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 いつもと変わらず始まった朝。食卓につこうとしたエイレーネは、漂う異臭を嗅ぎとり、鼻を擦った。何とも言い難い嫌な匂いだった。だが、こっそりリファトやユカル達を見遣っても、特段気にしている様子がない。この不快な匂いには気付いているのはエイレーネだけらしかった。


「何か気になる事でもありましたか?」

「! いえ、何でもありません」


 変な顔をしていたのが、リファトに見つかってしまった。エイレーネは慌てて作り笑いを浮かべて誤魔化した。


「お待たせ致しました!」


 そうこうしているうちに、ジェーンが朝食を運んできた。湯気を立てるスープと、焼き立てのパン。見た目は美味しそうなのに、異臭が強くなる。けれどやはり、誰も何も言わない。そもそも料理人のマルコが、おかしなものを提供するはずがないだろう。きっと己の臭覚が、今朝はおかしいだけだ。エイレーネはそう考え、意を決してパンを口に含んだ。

 途端に凄まじい吐き気がエイレーネを襲った。口元を押さえ、必死に飲み下そうとしたが、どうにも我慢できない。彼女は大きな音を立てて椅子から崩れ落ち、背を丸めて蹲った。


「レーネッ!?」

「妃殿下!!」

「エイレーネ様っ!」


 異変を察した皆が駆け寄ってくるが、彼女には応える余力が無かった。せめて見苦しいものは見せたくない一心だった。だがその思いも虚しく、吐き気は治らない。


「レーネ! 我慢しないでいい。苦しかったら吐き出してください!」

「っ、……」


 リファトが痙攣する背中を摩ってくれると、ほんの少しだけ苦しさが和らいだ気がした。その間にアリアとジェーンが桶や拭く物を持ってきて、手際良く片付けてくれる。ユカルはすでにギヨームを呼びに出て行った後だった。


 エイレーネを診察したギヨームは、至極あっさり彼女の懐妊を告げた。吐き戻してしまったのは悪阻のせいであったのだ。


 吉報を知ったアリアとジェーンは歓喜の叫び声を上げ、すぐ横にいたユカルは鼓膜が破れたかと思った程だ。ポプリオとマルコも手を叩きながら泣いて喜び、無論、リファトも大喜びであった。親兄弟から見捨てられていた彼だからこそ、家族というものに対して人より強い憧れがある。それに何と言っても愛する人との子供。手放しで喜ばない男がどこにいる。

 とは言え、はしゃいでばかりもいられなかった。この時世においては、男児を産めるかどうかが女人の価値を決める。もしも、エイレーネの腹に宿った命が男であったなら……彼女の立場は大きく変わるだろう。いつの歴史を紐解いても、世継ぎを巡る争いは苛烈で、命の奪い合いになってきた。

 分かってはいた。男と女が体を重ねれば、いずれはこうなる。生まれてきた我が子は、性別に関わりなく大切に愛しむ確信もある。しかし、守り切れるだろうか。敵は多く、強大だ。考えれば考えるほど不安が膨らんでいくが、悪阻で苦しむエイレーネの前で、余計に気分が沈むような事は口が裂けても言えない。それに、言われずとも彼女だって承知しているだろう。


「ただ彼女と子を愛するだけだったら、どれほど良かったか……」


 大切な人達を害される心配などせず、ひたすらに愛せたら良かった。本当なら何も考えず喜び叫びたいのに、日々、敵の妨害に脅かされ続ける憂鬱が幸せに影を落とす。

 リファトは苦しい心境を、帰り支度をするギヨームに吐露した。


「そう辛気臭い顔をなさいますな」

「それは分かっているのだが……」


 暗くなるリファトの気持ちは、理解できなくもない。王族のお産は無事で済まない事が多い。出産自体が綱渡りという事もあるが、絡む因果が多すぎる。いったい何人、妃と和子が亡くなれば、悪しき因果は終わるのか。ギヨームも若い頃は、そういう死に目に幾度も立ち会った。もう懲り懲りなのだ。場所が違えば助かったかもしれぬ命を見送るのは。

