深い想いで。
だからいつも癒されてたんだ…。
きっと、疲れたのだろう。「スー、スー」と、僕の胸から寝息が聞こえてきた。
この優和の寝息は、僕にひとときの安らぎを与えてくれたと同時に、優和への“愛しい”と思う気持ちを、いっそう大きくさせた。
こんな僕を、ずっと好きでいてくれてたなんて…。
…なのに僕は…。
僕は優和の小さく柔らかな手を握った。
もう、離れないと。
平沼の畑が広がる農道。助手席の優和越しに、お茶の製造工場の隣に建つ、三棟の二階建ての寮棟が見える。
懐かしい…。
三棟の二階建ての寮棟。その一番左端の棟の、一階の奥から二番目の部屋に僕はいた。先輩と顔を合わせないように、毎日その部屋に籠っていた。朝と夕の食事の時と、入浴時以外はずっと。息を潜めるようにして。
それでも時々は呼び出される。この“呼び出し”は後輩の僕達にとっては“地獄”を意味していた。先輩の機嫌一つで、その“地獄”は軽いものにも重いものにも、どうにでもなるのだ。あそこは理不尽が理不尽でなくなる、そんな世界のある場所だった。
それは大学のキャンパス内でも同じだった。息を潜め、ビクビクしながら辺りをキョロキョロ。先輩に会わないように、先輩に気付かれないように、教室から教室への綱渡りだった。
昼食の時も、前日の下校時に近くのスーパーで買っておいた菓子パンを、先輩がそこにいないことを確認してから、屋上で急いで食べていた。しかし先輩が屋上にいる時は、別の場所を探さなければならず、その結果、適当な場所が見付からない時は、昼食を諦めていた。だから僕はここでの一年間は一度も学食に行ったことがない。
キャンパス内での先輩に対する失礼は、即、寮に帰ってからの“地獄”となる。例えば、運悪く先輩に出会ってしまったり、たとえ遠くであっても見掛けてしまったりしたら、その時は、先輩が気付いていようといまいと、そこが何処であろうと、「ちわーっ、失礼しまーす」と、大声で叫ばなければならない。これを怠ると先輩への失礼とみなされてしまい、寮に帰ると、何処で知るのか既に寮全体の知るところとなっていて、“地獄”行きになってしまう。
普通の挨拶が認められていない、普通に挨拶をすることが許されない理不尽な世界だった。実に馬鹿げた世界だった。
ここでの一年は、そんな一年だった。
自分の失礼が自分一人の責任であるならば、堂々とこの理不尽に反発できた。喧嘩には自信があったし、先輩とはいえ、べつに怖くなどなかったからだ。
それならば何故、ここまでビクビクしたのか。それは連帯責任になるからだった。誰か一人の失礼が、一年全員の責任になる。僕一人の反発が一年全員の迷惑になるのであれば、息を潜めるしかない。まるで人質を取られているようなものだった。
正直、悔しかった。
翌年度の校舎移転に伴って、僕は寮ではなくアパートに住んだ。寮という空間にいたがために、あの理不尽に耐えなくてはならなかったが、アパートには一般の人も住んでいて、そこにあの寮の理不尽な世界は存在しない。だから二年になってからは復讐とばかりに、かつての寮の先輩達をオール無視してやった。擦れ違ってもシカトしまくった。もともと先輩といっても、寮があっての先輩でしかなかったのだから当然だ。
本来ならば優和越しに見えるあの寮棟は、そんな苦々しい思い出の、二度と来たくない場所のはずなのに、今はあの三棟が妙に懐かしく思う。
そういえば、あの寮は朝からお茶のいい匂いがしてたっけ…。
「見えてきたよ、“止まれの十字路”」
「うん。じゃあ、この辺でお願い」
僕は優和に言われていたとおりに、“止まれの十字路”の少し手前で停車した。
「じゃあ、電話するね」
「本当にここでいいの? 家の前まで送るけど」
「ありがとう。でも、ここで大丈夫だから」
「ごめんね。…朝帰りは、…やっぱりね」
優和がはにかむ。
「…車に、…気を付けろよ」
「うん」
「あー、もしかして淋しい?」
「当たり前だろ」
「すぐに会えるよ」
車を降りた優和は、ホテル サンシティでの一夜の余韻を残しつつ、白杖を器用に使いこなして農道を歩いていった。
僕がどんどん小さくなっていく優和を見送っていると、優和は“止まれの十字路”で振り返って手を振った。僕は見えないと分かっていながらも、それに手を振り返して答えた。
優和が微笑んだ。
優和の微笑んだ顔を見たのは、これが最後だった。
七月十日。
優和へのサプライズを手に、僕はいつもに増して優和との電話を楽しみにしながら帰宅した。
まずは留守電を聞く。優和からの留守電を。それが帰宅後、僕が最初にする行動。なによりも優先されること。
今日の優和はどうかな?
「やばっ。留守電セットするの忘れてた」
…怒ってるかなぁ。
ネクタイを無造作に緩めただけの、まだスーツ姿のままの僕は、そのまま優和への電話を急いだ。
プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル―。
「只今、出掛けております―」
「あれ?」
間違えたのか?
そんなはずないんだけど…。
僕は一旦電話を切ると、今度は念入りにチェックしながら番号をプッシュした。
プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル―。
「只今、出掛けてお―」
やっぱり…。
優和への電話が繋がらない。こんなことは初めてだった。
「もしもーし。優和だよ、おかえりー。今日、どうだった?」
「いつもと変わんないよ。優和は?」
「私? それがねー」
こんな感じの会話で始まる帰宅後の電話が、今では毎日の日課になっていた。それは優和からだったり、僕からだったりした。
唯一、僕達が会える大事な時間だった。
この日課は決して携帯電話では行われなかった。携帯ならいつでも何処でも好きな時に話ができるのに、仕事に支障を来したらいけないからと、ホーム電話に限定された。
当然のことだが、電話をかけて留守電だったら、“まだ帰宅していない”の合図で、出るまで時間を置いて何回もかけ直すのだ。面倒臭いと思うのだが、優和にとってはそんな時間もまた楽しいそうだ。だから僕の留守電には優和の色々な声が記録される。楽しそうだったり、嬉しそうだったり、時には悲しそうだったり、怒っていたり。それが一日の内に色々変化したりもする。
僕の場合は、僕の帰宅する時間には必ず優和は自宅にいたから、かけ直すことはなかったが。
…なにか…あったのか?
一瞬よぎる小さな心配。そんなこと考えてはいけないのに、考えたくもないのに、どうしても悪い方へと考えは巡ってしまう。
本当はなにか急な用事とか理由があってのことで、心配するほどのことではないのかもしれないのに、僕が抱いた“心配”は猛スピードで自分自身を追い詰めていった。
僕は急いで友花ちゃんの携帯に電話をかけた。
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか―」
…なんだよ。
「繋がんねえよ」
電話を切ると、続けて今度は保坂にかける。
「保坂もか…」
じゃぁ、なっちゃんだ。
しかし、なっちゃんの携帯も同様だった。
…なんで?
「なんでみんな繋がんねえの?」
優和は携帯持ってないし…。
「あぁぁぁ、やっぱり携帯の留守電、入っておけばよかったぁ…」
僕は留守番電話サービスを受けていなかった。緊急の用件は誰も留守電には入れず、くだらない用件ばかりしか記録されてなかったから、それでもやっぱり仕事上では必要かとも思ったが、あえてこのサービスを解約していた。だから僕にとっての留守電とは、優和との会話を楽しむホーム電話のものだけだった。そして、それはメールも同様だった。
どうすればいいんだ…。
他に手段を見付けることができないでいた僕は、結局その後も根気強く電話をかけ続けるしかなかった。しかし、優和の家の電話はおろか、友花ちゃん達の携帯にも一向に繋がることはなく、また、かかってくることもなかった。
右往左往する中で、ジタバタするその過程で、いつしか僕はホーム電話の子機と携帯をテーブルの上に並べていた。それがこの状況下でなんの解決策にもならないことは分かっていたが、それは、電話がかかってきた時に、せめて一秒でも早く電話に出られるようにとの思いからの行動だった。心配しながらも、もう、僕にはこれくらいのことしか成す術がなかったのだ。
待つしかなかった。
もう、待つしか。
あっ、携帯の電源…。
「入れんの忘れてた」
「かぁ、なにやってんだ俺は…」
「しゅうじー」
…優和?
