28
今年もまた、古城の庭にラナンキュラスが咲いた。エイレーネが手ずから植え、世話をしてきたラナンキュラスは、色とりどりの大輪を誇らしげに揺らしている。鮮やかで美しい景色を、リファトとエイレーネは小さな四阿から眺め、目を細めた。
陽が傾くまで他愛のない話をしていたら、不意にリファトがじっと見つめてきた。確かな熱のこもった視線に、エイレーネの頬は火照り始める。
「…レーネ」
「はい。殿下…」
名を呼んだきり、リファトは口を噤んだ。いつもならエイレーネが助け舟を出すところだが、今日は一緒になって黙り込んでしまう。相応しい言葉が見つからない、とでも言うのか。熱い眼差しに全身を絡めとられたようであった。彼女は高鳴っていく胸をそのままに、リファトの言葉をひたすら待った。
やがて彼は、ぽつりと声を落とした。
「……三年、経ちました。貴女が私の妃になって三年です」
「…はい」
「いま一度、貴女に問います」
「はい」
「貴女はどこまで、許してくれますか?」
「わたしの答えは変わりません」
エイレーネはそうっと彼の手に触れ、在りし日と寸分違わぬ言葉を紡ぐ。
「全部、どうぞ」
その刹那、リファトの方へ倒れるように、彼女の手がぐんと引かれた。彼の胸に飛び込む形となって、瞬きする間も無く熱烈な抱擁を受ける。こんな、余裕の無い抱かれ方は初めてだった。
「……待てと言われても、待てません。止めてと言われても、止まれません。少しでも怖いと思うのなら、今、逃げてください」
この期に及んでもまだ、彼はエイレーネを優先しようとする。エイレーネを気遣って、結婚してから三年もの間、辛抱し続けてくれたというのに。切迫詰まった様子の彼には悪いが、エイレーネとて時が満ちるのをずっと待ち侘びていたのだ。
「なぜ、逃げる必要があるのですか?わたしの心は、とうに決まっています」
エイレーネは深い海の蒼色を見つめ返して、周りの人まで幸せにするような笑みを湛える。
「最愛のリファト様。あなたはわたしの、永遠の人です」
リファトにとってこれに勝る、愛の告白があるだろうか。
そうして、どちらともなく顔を寄せ、唇を重ね合わせる。夜の帳が下りるのを待つのも惜しかった。
リファトは穏やかで優しい人だ。きっと、出会う前からそうだった。エイレーネと出会ってからはそれが顕著で、いかなる時でも彼女を柔らかな愛で包んだ。甘い笑顔を向けていた。しかし、時には横顔に怒気を漲らせ、重い悲しみを背中に背負う。優しい笑みだけではない、彼の多様な表情をエイレーネは隣で見つめてきた。三年の月日が色んなリファトを教えてくれたと……今宵まではそう思っていた。でも、少しだけ思い違いをしていたようだ。
エイレーネを寝台に押し付ける彼の瞳には、いつもの優しい光ではなく、飢えた猛獣のようにぎらついた閃光が宿っている。触れられたところが熱かった。もはや吐息ひとつで灼かれてしまいそうだ。内側から焦がし、喰い破っていくような凄まじい熱。こんなにも激しいものを、彼は今宵までおくびにも出さず、抑え付けていたのか。ただひとえに、エイレーネの為だけを想って。
いったい何度、彼に愛されている事を心に刻まれればいいのだろう。膨れ上がる歓喜にエイレーネは思わず涙した。ぽろぽろと転がる雫を見たリファトは、目を見開いて硬直する。そしてそのまま絶句してしまった。彼が涙の理由を勘違いしていると気付かないエイレーネは、赤らんだ頬に幸福の喜色を乗せるのであった。
「…やっと、全部…差し上げる事ができるのですね…うれしい…っ」
息を詰まらせたような、唸りにも似た音がリファトの喉から鳴った。かと思えば、彼らしからぬ性急な口付けが降ってくる。優しく触れ合うだけの接吻しか知らなかったエイレーネは一瞬だけびくりとしたものの、すぐに全てを彼に委ね、余す事なく明け渡したのだった。