 それに今は、リファトを元気づける役目のエイレーネが伏せっているので、尚のこと彼は暗い気持ちになりやすいのだろう。


「まったく。妃殿下に出会う前の殿下に逆戻りですな。これから父親になるという方が、そんな事で良いのですか」

「……返す言葉もない」


 捻くれ者のギヨームは、こんな時でも辛辣だ。けれど、いつも通りだから少し安心するところもある。


「受け入れるしかありません。王家の名を背負うとは、こういう事なのです」

「……ああ」

「殿下を取り巻く環境は様変わりしました。以前はお一人で寝込むばかりだったでしょう。昔の殿下ならどだい無理だったでしょうが、今の殿下なら大丈夫ですよ」

「……ありがとう」

「熱なんぞ出してる場合ではありませんぞ。父親になるのですから」

「そうだな」


 ギヨームと別れ、寝室の扉を叩こうとしたリファトは、苦しげにえずく声を聞きつけ、ノックも忘れて飛び込んだ。エイレーネは青白い顔で咳き込んでいるが、今朝から何も食べていない為、出る物はほとんど無い。それがまた余計に苦しいのだろう。


「二人ともありがとう。あとは私が看るよ」


 背を摩っていたアリア、木桶を持っていたジェーンに、リファトはそう告げた。しかしエイレーネがいけませんと弱々しく拒む。


「……殿下に、汚れ物の処理など……させられません」

「レーネは私の血と膿で汚れた包帯を取り換えてくれたでしょう。それも一度や二度ではありません。貴女は良くて、私が駄目とは不公平ですよ」


 エイレーネの悪阻は重かった。食べ物を全く受け付けないのだ。マルコが手を変え品を変え、色々試してくれたが、それでも駄目だった。何も口に入れられず、焦る気持ちはリファトも同じだったが、彼は落ち着いて対処するよう心掛けた。

 夜中に酷い吐き気で目を覚してしまう事もあった。そういう時は必ずリファトも起きて、良くなるまで付き添ってくれるから、エイレーネは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。苦しげに謝る彼女に対しリファトは何度でも、気にする事はないと優しく言って聞かせた。


 第四王子妃の懐妊に、社交界は騒がしくなる。しかし最も警戒すべき王妃ニムラにまだ動きはない。アンジェロの子がいる限り彼女の地位は安泰だ。生まれてもいない胎児に構うまでもないのかもしれない。

 反対に動きがあったのはギャストン王だ。王宮から使者が寄越され、懐妊は真実か問われたり、ギヨーム以外の医者の診察も要求された。更には国王を護衛する親衛隊から数人が派遣されてきた。父親の方からリファトに関わってくるのは初めてで、世継ぎ問題の切実さをひしひし感じたのだった。

 アンジェロの時がどうであったか知らないが、エイレーネが身籠った事が民にも広まると、古城には既知の民達が祝いを言いにやって来た。伏せって出て来られないエイレーネへ向けて、彼らは大きな声で祝福の言葉を口々に投げかけた。開けた窓からそれを聴いていたエイレーネは、いっとき辛い悪阻も忘れて微笑んでいた。

 彼女の祖国ベルデからも喜びの手紙が届いた。家族全員から送られてきたので全部で六通だ。ほとんどがエイレーネの健康を祈り、吉事を喜ぶ内容だったのに対し、王妃エレーヌの手紙だけは、母親としての悩みと喜びが綴ってあった。エレーヌも同じように重い悪阻に苦しめられたそうだが、五人の子供を生んでも元気に暮らしているから、そう案じずとも良いと書いてある。


「……ふふっ」


 エイレーネは手紙を片手に笑い出すと、隣にいたリファトが「ん?」と首を傾げた。


「お母様の娘なら大丈夫だとお墨付きをいただきました」


 リファトはベルデ国の一家を思いに描く。確かな絆と愛で結ばれる両親のもとで、子供達は心からの笑顔を浮かべていた。ああいう家庭を、エイレーネとも作り上げたいと思った。想像するだけで、リファトは幸せに包まれるのだった。




 エイレーネのお腹が少しずつ目立ち始め、悪阻が落ち着いてきた矢先の事である。リファトの父、ギャストン王が血を吐いて倒れた。

 何の前触れも無かったため、報せを聞いても事態をすぐには飲み込めなかった。古城に居ては詳細が分からず、リファトは王宮に出向こうとしたが、国王代理となった第一王子のフェルナンから、来てはならぬと厳命を受けてしまう。ユカルに探らせてみたものの、大した情報は得られなかった。人為的に秘匿されているらしかった。