ハッ。
思わず僕は目を見開いた。
「しまった」
時計の針は僕の知る時間から、五分後を指していた。僕は迂闊にも、このところのハードスケジュールに、いつの間にかうたた寝をしてしまっていた。
「ああああああああ、もう。本当になにやってんだ、俺は」
ハァ。
度重なる不甲斐無さに、自己嫌悪の嵐。しかしその中には、“心配”という魔物までが同居している。
プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル―。
やっと携帯が鳴った。友花ちゃんからだった。
…なんだ? この感じ…。
既に大きく成長している“心配”がそうさせたのか、その電話は待ちに待った電話のはずなのに、僕は何故かその着信音に得体の知れない胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
鼓動が急激に強くなる。
「…もしもし」
「シュジシュジ、今までなにやってたのよー」
恐る恐る電話に出た僕の鼓膜を、友花ちゃんの叫びにも似た泣き声が貫いた。
「…どうした?」
「優和が…、…優和が死んじゃった…」
えっ。
ヒックヒックを繰り返し、泣きながら話す友花ちゃんのその言葉に、身体中の血流が止まった。同時に冷たい衝撃が全身を駆け抜ける。
なに言ってんだ? 友花ちゃんは…。
「今、病院にいるんだけど…」
…嘘だ。なにかの間違いに決まってる。…夢? そうだ夢だ。何処か遠い世界の絵空事。そう、フィクションなんだ。自分に起きてるんじゃない、誰か別の人のこと…。他人事なんだ。
あまりにも大きな現実。あまりに大きすぎて受け止めきれない。僕の意識は混乱の世界へと迷い込んでいった。“現実逃避”。しかし、友花ちゃんの「優和が死んじゃった」の声は、そんな僕の全身に木霊し続け、決して僕を現実から逃がしてはくれなかった。
「…お願い、早く来てぇ」
これが友花ちゃんの限界だった。絞り出すような声を最後に、電話の向こうで泣き崩れるのが分かった。
僕はそのまま呆然と、一点を見据えていた。
早く…、早く行かないと…。
我に返ると、僕は取り急ぎ優和のもとに駆け付けようと車へ急いだ。
既に僕の頭の中からは、プレゼンのことはおろか、明日からのことさえも消えていた。
階段を駆け下りる。エレベーターは使わなかった。しかし、それでも駐車場までの時間がはがゆい。 永遠に続くのでは? とさえ思わせる。
痛っ。
段を踏み外し、踊り場の壁に激突。痛みよりも、もたつく自分への苛立ちが勝る。
早く…。
早く…。
急がないと…。
階段を走り抜けると、僕はやっとの思いで車に駆け寄った。
「修司、大丈夫だよ。ちゃんと待っていられるから」
「…優和?」
車のドアノブに手を掛けたその刹那、優和の声が僕の足を止めた。
「………」
振り返っても、そこには誰もいなかった。
脱力感が襲う。気力の消失。そして、思考と行動が停止した。
…約束したばかりじゃないか…。
…これ、やっとできたのに…。
「俺さ、覚えてたみたいなんだ。あの時の優和の声」
「どうしたの? 急に」
「ほら、バスで優和に席を譲った時の優和のお礼」
「確か―、『ありがとう』だったよね」
「うん」
「でも、その一言だけだったし、そんな印象的な言葉でもなかったでしょ?」
「うん。でも覚えてたみたいなんだ。自分でも気が付かないうちにさ」
「俺さ、前にバスの中で優和の顔見てないって言ったじゃん。でも本当は見たのかもしれない。で、優和のこと好きになったのかも。ただあの頃は、そんな気持ちになれるような状況じゃなかったから、すぐに忘れてしまったんだろうけど」
「あの頃、修司、大変だったって言ってたもんね」
「うん。ただ、それでもその時の思いは自分の何処かにちゃんと潜んでたんだよ、きっと。だって、ルージュで初めて優和に会った時、優和の声にすっごく魅かれたんだもん。優和の声が俺の好きな声だったんだ」
「ねぇ、それってもしかして、修司も私のこと探してたってこと?」
「んー、今思えば、そうも言えるけど、正直、分かんない。でも、『なんでこんなに優和に似た声に魅かれるんだろう。いつからそうなったんだろう』って、ずっと気にはなってた」
「じゃあ、やっぱりそうだよ。あー、なんか嬉しいかも。―でも、なんで今頃?」
「分かんない。ふと、そう感じたんだ」
「なるほど」
「あっ、ねぇねぇ。そういえば、もうじき山開きだね」
「って、話変わったし」
「いいのいいの。修司も私と同じだったってことが分かったから」
「ま、いいけどさ。で、山開きって?」
「ふ、じ、さ、ん」
「あー、そうかぁ、もうそんな季節かぁ。いいよ、登ろう。前からの約束だったもんな」
「やったー。じゃあ、じゃあ、七月二十日に登ろ? 修司の誕生日に」
「いいけど、なんでわざわざ俺の誕生日なの?」
「それはぁ、頂上でプレゼントをあげたいから」
「そっかぁ。でも、それって随分と手が込んでない?」
「まあねぇ。で、プレゼントなにがいい?」
「べつになんでもいいよ」
「えー、リクエストないの?」
「え、あぁ、じゃぁ…、CD…かな。オムニバスの。確か来月発売のはずなんだけど」
「分かった。オムニバスCDね。じゃぁ、頂上に着いたらプレゼントするから楽しみに待っててね」
「うん」
本当は気持ちだけでなにもいらなかったのだが、僕は自分で買うつもりだったオムニバスCDをリクエストした。
「なぁ、今度の休みに会わないか?」
「んー、会いたいけど、七月二十日まで我慢する。今、修司にとって大事な時だから。それに、その方が楽しみも倍増するし」
ちょうど僕が社運のかかった? 大きなプロジェクトのプレゼンを任されて、その準備に奔走していた時だったので、優和は気を遣ったようだ。
「そうか。じゃぁ、七月二十日まで楽しみに待つか」
「うん、お願い」
六月二十一日。毎日のように雨の降る日が続き、誰もが梅雨明けをいつかいつかと待ち侘びる頃、僕達は約束した。
今でも昨日のことのように甦る。
そしてこの後、僕はある一つの決意を、この七月二十日に贈ろうと決めた。
優和の薬指にこれをはめる。と…。
なのに…。
「なんで…。」
僕は、たった今、帰宅途中に買ってきたばかりのリングを握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。
駐車場のアスファルトが濡れた。
僕はそれでもまだ、実感がなかった。それはおそらく、僕がまだなにも目にしていないことを理由に、僕自身がこの現実を認めようとしなかったからかもしれない。
改札を抜けると、既に友花ちゃんは待っていた。優和の実家を知らない僕を、僕の到着時間に合わせて駅まで迎えに来てくれていたのだ。
友花ちゃんは、遠目からでもはっきりと分かるほどに真っ赤に腫らした目で僕を見付けると、人目も憚らず大きく手を振った。
僕は友花ちゃんのもとへと走った。
「シュジシュジ…」
僕の顔を見るや否や、友花ちゃんの真っ赤に腫らした目から、涙が溢れ落ちた。
そんな友花ちゃんの姿を見て、僕は言葉に詰まった。掛ける言葉がなかった。そしてその光景は、僕の胸に重苦しく鋭利で冷たいなにかを駆け巡らせ、今は触れたくない言葉を導いた。
…現実。
優和の言うとおりに無事プレゼンを済ませてから来た僕は、その道のりがもどかしかった。あの電話から、もう二日が経っていたのだ。
友花ちゃんの話によると、優和は僕にプレゼントするためのCDを買いに行った帰りに、事故にあったということだった。
「…CDなんか、…頼まなければよかったな」
「そんなに自分を責めないで。…優和が悲しむから」
ハンドルを握る友花ちゃんの横顔は、切ないほどに優しかった。
優和の実家では、通夜の準備で葬儀屋が忙しく動いていた。
僕は友花ちゃんに連れられて、二階にある優和の部屋へと通されると、部屋では優和の母親と妹が優和に付き添っていた。
その横で、優和は自分のベッドに眠っていた。寒いまでに冷え切った部屋の、一番奥まった木洩れ日の射すベッドの上で。
ゆわ…。
現実。
優和の部屋に入るのはこれが初めてだった。あの頃も僕は、一人住まいの優和の部屋を訪れたことは一度もない。そもそも女性の部屋に入ったことのない僕には、ここはまさに未知なる場所だったが、まさか初めての入室がこの時とは思いもしなかった。
部屋は親しみ馴染んだいい匂いがしていた。僕を一瞬でもこの現実から忘れさせ、癒してくれる優和の香りが、ここにはまだ生きていた。
「あなたが修司さんですね。娘がお世話になりました」
「いえ、僕はなにも…」
「いつも娘が修司さんのこと話してたんですよ。…会ってあげてください」
優和の母親は、優和によく似た微笑みを見せると、優和の顔を覆っていた白い布をそっと捲った。
「優和、修司さんよ。よかったねぇ、会いに来てくれたよ」
薄化粧のその顔は、まるで眠れる森の美女のようだった。
心の何処かで、それでも足掻いていた僕の否定は、完全に崩壊した。現実が現実として真実を僕に見せる。現実が真実となって僕を押し潰した瞬間だった。
僕は優和の頬に手を添えた。
「…優和、…遅くなって…ごめんな」
「わっ、シュジのほっぺ、冷たーい」
「ね、私は?」
「すっごく冷たい」
「って、アメあるの分かるぞ。ホラ」
「へへへ」
「こんなに冷たくなっちゃって、あれ着ければ?」
「だってあれ、格好悪いんだもん。でも、どうしても我慢できなくなったら着けるね」
「霜焼けになっちゃうぞ」
「大丈夫。そしたらこうやって温めてもらうから」
「…こんなに…、…こんなに冷たくなっちゃって…、…スキーの時みたいじゃん」
「…待っててくれたんだね、…ありがとう」
僕は優和の唇に、唇を重ねた。
「…綺麗だよ。…とっても」
涙で、それ以上言葉が出なかった。
僕は富士山の頂上ではめるつもりだったリングを、冷たくなった優和の左の薬指にそっと飾ると、ただ涙で歪む優和の頬を撫でるばかりになった。
「…あの、修司さん、これ」
「あと…、これも」
妹さんから、CDとメッセージカードを手渡された。
メッセージカードには、決してバランスのいいとは言えない文字が綴られていた。しかしそれらは、僕にとって世界で一番大好きで、一番大切な文字だった。
修司、疲れていませんか?