これにて名実共に夫婦となった二人であるが、この日を境にリファトからの溺愛はとうとう際限が無くなった。己に課していた制約から解放された反動だ。エイレーネと目が合うだけで蕩けるように微笑み、少し触れ合えば輝くような笑顔を浮かべる。レーネ、と呼ぶたびに幸せの花を飛ばしている状態だった。とにかく甘い。甘過ぎる。リファトが妻に甘いのは元より周知の事実であったが、以前の比ではない。
離れた場所から見守るだけの使用人達でさえ、胸焼けしそうなのだ。三年越しの初夜を終えたばかりで、幸福と恥じらいの狭間にいるエイレーネには荷が重かろう。遅れてやってきた蜜月に浸るより先に、心を落ち着かせたかったがリファトがそれをさせてくれない。彼の一言一句に首筋まで真っ赤に染め上げて、かちんこちんに固まるよりどうする事もできないエイレーネはある意味、可哀想であった。しかし、そういう初心な仕草はリファトの溺愛っぷりを助長するだけで、使用人一同は心の中で「頑張ってください」と念じながら、すいと視線を逸らす事しかできなかった。
逐一、挙動不審になっていては周り示しがつかないばかりか、己の心臓が持たない。そう悟ったエイレーネは、平静を保つ努力を始めた。彼女の努力は着々と実を結び、少しずつ日常を取り戻していった。いくら頑張っても頬が仄かに紅潮してしまうのは、もう愛嬌という事で片付ける。
毎日、早く起きては庭の手入れをし、アリアとジェーンに勉強を教える傍ら、ギヨームから借りた本を読んでエイレーネも知識を蓄える。休憩はリファトと共に四阿でとり、一緒に手紙の内容を考えたり、花を愛で、夜はまた同じ寝台で眠りにつき、また新たな一日が始まるのだ。相変わらず国王から配当される金は少ないし、出掛ける先は孤児院と畑ばかりで変わり映えしない。それでも時々、海を見に行き、手を繋いで砂浜をのんびり散策した。
変わらない平穏な日々は尊いものである。明日も同じ日常が訪れる保証は無いからだ。よく束の間の平和と言うけれど、幸せな時間より辛い時間の方が長く感じるから、そんな皮肉が使われるのだろうか。
「失礼します。エイレーネ様。ハリエットさんからお手紙を預かってまいりました」
「ありがとうございます、ジェーン。あら?ハリエットは帰ってしまったのですか?」
「はい。新しい布地が手に入ったので、早く作業に取り掛かりたいんだそうです」
権高な貴族相手にそんな真似をしようなら、機嫌を損ねることになるだろうが、エイレーネは「いつも仕事熱心ですね」と感心するだけである。ハリエットもそれが分かっているので、遠慮せず気楽に振る舞えるに違いない。
「気合いを入れてエイレーネ様のドレスを作ると、話していましたよ!」
「クローゼットは充実しているのですけど…報酬ですから仕方ありませんね」
手紙の受け渡しを任されてくれたハリエットは、その褒美としてエイレーネのドレスを意欲が湧くままに作っている。本人もご満悦な様子だし、これが対価になると言い切られてしまえばエイレーネは黙って着せ替え人形になるしかない。一応、リファトの許可を貰いにいくのだが、彼はエイレーネが着飾る事に賛成しか唱えないので、ほとんど意味を成さない。
「あと、手紙のお返事が書けたらまたお呼びください、とのことでした」
「分かりました」
「では、あたしは仕事に戻ります。ご用がございましたら、お申し付けください」
「ええ。ご苦労さま」
すっかり一人前の侍女になったジェーンを頼もしく思いつつ、エイレーネも早く返事を書こうと受け取った手紙を開封する。
しかし、読み進めていくうちに彼女の表情が沈んでいった。ジェーンと入れ替わりでやって来たリファトの気配にも気が付かない程、もの思いに耽ってしまう。
「………」