 報せを受けてから七日後、ギャストン王は崩御した。

 誰も予期しなかった一つの時代の終焉に驚愕は続いたまま、動揺も治らない。あまりに突然で、呆気ない最期であった。

 リファトは葬儀の参列にも加われなかった。またしてもフェルナンに止められていたのだ。揺れ動く王宮から、わざと遠ざけられているみたいだった。来るなと言わたのに、それを無視して行く事はできない。親子の関係などまるで無かったが、そうだとしてもギャストンは父であり国王だった。せめてもの弔意として、リファトとエイレーネは古城に居ながら黒い装束を纏うのだった。

 国中の雰囲気は戸惑いの方が強かったものの、悲しみの声もちらほら聞こえてきた。決して良き父、良き夫ではなかったが、国王としての手腕はリファトも認めていたのだ。王宮内での顔を知らぬ国民からすれば、有能な王を喪ったと映るのだろう。


「今後はフェルナン殿下が、国王となって采配を振るのですね」

「ええ。服喪が開ければ戴冠式も執り行われるでしょう。兄上は父上に似ていますから、政務に支障は出ないと思います」

「では国民の混乱も、最小限で済みますか」

「恐らくは」


 リファトとエイレーネが固い表情で話し合っていたところへ、ユカルが帰ってきた。


「進展はあったか」

「いいえ。特にはございませんが、今そこでお二人を訪ねてきたという方にお会いして……お通ししますか」

「その者の名は?」

「それが『わたくしはただの平民。王家の方々に名乗るような立派な名はもうありません』と言うだけで……」


 その言い回しに思い当たる節があったエイレーネは、まさかという気持ちで彼女の名を口にする。愛妾の権威は王と共に在るもの。王が崩御したとなれば、もう宮殿には居られまい。


「もしや、ミランダ様では……」


 エイレーネの予想は当たり、案内されてやって来たのはミランダであった。ミランダが着ているのは喪服ではない。彼女らしからぬ、安っぽい造りの衣装だった。しかしながら、その美しすぎるかんばせに翳りは無く、憔悴している様子も見受けられない。着ているもの以外は今まで通りのミランダである。


「ご機嫌よう。リファト殿下、エイレーネ様。本日はお別れの挨拶に参りましたの」


 ミランダは優雅にティーカップを傾け、艶やかな弧を唇に浮かべた。手にしていた栄光を失った直後とは、とても思えない。


「失礼、先にお祝いを述べるべきでしたわね。エイレーネ様」

「恐れ入ります。しかしお別れとは、いったい……」

「言葉の通りですわ。わたくしはこの国を去ります。が、去って行く前に回収しなければならない報酬がありますのよ。そうでしたわね? リファト殿下」


 ニムラに捕まっていた折、ミランダには逃走の手助けをしてもらった恩義がある。その際、必ず見返りを要求すると彼女は確かに宣言していた。


「エイレーネ様も。殿下をお助けしたのですから、きっちりお礼はしていただかないと」

「……ミランダ嬢の望みは何だろうか」


 リファトの質問に、ミランダは艶かしい吐息をつく。


「慣例に従うならわたくしは修道院へ送られるでしょう。しかし、信仰心など持ち合わせないわたくしが行ったところで、神様も喜ばれないと思いません? そもそも王妃の息がかかった場所なんて真っ平御免ですの。見くびらないでいただきたいのですけど、国を出るくらい訳ない事ですのよ?ただその後の生活の保証が無いだけ。わたくしが求めているのはそれです」

「父上の愛妾であった方なら、私財も潤っていたのでは? 多少なりとも持ち出す事も出来たでしょう」

「生憎と、それらは全て置いて出てきましたわ。この身一つで召し上げられた時から、去る時も身一つと決めていましたので」


 という事はつまり、ミランダは国王に見染められた日の格好で王宮を出てきた訳だ。なるほど道理でお世辞にも上等とは言えぬ格好なのか。


「王の寵愛ほど虚しいものはありません。そんなものに縋るから、みんな狂っていく。わたくしは最初から最後まで、陛下を愛してなどいなかった。陛下の寵愛を利用したに過ぎないのです。とはいえ、子を孕まぬよう根回しまでして、我ながらなかなかに涙ぐましい献身でしたわ」

「……! あの東洋のお香は、ミランダ様ご自身がお使いになっていたのですか」

「そうですわ。身籠った体では、陛下のお相手が務まりませんもの。その間に目移りされては敵いませんし、陛下とてわたくしとの子は欲しておられませんでしたわ。所詮は愛妾の子。庶子である事は覆らない。望まれてもいない命を身籠る方が無責任ではなくて?」