空は青いですか?
私は修司がそばにいてくれたから大丈夫だったけど、
ここまで私を連れてくるのは大変だったでしょ?
修司、一緒に登ってくれて、ありがとう。
そして、誰よりも誰よりも大好きな修司、
お誕生日おめでとう。
優和
「…お姉ちゃん、修司さんと一緒に登るの、楽しみにしてました」
僕は優和の穏やかな寝顔に、子供のようにワンワン泣いた。
遺影の中の優和は満面の笑顔だった。それは僕と優和の机の上にいる微笑みと同じものだった。
「これって…」
「優和の机にあったでしょ」
「うん」
「シュジシュジが、『優和に』って、私に送った写真。ご両親がね、…一番いい笑顔だって…、…優和が…、…優和が一番大切にしてたって」
遺影を見詰める友花ちゃんは、涙だらけの顔になっていた。
「…渡してくれてたんだ」
「…うん」
遺影を前に、僕はくしゃくしゃの顔になって蹲った。
ピンポーン。
「はい」
「優和だよ」
え?
それは紛れもない優和の声だった。
なん…で?
だって優和はもう…。
「修司?」
「あ、うん。今開ける」
様々な矛盾と混乱はあるものの、僕は玄関へと急いだ。
ドアの覗き穴には、こっちに向かってニコニコ顔でピースをしている優和がいた。
「優和、…どうしたんだ?」
「えへへ、会いに来ちゃった」
会いに来た?
「ちょっとね、近くまで来たから」
近くまで来た?
「ちょっ…、優和、目…」
僕は優和を指差した。
「あぁ、そうなの。治っちゃったみたいなの」
僕を見る優和の視線は、あきらかに自分の意思で僕を見ている。
「…そうなんだ。よかったじゃん」
「まあね」
そんなわけない。
「あ、ここじゃなんだから、中に―」
「ごめん…。入れないんだ、…私」
優和は表情を曇らせると俯いた。
「…どうして」
「…行かなきゃならないの」
「行くって何処に」
「…ごめん」
一つ、二つ、三つと、優和の足元を涙が濡らしていく。
「…ごめんね、修司。私…、約束守れなくなっちゃったよ」
僕を見上げた優和の頬を、大粒の涙が幾重にも伝った。
「やっと…会えたのにな」
優和はそう呟くと、肩を震わせながら僕の胸に顔を埋めた。
僕の胸が濡れていく。
「修司、ごめんね。本当にごめんね」
「…なんで、こんなことになっちゃったのかな、…私」
「がんばったんだけど…、…だめだった」
「優和」
僕は力一杯、優和を抱きしめた。
優和の白いブラウスが濡れた。
あの日、七月十日。それは僕が日帰り出張の、帰りの便のシートにいる時に起きていた。
病院に運び込まれた時には、既に心肺停止状態。なんとか蘇生するも、容体の急変。
僕の知らないところで、こんなに大変なことが起きているとも知らず、僕は携帯の電源を入れ忘れたまま、のんきに優和との“日課”を楽しむべく、家路を急いでいた。おまけにいつもはセットしていく留守電も、この日に限って忘れ、そのことに気付いたのは帰宅後だった。
僕はいつもそうなのだ。肝心な時には、こんな大変な時でさえ、こうなるのだ。
七月十三日、告別式。会社を辞め、連絡の取れなくなっていた市川を除く僕達四人は、優和の家族のご厚意で、火葬の場に立ち会うことができた。
白い煙が青のキャンパスに一筋の道を描く。その道はやがて青に溶け込んでしまい、その行き着く場所は見えない。生きとし生けるものには見ることのできない道の先。優和は今、その道の先へと辿り着こうとしている。
「中山ああぁ。いつまでも泣いてんじゃねえ。優和が悲しむだろうが。しっかりしろ。」
保坂が僕を殴ったのは、知り合って以来、これが初めてのことだった。
灰になった優和の骨を前にすると、すすり泣く声が何処からともなく聞こえてきた。しかし、僕に涙はなかった。頬に残る痛みが、今にも崩れ落ちそうな僕の心を支えてくれていたから。
僕は友花ちゃんと共に、真っ白な優和のかけらを納めた。
青い空、入道雲、蝉時雨、黒いまでの濃い緑。見る人が見れば、おそらくなんでもない日常に映るのだろう。でも、僕はこの日常を決して忘れない。
「ありがとう、修司。…もう大丈夫」
僕の腕の中で、優和はまだ涙の跡の残る笑みを向けた。
「お誕生日おめでとう、修司」
優しい声と、笑顔。
「誕生日?」
「…そっか、今日だった」
「忘れてたの?」
「…うん」
「ごめんね。私がこんなことにならなかったら…」
「そんなこと…、…そんなことないよ」
優和の「ごめんなさい」の眼差しが痛い。
「あ、ほら、俺ってバカだからさ―」
「ほんとに、ありがとう」
優和が再び僕の胸に顔を埋めた。
「…言えて…よかったぁ」
その時、優和から重みが消えた。
「あっ…。修司、どうしよう。時間が来ちゃった」
今にも泣き出しそうな優和の顔が、見る見るうちに薄れていく。
「早いよ、優和」
「修司?」
「ん?」
「私、ちゃんと待っていられたよね」
「ああ」
「指輪ありがとう。来てくれて、とっても嬉しかったよ」
「ああ」
「あっ」
突然優和がなにかに戸惑った。
「…ごめん、修司。私もう、修司の顔、見えなくなっちゃった。修司の声、聞こえなくなっちゃったよ」
涙だらけの顔が、はにかんだ笑みを見せる。
「優和?」
「修司、私ね、修司に出会えてよかったよ。とても幸せだった」
「今までありがとうね、修司。ずっと、好きでいてくれてありがとう」
「最後に修司の声聞けてよかった。修司の顔見れて嬉しかったよ」
「私、忘れないよ。修司の声も顔も、修司のこと全部」
優和が消えていく。
「優和」
「修司、ありがとうね」
「優和」
「ほんとにほんとに、ありが―」
「優和ああぁぁぁ」
優和は残された時間を懸命に話し続けた。僕はそんな優和を前に、ただ頷いてあげることしかできなかった。
優和は消えた。
―夢?