「レーネ?そろそろ、食事の時間だそうですよ」
「っ!?」
エイレーネからしてみれば、いきなり背後から声が聞こえたのだ。彼女はびっくりして、持っていた手紙を取り落とす。その驚き具合に、悪い事をしたと思ったリファトはしゅんとして眉を下げた。
「驚かせてすみません」
「い、いえ…わたしこそ、大袈裟でした」
「思い詰めたような面持ちに見えましたが…大丈夫ですか」
「……シルヴィア王女様に、婚約の話が持ち上がっているそうです」
シルヴィア王女も年頃だ。当然そういった話も出てくる。本人も心づもりはしていたはずであろう。だがしかし、国王が口にしたのは古い王侯貴族の一人。年齢はゆうに五十を過ぎている。十代の娘が自分の父親よりも歳上の男と結婚させられるかもしれないのだ。死んでも嫌だと泣き喚きたくもなる。しかもその男、金はあるのだが言い換えればそれしか利点がない。ひどい痛風持ちで、彼方は介護の手が欲しいに違いなかった。しかも若い王女様なら万々歳、という歓喜の音頭が聞こえてきそうだ。
シルヴィア王女は手紙の中で、こう嘆いていた。
母がそうであったように、自分も結婚に関して自由は無いと知っていた。けれど、こればかりは耐えられそうにない。父フェルナンは何を考えて、沈黙を貫いているのか。母も私も、面と向かって恨み言を吐いた事は一度も無いのに、父はそこまで娘が憎いのか。
シルヴィア王女の父親に対する心象は、恐らく良いものが無い。父親に歳が近い男と結婚するというだけで、心が拒否するのも無理はなかろう。状況は異なれどエイレーネも身に覚えがある。覚悟はしていても、すぐには受け入れられないものだ。目を背けたくなったし、実際、リファトと向き合うのに時間を要した。
けれど絶望するのはまだ早い。シルヴィア王女の婚約は確定した訳ではない。そういう話が出ている、という段階だ。より条件の良い縁談が舞い込めば、覆る可能性は充分にある。
「何とかして差し上げたいのですが…」
女の身では儘ならない事ばかりだ。皆が皆、エイレーネのような幸せを掴めるとは限らない。無力さを嘆き、肩を落とすエイレーネを、リファトは何も言わずに抱き寄せるのだった。
サロンの招待状が届いた時、これは好機かもしれないとエイレーネは思った。この類の誘いはめっきり無かったのだが、第一王子の再婚の線が立ち消えた為、一応の保険として第四王子夫妻とそれとなく接点を持っておこう、と布石を投じる貴族が出始めた。"呪われた王子"にではなく、エイレーネ宛に招待状が届くあたり、彼らの心情が透けて見えるようだ。
そんな風なのでエイレーネは全く気乗りしなかったのだが、今回のサロンにはミランダが顔を出すとの事。上手くいく保証など無いが、その席でシルヴィア王女の件を話してみようと考えたのである。カルム王国におけるエイレーネの知り合いなど、たかが知れている。ましてや王女の婚姻に口を挟める有力者となれば、自ずと搾られてくる。ミランダが承諾してくれるかは博打だが、エイレーネにできるのはこれくらいしかなかった。
エイレーネは早速、参加の返事を出し、着て行くドレスの吟味を始めた。リファトは彼女が何を着ても、似合う、綺麗、素敵だと褒めるだけなので、あまり参考にならない。とても嬉しい事に変わりはないのだが。その点、ハリエットははっきり物申してくれるし、何ならエイレーネよりも張り切るので助かる。
「新しく仕立てないのですか」
「はい。以前、仕立ててくださったドレスを、作り直していただこうかと…駄目ですか?」
「妃殿下。サロンは上流階級の婦人が集まる場所と聞きます。皆様、着ているドレスは最新の流行を取り入れていますよ。お手持ちのドレスはやや型遅れです」
「まあ…ひと月前に作ったばかりですのに?」
「そうですよ」