眩っ…。
カーテンの隙間から、陽の光が射していた。
「これからお休みになる方も、そしてお目覚めの方も、時刻は四時になりました。七月二十日―」
点けっ放しのテレビが言う。
僕はテーブルから身を起こした。
朝だった。
「…そうかぁ、今日は誕生日だ」
富士山頂。
夏の賑わいに満ちたここは、久須志神社、浅間大社奥の宮付近では、まるで初詣や縁日などの雑踏を彷彿させる。街に例えるなら、夏の旧軽井沢といったところか? いや、それもちょっと違うか。とにかく、ここには街ができている。
来る波と行く波、時折それらの波に逆らい、立ち往生する波達が入り乱れる。この波から外れた所では、思い思いに時を過ごす、流れを止めた波がある。休む者、山麓を見下ろす者と、様々だ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ―。
「ふぅ」
ここまで必死で登ってきたとはいえ、自分でも驚くほどのハイペースに、よく高山病にならなかったものだと我ながら感心する。しかしさすがに疲れを誤魔化すことも困難になり、僕もこの辺で一休みしようと、そんな波達の仲間になることにした。
帽子を脱ぎ、首に巻いたタオルで顔の汗を拭うと、ペットボトルの水で喉を潤した。
空は高く、夏の陽射しが肌を刺す。一面に広がる大地が深い青を彩り、その向こうに見えるモノクロの海面がキラキラと無数の輝きを放つ。
そういえば、子供の頃に登った時も、確かこの辺りで休んだような気がする。
確かあの時―。
あの時、僕は一つのある体験をした。といっても、不思議などの類ではなく、半径二メートル以内に三人の“シュウジ”がいたというものなのだが。しかし、こんなことは都会でも滅多にないんじゃないかと考えると、やはりあの体験は奇跡だったと思う。ただ、今でも分からないのは、この時一緒にいた若い女性が、坊主頭のシュウジを“さん”で呼び、金髪のシュウジを“くん”と呼んでいたことに疑問を感じたことだ。坊主頭のシュウジさんが、たんにその女性より年上で、金髪のシュウジくんが年下だっただけと考えれば、特になんの問題もないことなのに、何故か未だに吹っ切れないでいる。おそらくなにかが引っ掛かっているようなのだ。
大学生の時には、友達と気象庁・富士山頂測候所から雲海を見たことがある。測候所の表階段を上がると細い通路があり、その通路を進むと船の舳先のように突き出た所に出る。人一人しか立つスペースのないそこからは、一面の雲海が眺められた。驚くほどの強風と、真下にまで押し寄せている雲に身震いしたが、慣れてくると、まるで空の中にいるようで心地よかった。まだ、レーダードームがあり、測候所が測候所として機能していた頃のことだ。
それがいいことだったのか、いけなかったことだったのか―。おそらくあの場所は立ち入り禁止だったんだと思う。しかし当時の僕はそんなことなど考えもせず、その場所に立った。
そんな昔のことを思い出すと、僕はここに一人でいることに悲しくなった。この山へは、家族だったり、友達だったり、必ず誰かと一緒だったからだ。そして、今回も…。
本当はとっても楽しいはずだったのに…。
ときおり吹く風が、そんな僕の心を癒してくれているように思えた。
奥の宮と測候所跡の間にある長い上り坂、通称“馬の背”はきつかった。ただでさえ急斜面で、少し歩いただけでも呼吸が乱れて苦しいのに、しっかりと踏ん張りながら一歩を出さないと、ズルズルと滑りだしてしまうからだ。僕の斜め前を登っていた人は、四つん這いのまま後方へと下がっていった。こんな光景を何度も目撃しながら、僕もまた、二度三度とその光景の一部になった。
右往左往しながらどうにか剣が峰に辿り着くと、測候所前の剣が峰の石碑の周りにも小さな街ができていた。誰も考えることは同じのようで、記念写真の街が。
僕はこの街を避け、少し離れた比較的人道りの少ない場所に腰を下ろした。
何処でも一様に疲労の顔で溢れてはいたが、どの顔も達成感や充実感で一杯のいい顔だった。みんないい顔をしていた。
ハァ…。
優和、君と登るはずだった僕は、今、どんな顔をしているんだろう…。
「修司、大丈夫だよ」
ふと、風の音と共に優和の声が聞こえたような気がした。
「そうか、…ありがとう」
ここは優和が僕と二人で訪れたかった場所。僕の隣に優和がいるはずだった場所。それは昨日でも明日でも意味がない、今日だからこそ意味を成す場所。
僕はCDプレーヤーを取り出し、プレイボタンを押した。
優和と一緒に聴こうと思っていたオムニバスCDのイントロが、右耳だけに当てたヘッドホンから流れてくると、涙がこぼれた。
柔らかい風はそんな僕を優しく包み込み、頬を撫でてくれているようだった。
「…ありがとう」
昔、誰かに聞いた言葉。“人間は忘れる動物”。
その人は言った。「人が忘れるのはね、もともとは、大切な人を失った悲しみから、早く立ち直れるようにと、神様が授けて下さった能力だったんだ。そしてそれは、人が生きていく上で必要なものになった。だから人はいつしか忘れていくんだよ。」と。
でも、それは違うと思う。僕が記憶する優和の顔も声も、時間と共に歪められ、朧気な記憶へと風化することの方が、僕には耐えられないから。
我が儘で、淋しがり屋のくせに強がりで…。僕はいつもそんな君に振り回されていたような気がする。でも、そんな君の全てを許せたし、大好きだった。この思いは今も変わらないし、これからだってずっと変わらない。
七月二十日、僕の誕生日。一緒に登ることはできなかったけど、僕は来た。
優和、君に会いたくて…。
優和、そちらはどうですか?
空はとっても青いです。
優和の言うとおりでした。確かに山頂は暑いですね。
YOU ―君に会いたくて―
なんの変哲もない毎日。よく、「会社と自宅との往復の毎日さ」と嘆く人がいる。僕は嘆きはしないものの、僕もまた、そんな毎日の中にいる。最近では趣味や習い事などに自分の時間を有意義に使う人も多くなったというのに、僕はというと、なにをするにも楽しくはなく、ただ生きているだけの毎日だった。
初めの頃は何度か合コンにも参加したことはあった。しかし、参加した女性に興味が持てず、その場を無難にやり過ごすばかりで、結局虚しさだけを残した。だから今では同僚に誘われても気乗りがせず、一人、帰宅するといった有り様だ。そしてそれは合コンに限らず、飲みに誘われても同様だったから、きっと付き合いの悪い奴だと思われているに違いない。
少しは身体のことを考えて自炊を始めてみたりもしたが、やはり三日坊主で終わる始末。休日も食事に行くかコンビニに行く他は外出することも殆どなく、ごくたまに行くのが本屋とレンタルビデオ屋。
保坂達とも連絡を取ることはない。僕が今のアドレスを教えていないから、おそらく何処にいるのかさえ知らないはずだ。
早いもので、こんな生活がもう七年になる。三十三歳になった僕の唯一の楽しみといえば、今では自宅で飲む一本の缶ビールとテレビ鑑賞といったところだ。
孤独な毎日、退屈な毎日かもしれないが、あの日以来ずっと時間が止まったままの今の僕にはそれでよかった。
あの頃、僕が永遠に続くと錯覚した優和との時間、そばにいることがまるで当たり前のように感じていた日常が、今ではかけがえのない思い出の時間として僕の中に生き続けている。
僕はまだ、優和を引きずっている。
そんなんじゃ駄目なことは十分分かっている。本当は手段もある。ただ、怖いのだ。行動に起こすのが怖いのだ。僕にはそんな勇気はない。
なにもせず、ただ思い続けるだけの僕は、ようするに現実逃避をしたいだけなのだ。
ホームページを開設したのは、そんな心境を少しでも変えるためだったが、終わりまで書き揚げたものの、逆に悪化させたようだ。だから最近ではパソコンの上でホコリが幅を利かせている。
携帯は仕事関係で自宅にいても鳴ることはあるが、滅多に鳴らないホーム電話が鳴った。
それにしても、同じ電子音なのに古さを感じるのは何故なんだろう。
この時間にこの電話へかけてくるのは母親くらいなもので、それ以外でこの電話が鳴るのはファックスの時くらいだった。
しばらく鳴っている。どうやらファックスではないようだ。
「はい」
「もしもし、シュジ? 優和だよ、久し振り、元気だった? 携帯でもよかったんだけど、お母さんがこの時間なら家にいるだろうって言うから、こっちにしてみたんだけど、どうだった?」
えっ?
「お、おぉ、久し振り。どうって、優和だったから驚いたよ」
「サプライズよ、サプライズ」
「でも、よくこの電話番号分かったね」
「お母さんに教えてもらったの」
「なぁ、お母さんって、おふくろ?」
「そうだよ。前に教えてくれたでしょ、実家の電話番号」
「覚えてたんだ。それにしても、よく教えてもらえたね」
「凄いでしょー」
「うん。でも、どうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょ、七年も音沙汰なくって」
「私ね、福岡に行ってからも何度もシュジに電話したんだよ。でも、どこをほっつき歩いてたんだか、シュジったら自宅にいないんだもん。留守電くらいセットしておいてよ。会社に電話しようとも思ったんだけど、迷惑になっちゃ悪いでしょ、だから会社には電話しなかったの。それで、しばらくたって電話したら、『この電話は現在使われておりません』だって。もう、ビックリだよ。シュジ、私が福岡に行った年の五月には、もう会社辞めちゃってたんだね。真ちゃんが教えてくれたんだけど、真ちゃんも、『営業成績が伸びなくて落ち込んでたから、成績が落ちてるわけじゃないんだから気にするなって励ましてたんだけど、四月に入ってからは全然覇気もなくなって、成績も落ち込んだから心配してたら、五月に入って何日かしたら突然辞めちゃったんだよ』って、それ以上のことは知らなくて、私、凄く心配してたんだよ。みんなも、『どうしたんだろう』って、心配してたんだから。もう、会社に電話しちゃえばよかったな」
「ごめんな。実は何カ月も前から成績が伸びなくって、所長から、『今後のことを考えておけ』とか『代わりは幾らでもいる』とか言われてたんだ。所長とは以前から反りが合わなかったから、ようは肩叩きにあったんだな。リストラの対象だったんだ。でも、それでもなんとか成績を伸ばそうと頑張ってたんだけど、四月に優和が福岡に行ってからは、そんな気力も失せちゃって、五月に入って辞表を出したんだ」
「優和から電話が来てたことは、保坂から聞いて本当は知ってたんだけど、残業やらヤケ酒やらで毎日荒れててさ、優和に電話するにしても、なにを話していいのか分からなくて電話できなかったんだ」
「会社を辞めてから、何度か福岡に行こうとも思ったんだけど、どんな顔をして会えばいいのか分かんなくって、それもできなかった」
「バカだなぁ、そんな時こそ電話してよ。会いに来てよ」
「んー、でも…、心配かけたくなかったし、そんな自分を見せたくなかったから」
「そうか…。でも、私には見せてほしかったな。結局は心配しちゃったことだし」
「そうだね、ごめん」
「私ね、シュジが会社辞めたって聞いて、もしかしたら実家に帰ってるんじゃないかと思って、勇気を出して、すぐにシュジの実家に電話したの。そしたら、お母さん、『えっ』て驚いてた。シュジ、お母さんにも辞めたこと言わなかったんだね」
「うん。辞めた理由が理由だし、誰にも相談せずに辞めちゃったから、絶対心配すると思ってさ。次の就職先も決まってなかったし」
「だめだよ、理由はどうであれ、とりあえずでも親にはちゃんと話さないと。その時のお母さん、突然のことで、『どうしよう、どうしよう』って、大変だったんだから」
「私だって状況がよく分からなかったから、質問されても答えられないし、ただでさえ緊張しながら電話したのに、ますます緊張しちゃったじゃない。もう、ドキドキだったんだから」
「そうか、ごめんな」
「でもね、それから何度か電話してたら、そのうち連絡を取り合うようになってね、今では仲よくなっちゃった」
「ほんとに?」
「シュジ、結局お母さんに半年以上も電話しなかったでしょ。『就職したから』って、電話しても、七年もアドレスは教えなかったもんね」
「うん、まぁ。あ、でも、実家にはちゃんと帰ってたよ」
「知ってるよ。お母さん、教えてくれたもん」
「ちょ、ちょっと待って。いったいおふくろ、何処まで優和に話したんだ?」
「えーとねぇ、鉄棒から落ちて骨を折ったことでしょ、喧嘩して泣いて帰ってきたこと」
「あっ、そうそう、あとねー」
優和が笑う。
「三年生までオネショしてたこととか」
「えー、おふくろ、そんなことまで話したんだ」
「そうよ。他にも、子供の頃から大人になるまでのシュジのこと、いっぱい聞いちゃった」
「でね、お母さん、『子供の頃はあんな子じゃなかったのにねぇ。親思いの優しい、いい子だったのよ。お友達の家に遊びに行くとね、いつも、「はい、お土産」って言って、お友達の家で出されたお菓子を一つも食べないで、ティッシュに繰るんでもらって帰ってきてたの。初めて遊びに行ったお友達のお母さんから、心配して電話がかかってくるくらいだったのよ。きっと自分一人がいい思いをするのが嫌だったのね。私にも食べさせたかったみたい。帰ってくるとね、私と一緒にパクパク食べてたもの』って言ってた」
「そんなこと言ってた? ほんと凄いな、よくそこまで…」
「まあね」
「だけどおふくろ、優和のことは一度も言ったことなかったなぁ」
「サプライズよ、サプライズ。内緒にしてもらったの。シュジのアドレスが分かったら、電話して驚かせたいからって。どお、驚いた?」
「うん。凄く」
「でしょー」
「あっ、そうそう、シュジ、ホームページ見たよ。“YOU ―君に会いたくて―”ってやつ。まさかシュジがホームページ持ってるなんてビックリだよ」
「よく見付けたね」
「偶然見付けたの。“雪乃 静の部屋”って。前に言ってたでしょ、『雪乃 静って、綺麗な名前だと思わない?』って。だから初めは、へぇー、シュジみたいな人って他にもいるんだぁって思ったんだけど、読んでみると、ルージュとかDONDONとか遊園地とか、えーとそれから、あ、そうそう、スキーとかクリスマス・イブのこととか、私の知ってることばかりだったじゃない。だから、これって絶対シュジだーって、徹夜で読んだの」
「ねぇねぇ、あのクリスマス・イブのことって、私が福岡に行く前の年のだよね」
「そうだよ」
「だよね。あー、なんか読んでて、すっごい懐かしかったなー。でも、クリスマスのパーティーは、あれが最初で最後になっちゃったけど」
「うん」
「…あの時の海ね、本当は私も穏やかでとても優しい時間に包まれてたんだよ」
「え?」
「あ、んーん、なんでもない」
「それにしても、シュジ、よく覚えてたね。初めてルージュに来た時のこととか、DONDONでのこととか。私、忘れちゃってると思ってた」
「忘れるわけないじゃん」
「そっか」
「あ、そういえばシュジ、あの時の写真、まだ持ってる?」
「いつの?」
「遊園地で撮った集合写真。」
「あー、あれ。持ってる」
「あの写真、何度見ても笑えるよね。私ね、今でもあの写真見ると笑っちゃうんだぁ」
「俺としては今も昔も笑えないけどな」
「ハハハ、そうだよね。シュジ、あの時困惑してたもん」
「見てたの?」
「うん。まさかそのまま写ってるとは思わなかったけど」
確かに写真の中の僕は、誰もが笑ってしまいそうな奇妙な笑顔を振り撒いていた。
「でもほんとはね、私、実はあの時シュジが手を握り返してくれるの待ってたんだぁ」
「ごめんな。俺、あの時テンパっちゃってたから…。って、握ってよかったの?」
「当たり前じゃん」
「なんだ、そうだったのかぁ」
「そうだ、それとさぁ、私、いちご狩りの時、そんなに懸命に食べてた?」
「うん、凄く一生懸命だった」
「うーん、一生懸命だったかぁ。ちょっぴり恥ずかしいけど、まっ、いっか」
「そうそう、それからね、友花に聞いたんだけど、おばあちゃんの店、まだあるんだって。おばあちゃんも元気なんだって。また食べに行きたいね」
「そうだね。でも俺達のこと、覚えてるかな」
「覚えてるよ、きっと」
「そうか?」
「じゃあ、今度食べに行こうよ。そしたら分かるじゃない」