ハリエットが仕立てるのはエイレーネの服だけではない。様々な階級の服を手掛けてきたたお針子が言うのだ。きっと間違いない。だが自分だけ贅沢する事に、エイレーネは抵抗があった。
「ご予算のことでお悩みですか?では私がリファト殿下に確認して参ります」
「あの、ハリエット、そうではなくて…!」
エイレーネの新しいドレスを仕立てると聞いて、リファトが反対するなどあるはずもなく、問答無用で新たな一着は完成したのだった。
花が好きな顧客の為、ハリエットがエイレーネに作るドレスはリボンより、花をモチーフとした刺繍や飾りが多い。宝石など無くても、充分華やかな装いになったエイレーネは、サロンに参加すべくとある貴族の屋敷に向かった。
貴婦人達はにこやかに迎えてくれたが、笑顔の裏で不躾に値踏みされているのを、エイレーネは肌で感じ取った。サロンは言わば情報交換の場。信憑性はともかく、様々なスキャンダルで盛り上がるのだ。だがエイレーネは根拠も無い噂話に興味は無い。今日はミランダと話がしたくてやって来たのである。帰り際までエイレーネは大人しく過ごし、必要以上に口を開かなかった。お互いに様子を見合っている状態だった。
解散した後、屋敷の外でようやくミランダに声を掛けた。話がしたいと持ち掛けたところ、応じてはもらえた。
「でもわたくしも暇ではないの。帰りの馬車の中でなら話を聞きましょう」
そう言われたので、エイレーネはミランダと同じ馬車に乗り込む。
「少しお見かけしない間に、艶っぽくなられたわね。男を知ったのかしら?」
「そっ…それほど、分かりやすいでしょうか…」
いきなり何を言い出すかと思いきや、慧眼にも程がある。突然の暴露にエイレーネは赤面した。しかしどうにか、心の乱れを鎮める。
「お話というのはそれ?」
「…いえ。違います。実はシルヴィア王女様の事なのですが」
「ああ。酷なお相手が候補に選ばれたものね。王太子殿下も冷たいこと」
話が早くて助かる。エイレーネが本題に入ろうとした時だった。
「それで?お優しい貴女は、王女様を助けたいのかしら?」
ミランダの冷ややかな視線が刺さった。怒っている、というよりは呆れているように見えた。でも、ここで怯んではいられない。
「はい。たった一言、ミランダ様のお口添えがあれば、国王陛下もご意見を覆してくださるはずです。つきましてはサリド皇国の…」
「嫌よ」
まだ話の途中だったが、にべもなく断られてしまう。
「貴女の言う通りにしたとして、わたくしに何の利益があるの?貴女、勘違いしているわね。わたくしが動くのはは自分に得があると思った時だけ。それに貴女達にはもう充分、恩を売ったわ。これ以上はわたくしが損をする」
「ミランダ様…」
「貴女は良いわよね。陛下のご機嫌を多少損ねようと、王族という地位は残るもの。でもわたくしは違うわ。立派な実家も、爵位も無いのよ。わたくしにあるのは陛下の寵愛の上にしか成り立たない、脆くて儚い足場だけ。それを他人の、どうでも良い都合で壊されるのは許さないわ」
「…申し訳ございません。お話を聞いてくださった事、感謝いたします」
引き際を見誤っては元も子もない。エイレーネは静かに身を引いた。平民のミランダが、王の愛妾にまで上り詰める道程は、想像を絶するものだっただろう。美貌だけでのし上がれるほど、社交界は甘くない。積み重ねてきた努力がエイレーネのせいで水泡に帰すとあっては、苛立つのも納得できる。納得はできるが、やはり少しの落胆はあった。
「もっと賢い方かと思っていたけど、買い被りだったみたい。優しさや親切があれば何でも救えるなんて大間違いよ。そんなもの、身を滅ぼす要因でしかないわ」
「………」
帰って来たエイレーネの表情を見るなり、リファトは計画が失敗に終わった事を察した。彼はあれこれ聞き出そうとはせず、新たな提案をするのであった。