「そうだね」
「で、話を戻すけど、それですぐ、お母さんに電話してホームページのこと話したの。そしたらお母さん、次の日にパソコン買っちゃったんだって、凄いよね。さすが母親って感じだよねー」
優和は、意外と忙しく話す娘なのだ。
「機械音痴なのによく買ったな」
「一生懸命使い方覚えたって」
「へー。でもそんなこと俺には言わなかったぞ」
「だって内緒だもん」
「でね、お母さん、怒ってた」
「え、なんで」
「『まったくあの子ったら、親に電話番号も教えないくせに、こんなものは書いてるんだから』だって」
「そうかぁ。最近だらなぁ、教えたの」
「ほんと、最近だよねー。『修司から電話番号聞いたよ』って、お母さんから電話がかかってきたの二週間前だもん」
「それがさ、就職したての頃は、こんなに長く続くとは思わなかったから、とりあえず三、四年勤めることを目標にして、それで自信が付いたら教えようと思ってたんだけど、いつの間にか、目標にしてた年数も過ぎてて、結局、係長に昇進したのをきっかけに電話したんだ」
「えっ、ちょっと待って、係長って…。えー、凄いじゃん。うわー、おめでとー」
「ありがとう」
「でも、お母さん、なにも言ってなかったなぁ」
「教えてないもん」
「なんで? こんなにおめでたいことなのに。教えてあげなよ、お母さん喜ぶよ」
「いいよ、照れ臭いし」
「だーめ。明日とは言わないから、絶対に早い時期に教えてあげて」
「う、うん。じゃぁ…、そのうちね」
「そのうち? うーん。まっ、いっか、それで。でも、約束だからね」
「わ、分かった」
「そ、そんなことより、どうだった? “YOU”は」
「そんなこと? そんなことって、あのねー」
「い、いや、その…、ご、ごめん」
「もぉ。ま、いっか。うーん、そうだなぁ…、面白かったけど、まあまあだったかな」
「まあまあ?」
「だって、ベタなんだもん」
「やっぱり」
「ねぇ、シュジ。私達って、遊び友達だったの?」
「え? そうじゃないの? …俺はそう思ってたけど」
「そうかぁ…」
「なんで?」
「ううん、ちょっと訊いてみただけ」
「それよりさぁ、なんで私、目が見えなくなっちゃうの? そのうえ死んじゃうんだよね、ちょっと複雑だったな」
「まぁ、小説だし、フィクションだから、べつにいいんだけどね」
「ごめんな。本当はあんなストーリーにするつもりじゃなかったんだ」
「俺、リストラにあって東京に来たわけだけど、東京に来ても、いつまでもあの頃のことを引きずってたから、去年、“YOU”を書くことであの頃のことを忘れて、自分の気持ちにけじめをつけようと思ったんだ。でも、書けば書くほど思い出しちゃって…。そしたら、あんなとんでもないフィクションを作り出しちゃってたんだ」
「結局、それでも駄目で…。情けないけど、やっぱり俺には忘れられなくてさ。だから今では、なにも無理に忘れることもないかなぁって、思うようになったんだ」
「優和が死んじゃうのも、目が見えなくなるのも、俺自身の生活や気持ちを表したつもりだったんだけど…。ほんと、ひどいよな。ごめん」
「んーん。…そんなに重い気持ちで書いたなんて知らなかった。ベタなんて言って、ごめんね」
「おいおい、そんなにしんみりするなって。ある意味、自分自身に答えは出せたんだから。そのおかげかどうか分らないけど、係長にもなれたんだしさ」
「それに、サプライズでこうして優和とも話せたし。だからね、“YOU”はベタでいいんだよ」
「ありがとう、シュジ。なんか私、そのことを聞いたら、もう一度読みたくなっちゃったな。また別の気持ちでも読めると思うし」
「そうだ、今度一緒に読まない?」
「そうだね。じゃぁ、今度な」
「うん」
「で、他に質問は?」
「うーん…。あ、そうだ。じゃあ、なんで富士山なの?」
「んー、特に深い意味はないんだ。ただ、富士山は好きな山だから、特別出演のつもりなんだけど、実はこの後、色々ある予定だったんだ」
「どんな?」
「それは内緒。でもそのうち分かると思うよ」
「じゃぁ、楽しみにしてるね」
「おう」
「シュジは登ったことあるの? 富士山」
「あるよ。小学生の時と中学の時。あと大学の時も」
「いいなー、三回も登ってるんだぁ。私も登ってみたいな」
「優和は登ったことないんだっけ?」
「うん、一度も。五合目までなら車で行ったことはあるんだけど」
「五合目までなら、俺も数え切れないほど行ったな。俺も車でだけどね」
「本当に好きなんだね」
「まぁね」
「そうかぁ、優和は登ったことないのかぁ…」
「うん」
「じゃあさ、今度登りに行こう」
「ほんとー?」
「ああ」
「絶対だよ、約束だからね」
「ああ、約束な」
「やったー」
「あぁ、なんか待ち遠しくなっちゃった。富士山かぁ、早く登りたいなぁ」
「でも、あんな近くにいて、一度も登ったことがないなんてな」
「案外そんなもんよ、近くに住んでると」
「ふぅーん、なるほどね」
「あ、そうだ。そういえばさぁ、よく私が平沼のバス停にいたの知ってたね。もしかして覚えてた?」
「覚えてたって、どういうこと?」
「やっぱりかぁ。私ね、平沼のバス停に毎朝いたんだよ。毎朝、シュジに会ってたの」
「ほんとに?」
「うん。でも道を挟んでなんだけどね。ほら、“原駅行き”って向かいのバス停だから」
「本当はそうなんだよな」
「シュジ、誰とも話さないで、ただジーっと前を見てたでしょ。それまでは全然動かないのに、バスが来ると眼だけが動くんだもん。最初はなんかヤバイ人って感じだったんだけど、毎日見てたら、なんだか面白くなっちゃって」
「シュジ、あのバス停で、いつも一人だったよね」
「うん」
「もしかして友達いなかった?」
「うん。あの頃は地獄のような毎日で、精神的にも追い込まれてたから、それどころじゃなかったんだ。でも、今思うと、なんであんなにビクビクしたのか分からないんだ。もっと楽しく、上手く付き合えたと思うんだ。完全に理不尽な奴もいたけど、そうじゃない先輩の方が多かったしさ。まっ、今じゃそれもいい思い出なんだけどね」
「それって、“YOU”に書いてあった『先輩と後輩の間に存在した、理不尽ともいうべき上下関係』ってやつね。本当のことだったんだ」
「体育会系のノリってやつな」
「嫌い?」
「今は嫌いじゃないけど、べつに好きというわけでもないなぁ。ただ、当時よりは上手く付き合えると思う」
「大人になったってこと?」
「どうだろうね」
「じゃ、そういうことにしよう」
「そういうことって、どういう―」
「いいのいいの、難しく考えないで。それよかさー、私ね、バスで席は譲られなかったけど、シュジと擦れ違ったこともあるんだよ。シュジ、びわを食べようとして落としたことあったでしょう」
「…うん。あった」
「私を見ると早足で行っちゃったんだけど、覚えてる?」
「えっ、あの時の女の子は優和だったの? うん、覚えてる覚えてる。皮を剥いて、さあ、食べようと思ったら、ポロッだろ。そんでもって、コロコロ転がっちゃって参ったよ」
「あの坂道、急だもんね」
「そうなんだよ。やっと追い付いて、もったいないから泥を払って食べたら、犬を連れた女の子が笑ってて、それまでびわに夢中で女の子がいるなんて全く気が付かなかったから、恥ずかしくってさ。そうかぁ、あの時の女の子は優和だったんだぁ」
「あっ、そうか、分かったぞ」
「なにが?」
「あの朝の香りだったんだ。ルージュで香った優和の香りは。どっかで嗅いだことあるなーって思ってたんだよ。そうか擦れ違った時に嗅いだんだ」
「『何処か懐かしく、朝をイメージさせる香り』ってやつ?」
「ん、ああ、知ってるね」
「凄いでしょう。でも、なんであの時、あそこを歩いてたの? 日曜の早朝だったでしょ?」
「朝焼けの富士山を見に行ってたんだ。大学の屋上から、でっかい富士山が頭だけなんだけど、よーく見えてさ、好きでよく昼休みにパンを齧りながら眺めてたんだ。それで、朝焼けの富士山を見てみたくなって、休みの日に忍び込んだんだ。真っ赤に染まるとさぁ、いつも見ている富士山が、また違って見えるんだ。それがあまりに雄大に見えて身震いするほどだったんだ」
「ねぇ、夕焼けじゃだめだったの?」
「うん。なんとなく何処かが違うんだよな」
「ふぅぅん、なんとなくかぁ。でも、これで謎が解けた。私、なんであの時間に山から下りてきたんだろうって、ずっと謎だったんだ。しかも、びわを持ってニコニコしてたでしょ」
「ニコニコしてた? 俺」
「してたよ。なんか幸せーって感じだった」
「そうかぁ。確かにあの坂道を下りながら、途中に実ってる果物を食べるのが唯一の楽しみだったからな、あの頃は。でもそんなに? バカみたいだな、俺」
「そんなことないよ。シュジの顔見てたら、なんか私まで楽しくなったもん。あー、この人やっぱり思ったとおりの人なんだって思ったら、嬉しくなっちゃって、それであの時、思わずふいちゃったんだ」
「思ったとおりって?」
「面白い人ってこと」
「面白い? 俺が?」
「うん」
「面白くなんかないよ。臆病なだけだよ、なにに対しても俺は」
「だからそんなことないって。いつだって、ちゃんと優和のこと何気なく守ってくれてたじゃない。一緒にいて凄く感じてたんだよ」
「街で酔っ払いに絡まれた時だってそうだし、それから、えっと、えっと―」
「ほ、他には?」
「うーん…」
「えー」
「と、とにかく、今は残念ながら出てこないけど、凄く感じてたのー」
「そ、そうか。あ、ありがとうな」
「ありがとうは、私の方だよ。だからもっと自分に自信を持っていいよ」
「…うん」
「私ね、シュジが翌年度から別の校舎に移るって聞いた時、もう、あの人には会えないんだって、凄いショックだったの。だからルージュで会った時は、ほんと信じられなかった。シュジったら、俯いてばかりでなかなか優和の顔見てくれなかったけどね」
「まぁ、それはそれで、なんか懐かしかったんだけど、シュジっぽくてさ。でも、内心はどうしようって思ってたから、やっと見てくれた時は、ほんと嬉しかったんだぁ」
「そうなんだよな、どうも俺は面識のない女性を前にすると駄目なんだよなぁ。見られてると思ったら緊張しちゃってさ。だから坂道で会った時も、実はちゃんと顔を見る余裕なんてなかったんだ」
「やっぱりそうだったんだ。でも、ほんとシュジらしい」
「私ね、土曜日が来るの、すっごく楽しみだったんだよ。あの頃、よく飲んで歌ったよねぇ」
「覚えてる? 二人で一晩に百曲近く歌った時のこと」
「うん。あの時は保坂も他のお客さんもいなくて貸し切り状態だったから、調子に乗って歌いまくったんだよな」
「そうそう、ママもひとネエも呆れてたよね。でも、あれからだよ、二人のシュジを見る目が変わったの。朝起きたら、『修司君って、本当はああいう人だったんだぁ』って、ママ、驚いてた」
「ハハハ、あの時はなんか吹っ切れたんだよな、なにかが」
「確かにそんな感じだったよね。実は私もあれにはビックリしてたんだ」
「結局酔い潰れて、二人してルージュで一泊だもんな。俺もビックリだった」
「そうそう、私が起きた時にはもういなくて、ママに訊いたら、ペコペコ平謝りして大慌てで帰っていったって」
「でも、シュジの別の一面が見れて嬉しかったな」
「あー、思い出したら、また遊びに行きたくなっちゃった。今度はシュジと一緒にね」
「そうだね。―って、え、どういうこと? 遊びにって…、もしかして今もルージュに行ってるの?」
「うん、たまにね」
「最初はシュジのことでママに電話したんだけど、次第に遊びに行くようになったの。真ちゃん達にもよく会うよ」
「そっか」
「そっか、じゃないよ、ママも真ちゃんも心配してたんだから。大変だったんだよ、ママなんか電話でシュジのこと知らせた時、大喜びで」
「みんなに迷惑かけちゃったね」
「ほんとだよぉ。でも真ちゃんも友花達もみんな喜んでたから安心して」
「そうかぁ…。じゃぁ、今度時間作って会いにいかないとな」
「ルージュで?」
「そうだな」
「その時はシュジのおごり?」
「ん? ああ、まぁ、な」
「じゃぁ、またみんなでパーッと飲み明かす? シュジの昇進祝いも兼ねて」
「俺のおごりで俺の昇進祝いか?」
「そうよ」
「まぁ、それも仕方ないか」
そうなんだ、僕達の原点はあそこにあったんだ。確かに優和とはDONDONで待ち合わせて色々な場所に行った。でもそれ以上に、僕はルージュに足を向けた。それは、そこにいつも優和がいたからだ。二人きりにはなれなくても、優和との時間がそこにはあり、その時間を求めて、僕は毎週そのドアを開けた。今思えば、僕が唯一いつもは表に出さない自分を、なんの気兼ねもなく出せた場所。それがルージュだった。優和と二人きりの時も、僕はそんな自分を出したことはない。何故なら、僕にとってその時間の優和は恋人だったから。だからこんな僕でも少しは格好付けて、クールを装っていた。しかし、ルージュにいる優和は家族だった。仕事が終わって帰宅すると、いつも待っていてくれる最愛の人だった。
ルージュが僕にとって、そんな大切な場所だったなんて思ってもみなかった。
「シュジ? どうかした?」
「んーん、どうもしないよ」
「あー、なんか懐かしいな、あの頃が。話聞いてたら懐かしくなっちゃったよ。楽しかったもんな」
「でしょ。だから絶対に行こうね」
「ああ」
「ねぇねぇ、それとさぁ、私、もう一度軽井沢に行きたいな。ショッピングしたい」
「どうしたの? 急に」
「ん? んー、一応、『行こう』つながりってことなんだけど―。だめだった?」
「いいや、いろんな意味で駄目じゃないよ。じゃあ、今度行こう」
「ほんとー、約束だからね」
「ああ」
「あ、でも、やっぱり最初は平がいいな。また一緒に夜景見よ?」
「そうだね」
ここまでで、いったい僕はいくつの約束をしたんだろう。正直、覚えてない。でも、優和のために全部の約束を叶えようと思った。
「私ね、あの頃、本当は真ちゃんじゃなくて、シュジと一緒に帰りたかったんだよ、知ってた? いつか、『送っていくよ』って、一緒のタクシーに乗せてもらえるのを、タクシーのそばまで行って、見送りながらいつも待ってたんだぁ。シュジ、一度も言ってくれなかったけどね」
「そうだったんだぁ、知らなかった。ほんとは俺も一緒に帰りたいと、ずっと思ってたんだけど、保坂がいたから遠慮してたんだ。あいつ優和のこと好きだったから」
「真ちゃんだけ?」
「いや、市川もだけど」
「そうじゃなくって、シュジは?」
「えっ、ああ、まぁ。…うん。…俺もだけど」
「俺も? 俺も、なに?」
「なにって、俺も好きだったけど」
「だった? じゃぁ、今は?」
「も、もちろん、…今も」
「もう、ちゃんと言って」
「う、うん。…じゃぁ」
スー、ハー。スー、ハー。
「ん、んんん。…優和が好きだ」
成り行きとはいえ、これが僕の生まれて初めての告白となった。
「…やっと聞けた」
優和が呟いた。
「えっ、なに?」
「ごめん、独り言。なんだ、そうだったんだ。私ね、シュジのブレーキランプ五回点滅の意味、本当はそうなんじゃないのかなーって、ずっと思ってたんだけど、そっか、失敗しちゃったな」
「失敗って?」
「ううん、なんでもない」
「なんか気になるなぁ」
「気にしない気にしない」
「『気にしない』って言われてもなぁ…。まぁ、それならそれで気にしないでいるけど」
「そうそう、気にしないでいて」
「うん。じゃぁ、そうする」
「うん」
「あ、そうだ。俺、優和に訊きたいことがあったんだ」
「なーに?」
「優和はなんでルージュにいたの?」
「どうして?」
「“YOU”を書いていて、ふとそう思ったことがあったんだ」
「うーん、特に理由なんてないかなぁ。親も借金してないし―」