「サリド皇国へ直接打診してみるのはいかがですか?ロイド皇子ならば、話を聞いてくれるかもしれません」
「しかし…わたし達が勝手に動いて良いのでしょうか」
「大丈夫でしょう。皇国と我が国の結び付きを強めるという点では双方にとって悪くない話です。書簡なら私から送りますから、レーネは何も心配しないでください」
「えっ?わたしが書きますよ?少しですけど、皇子とはやり取りもしていましたし…」
「すみません。私の気持ちの問題です。貴女が他の男に手紙を出すのが嫌なだけですよ」
照れたように苦笑されては、エイレーネは顔を覆うしかなかった。
ロイド皇子に何と書いて送ったのか、リファトは口を割らなかったものの、先方からは色良い返事が貰えた。ロイド皇子の従兄弟に、結婚適齢期の青年がいるという。人柄も申し分ないそうで、シルヴィア王女との婚約にも乗り気の姿勢を見せたとか。折を見て、カルム王国に申し入れるとの旨が記されていた。
サリド皇国はカルム王国ほどではないにしろ、大きな領土を持っている。友好関係を築いておいて損は無い。日和見国だと揶揄されることが多いサリド皇国だが、味方に付ければ心強い。同じ国の貴族よりも、諸外国に嫁いでもらった方が恩恵は大きい故、ギャストン王も無碍にはできまい。リファト達の読みは的中した。こうしてシルヴィア王女は、サリド皇国へ嫁ぐ事に決まった。
実はその裏で、ミランダが国王に働きかけていたのを、エイレーネは知らない。渋るギャストン王へ彼女はただひと言「良いお話ではありませんか」と囁いていたのだ。ミランダの一押しが決定打となった事は、国王と彼の愛妾以外、誰も知らないのである。
シルヴィア王女は式を挙げる前にサリド皇国へ赴き、現地で礼儀作法を学ぶよう命令が下った。国王ではなく王太子による命令らしいが、シルヴィア王女は特に悲嘆していなかった。祖国に対する未練はさほど無い。あるとすれば、一度も恩人に会えなかった事くらいだ。恩人との手紙を繋いでくれたお針子とも今日でお別れだった。
「ハリエットさん。少しだけですが今までの謝礼を用意しました。受け取ってください」
暗い顔で沈むばかりだったシルヴィア王女はもうおらず、寂しげではあったがハリエットに笑いかけていた。
「ありがとうございます。しかしながら謝礼は、こちらの方へお渡しになったほうが良いかと思いますよ」
「え?」
シルヴィア王女は首を傾げた。ハリエットの指し示す方には、同じ仕事着を纏った小柄な女性が立っている。ここへ来るお針子はハリエットだけではなかったので、知らない顔がいるのは珍しくない。けれど、謝礼を渡すような間柄のお針子はハリエットしかいないのだ。
「ハリエットのためにご用意してくださったのですから、あなたが受け取るべきですよ」
不意に、小柄な女性が喋った。鈴が転がるような声だ。エメラルドグリーンの瞳がとても綺麗だった。
「謝礼なら妃殿下から頂いていますので大丈夫です」
「服を仕立ててもらうばかりで、あまりお礼をした気になれないのですが…」
「決してそんな事はありません」
ハリエット達の会話を聞いていたシルヴィア王女は、その女性を凝視してしまう。特徴的と言われる髪は隠しているが、もしかして───
「申し訳ございません。ご紹介が遅れました。こちら、第四王子妃のエイレーネ様にございます」
「お初にお目にかかります。シルヴィア王女様」
「え……えっ…?ほ、ほんとうに…エイレーネ様…?」
シルヴィア王女は高揚を露わにしながら立ち上がる。その拍子に椅子が倒れたが、気にする余裕は無かった。
「はい。エイレーネ・グレン・カルムと申します」
陽だまりのような笑顔を向けられたシルヴィア王女は、次の瞬間わっと泣き出してしまう。
「これまでよくご辛抱なさいましたね」