「まぁ、小遣い稼ぎってとこね」
「小遣い稼ぎかぁ」
「ガッカリした? ドラマチックじゃなくて」
「いや、べつにそういうことじゃなくてさ、優和がルージュにいなかったら、会えなかったわけだからさ」
「うそよ、うそ。ごめんね」
「本当はね、家の建て替えの足しにしようと思ったの。大学の校舎移転で空き部屋になっちゃうから、大家を辞めて家を建て替えようって話になって。うちって東洋荘の大家だったから」
「えーっ、優和って、東洋荘の大家さんの娘なの? 俺、東洋荘にいたんだよ。大家さんにも何度も会ってるよ」
「えー、そうなの? あっ、じゃぁ、やっぱりあの三棟の二階建ての寮棟って、東洋荘のことだったんだ。私、そうなんじゃないのかなぁとは思ってたんだけど、ほら、あの辺って、そういう寮って結構あるじゃない、だから―。なんだ、そうだったんだぁ」
「ごめん。俺、東洋荘での毎日を地獄って…」
「いいのいいの。実は私もあの寮は好きじゃなかったから」
「なんで?」
「だって、シュジの言うように異常だったじゃない、あそこの人達って。『ちわーっす、失礼します』って、朝も昼も夜も、バカみたいに大声でさ。私の部屋まで聞こえてきたんだよ、信じられる? だから、『もう、大声出さないでよ』ってムカついてたんだぁ。あんな大声はうちくらいだったから、もう近所迷惑もいいとこだったし。しかもそれが学校でもなんでしょ―」
「…ごめん。多分、俺の声も聞こえてたと思うんだけど…」
「うっ、そ、そうだった。…ごめん、シュジ」
「いや、べつにいいんだけどね。事実だから。―で?」
「で、でね、最悪だったのは、新入生歓迎コンパの時なの。もう、ただでさえうるさいったらないのに、翌日なんか、もっとひどいんだから。食堂や敷地内のあっちこっちに吐いた跡があってね、物凄くお酒臭いの。だからそのたびに日曜を返上して、ママと妹の三人で掃除して回ったんだよ。私も妹も、『うぇ、うぇ』、『ゲー、ゲー』言いながら掃除したんだから。毎年毎年、ほんといい加減にしてよって感じだったよ」
「あー、もう。思い出すだけで寒気がするよ」
「…ごめん。多分、俺もそこにいたはずなんだけど…」
「うぐぐ、そっかぁ」
「あぁぁぁ、私って、もう」
「べ、べつに気にしてないから…」
「…ほんっとにごめん、シュジ」
「う、うん…」
「…ねぇ」
「ん?」
「その時…、もしかしてシュジも、…吐いた?」
「いや、俺は吐かなかったけど」
「…なんだ、そっか」
「…シュジのだったら、べつに構わないんだけどな」
「え、なに?」
「ううん、なんでもないなんでもない」
「あっ、でも私、ルージュで働いてたんだ」
「そ、そうだね。よくトラウマになんなかったね」
「ほんとだね。ハハハ、そうだったー、そうだったー」
「あー、でもなんで会えなかったんだろ。そんな近くにいたのに」
本当に、優和は意外と忙しく話す娘なのだ。
「うーん、それは多分、普段の俺は先輩と出くわすのが嫌で部屋から出なかったし、大家さんを訪ねても、優和のいない時に訪ねたか、いても部屋にいて、俺の声に俺だと気付かなかったからじゃないかな。だってその頃は俺の声知らなかっただろ?」
「そうかぁ、残念だなー」
「でもいいじゃん、会えたんだから。結果オーライでさ」
「まぁね、そうなんだけど」
「…と、ところでさ、好きな人には会えたの?」
「うん。電話で、声だけだけどね」
「そうか、…よかったじゃん」
「うん。やっと会えるようになったから、今度、会う約束をしようと思ってるの。それでもし会えたら、告白しようって」
「…ガンバレよ。…応援してるから」
「絶対だよ。絶対に応援してね」
「あ、ああ」
「やったー。ありがとう、シュジ。よーし、じゃあ、ガンバっちゃお」
ピンポーン。
「誰か来たみたいだ。ごめんな、ちょっと待ってて」
「夜分、遅くにすみません。今度隣に引っ越してきた中村と申します。これ、つまらない物ですが…」
「ああ、これはご丁寧にどうも」
「いやぁ、それにしても奇遇ですねぇ。中村と中山、隣同士で“中”が付くなんて」
「そ、そうですねぇ。ははは」
「あ、これね、草加せんべいと狭山茶なんです。中山さんのお口に合えばいいんですが」
「いえいえ、ありがとうございます」
隣に越してきた中村という男性は、話によると埼玉の出身だという。彼はその言葉のとおり、本当に夜分にやってきた。そして、話し好きの性分なのか、初対面の相手と散々話をすると、人懐っこい笑顔を残して帰っていった。
ハァ…。
「ごめん、お待たせ」
「んーん、全然」
「なんか隣に引っ越してきたらしいんだけど、話が長くってさぁ」
「話し好きなんだね、その人」
「そうなんだよ。こっちの都合なんてお構いなしだもんな、参っちゃうよ。挙句の果てには、茶どころの人間に狭山茶だってさ。笑うよな」
「仕方ないよ。だってその人はシュジがお茶の産地の出身だなんて知らないんだから」
「まぁね」
「それに、『味は狭山で止め刺す』って言うし」
「へー、そうなんだ。初めて聞いた」
「飲んでみたら意外と美味しかったりして」
「まさか」
「『侮るなかれ』、だよ」
「そうかぁ」
「あっ、そうだ。ねえねえ、今日、誕生日だよね」
「え?」
「三十三歳、おめでとう」
「あ、ありがとう。覚えてたんだぁ」
「まーね」
「なんか早いねー。もう三十三だなんて。私も二十九になっちゃったよ。九月には三十だよ、三十。三十路だって。信じられる?」
「十日だったね」
「うん。九月十日。シュジも覚えていてくれたんだぁ」
「当たり前じゃん」
「―そうかぁ、もうそんなになるんだぁ。ほんと、早いよな」
「それでね、プレゼント渡したいんだけど、これから会わない? 伝えたいこともあるし」
「これから会わない?」の後は呟きに近く、僕はまたしても話の最後までは聞き取ることができなかった。それでも優和の、「これから会わない?」は、僕に喜びを与えるには十分すぎるものだった。
「これから?」
「そう、これから」
「これからって、日付変わっちゃうぞ」
「急げば大丈夫よ」
「急げばって、福岡は一、二時間で来れる距離じゃないぞ」
「お願いお願いお願ーい。ねっ、いいでしょ?」
「まぁ、明日休みだから俺はいいけど」
「じゃー、約束ね」
「分かった、約束な。でも気を付けて来いよ。って、俺ん家分かるのか? 迎えに行こうか?」
「ううん、大丈夫大丈夫。ちゃんとお母さんに教えてもらったから。シュジは部屋にいて。着いたらチャイム鳴らすから」
「分かった。でも本当に気を付けろよ」
「うん、ありがとね」
ピンポーン。
「あっ、また誰か来たみたいね」
「もー、ほんとごめんな、忙しなくって。今度はすぐ終わらすから、ちょっと待ってて」
「急がなくていいよ」
こんな時間に次から次へと、いったいなんなんだ? 今日は。ほんとに今それどころじゃないのに。
受話器を置いてインターホンに出ると、インターホンは無言だった。
「なんだよ」
覗き穴から覗いても、そこには誰もいない。
悪戯か?
「もぅ、ふざけんなよ、こんな時間に」
ムッとしながらドアを開けると、そこには優和がいた。微笑んだ瞳を潤ませながら、オムニバスのCDを持って。
えっ?
その瞬間、僕はムッとしていた記憶すらなくなっていた。
「ねっ、大丈夫でしょ。はい」
優和は携帯を耳に当てたままCDを手渡すと、そのまま僕の胸に飛び込んだ。
僕は優和をギュッと抱きしめた。ギュッと。…僕の時間が動いた。
「修司、会いたかったよ。…ずっと」
「富士山? また登ったのかよ、飽きねーな」
明けまして
おめでとう
保坂も今年こそは結婚しろよ
彼女、待ってるぞ
「って、大きなお世話だっつーの。毎年毎年、写真付きなんかもらっても、俺は全然嬉しくないぞ」
「―でも、また大きくなったな。優司のやつ」
YOU ―あなたに会いたくて― 完