歩み寄ったエイレーネは、小刻みに震える肩を優しく摩った。その手の温かさにシルヴィア王女の涙は益々あふれるのだった。
「サリド皇国にはヴァネッサ様がいらっしゃいます。便りも出しましたので、もう心配はいりませんよ」
シルヴィア王女は泣き濡れた面を勢いよく上げた。初耳であった。母ヴァネッサは実家に帰ったとしか聞かされておらず、母の実家はカルム王国にある。
言葉にならないシルヴィア王女の様子を見て、エイレーネが簡潔に教えてくれた。
「…この国に身を置いていると、どうしても心無い誹謗が耳に入るのでしょう。ヴァネッサ様はご親戚を頼りに皇国へ向かわれたのです」
言われてみれば、シルヴィア王女の曽祖母はサリド皇国から嫁いできた身であった。カルム王国に居場所を見出せなくなったヴァネッサは、皇国にいる親戚筋の元へ、身を寄せることにしたのだろう。
「では…もしや…!このたびの婚約は…っ!?」
「リファト殿下が密書を送り、ロイド皇太子殿下が取り持ってくださったのです。この件に関して、わたしが為せた事は殆どございません」
決してそんな事はない、婚約の話が出る前から散々助けてもらったと、シルヴィア王女は反論したかったが、滂沱の涙がそれを邪魔する。病気持ちの中年貴族との結婚なんて嫌だと駄々を捏ねるだけだった王女の為に、奔走してくれた人達がいたという事実が胸を打つ。こんな深い思い遣りに触れたのは初めてで、シルヴィア王女は涙が止まらなかった。
「シルヴィア王女様。わたし達王族は…とりわけ女人に許された自由は、とても少ないです。生きる道筋すら、己の手には委ねられていません」
エイレーネはシルヴィア王女の小さな両手を握った。彼女の言葉は相手に語りかけているようでもあり、己に聞かせているようでもあった。
「許された数少ない自由の一つは、幸せの在り方を決める事だと、わたしは思います」
傍目から見たエイレーネは"呪われた王子"と結婚させられた、哀れな小国の姫と映るのだろうか。
「幸せの証明を他人がすることはできません。自分自身が幸せだと感じるのならば、間違いなく幸せなのです。シルヴィア王女様の幸せが見つかりますよう、祈っております」
握られた両手も、掛けられた言葉も、向けられる笑顔も、なんて温かいのだろうか。なんて優しいのだろうか。シルヴィア王女はぐっと歯を噛み締める。
「…っ、ありがとうございます…エイレーネ様…私、がんばります…っ!サリド皇国で、私の幸せを見つけてみせますっ!もう泣きません!弱音も吐きません!」
シルヴィア王女は不幸な自分を哀れみ続けてきた。父から見捨てられて可哀想、母と離れ離れになって可哀想。そうやって不遇を嘆くことで、心の均衡を保つようにしていたのだ。だけど哀しい事は誰にでもあって、他人には分からないそれぞれの苦しみがある。目の前で優しく微笑むこの人だとて、国は違えど王女だった。儘ならぬ身の上だ。独りで祖国を出て来た。"呪われた王子"を夫に持った。他には無い苦労が絶対にあったはずだ。
だがエイレーネは手紙にも態度にも、耐え忍んできたであろう苦しみを出さなかった。王族のあるべき姿を示し、不自由な鳥籠の中でも、幸せは見つけられる事を身を以て教えてくれた。
「いつかまたお会いできる日を、心待ちにしていますね」
「はい…!次にお会いする時は必ずっ、必ずや王族として恥ずかしくない姿をお見せします!」
こうしてエイレーネとシルヴィア王女は、互いの息災を願いながら別れた。
出国の折、エイレーネには直接見送る権利が無かったものの、リファトと共に窓辺に立ち、街道を通って行く豪華な馬車に手を振るのであった。
【補足】
房事の夜だけエイレーネは「リファト様」と呼びます。第四王子だからではなく、貴方だから身を委ねているのです、という密やかな意思表示です。