 なんという決断力と潔さか。呆気に取られる二人を横目に、ミランダは鷹揚に言葉を続けた。


「わたくしの生まれは極めて平々凡々。普通に生き、そして死んでいく、何も残らない人生を歩むはずでしたわ。でも、そんなのつまらない。虚し過ぎる。わたくしは"ミランダという女がこの時代に存在した''証が欲しかった」


──貴女は良いわよね。


 エイレーネの脳裏に、そう冷ややかに言われた台詞が過った。エイレーネやリファトのような貴人は、その名が系譜に刻まれている。王家の血が混じっているとの理由があれば、たとえ死産であっても記録されるのだ。

 しかしミランダみたいな平民は、王族の与り知らぬ所で生と死を繰り返すのみ。今この瞬間もだ。そして、いずれは誰の記憶からも消え失せる。その当たり前を受け入れる悔しさを、彼女は言葉の端々に滲ませた。


「悪名を轟かせるのも悪くないけれど、どうせなら栄華を極めた方が煌びやかでしょう? だからわたくしは、寵愛を利用してのし上がった。愉快だったわ。下民だ、売女だと負け惜しみを言うだけで、みんなわたくしに屈服するしかないんだもの。でも名声は移ろい、美貌もやがて衰える。それを止めることは誰にもできない。だからわたくしは刹那の輝きを最上のものにしたかった」


 ミランダは己の悲願を見事に叶えてみせたのだ。花は散り際だとて美しい。彼女は容姿だけでなく生き様までも、花より美しい事を誇示したのである。


「わたくしの願いは達成されましたし、残りの人生はのんびりと、面白おかしく生きたいと思っていますの。つきましてはベルデ国へ行こうかと。過ごしやすい気候と聞きますし、湯治も気になるので、隠遁するには最適ですわ。ですのでエイレーネ様。ベルデ王に一筆書いていただけませんこと?」

「承知いたしました。ジェーン、紙と筆を」

「はい。ただ今」


 エイレーネは請われた通り、祖国への書状を認める。淀みなく筆を進め、あとは封蝋をするのみとなった時、彼女はユカルに小刀を所望した。


「は……小刀ですか?」


 躊躇いがちに差し出されたそれを受け取ると、一同が固唾を飲んで見ている中で、エイレーネは己の髪を一房切り落とすのだった。最も狼狽したのはリファトである。ミランダでさえ、浮かべていた笑みを消し、目を丸くしている。エイレーネは周囲の困惑など意に介さず、手早く髪を紐で括り、書状に同封した。


「……あなた、自分が何をしているか、分かっているのかしら。それは、わたくしに遺髪を託すという事よ」


 遺髪とは故人の形見を指すものだが、いつ死ぬとも分からない人間が、予め残しておく場合もある。そして遺髪を託されるのは家族か、ごくごく親しい友人に限られる。つまりエイレーネは「ミランダ様はわたしの最期を委ねるに値する方ゆえ、手厚く保護してください」とベルデ国に頼んだも同然だった。元王女の腹心とあっては、ベルデ国も丁重に扱わねばならない。無礼を働こうものなら、エイレーネへの不敬に当たる。平民に成り下がったミランダには、破格の待遇であった。


「つくづくお優しいのね、あなたって。愛さえあれば何でもできるって思考の持ち主は、理解できないわ」


 しかし、苦々しく吐き捨てるミランダの母親こそ、まさにそういう人間であった。好いた男に利用されているだけとも知らず、盲目的に愛の言葉を紡ぎ、差し出せるものは全部差し出し、破滅していった。母は子供だったミランダを抱き締めては「あなたはあの人との宝物よ」と幸せそうに語っていた。だが結局、ミランダは母の愛した男との子供ではなかった。愚かな母親は騙されている事に気付かないまま、路地裏で冷たくなっていた。

 遠いあの日、陽の差さぬ裏路地で彼女は誓ったのだ。母のような人生は送らない、母のようにはなるまいと。


「ねえ? エイレーネ様。あなたは何故そうやって、見返りの期待できない親切を安売りするのかしら?」


 ミランダは母の亡骸を見て学んだのだ。この世界はお人好しが損をするようにできている。打算も駆け引きも知らない、善良な人間から死んでいく。ミランダにはエイレーネも、母と同類の人間に見えた。

 嫌悪感を隠すこともしないミランダへ、エイレーネはひたすら真っ直ぐ対峙する。


「親切を示すのは、誰の目から見ても正しい事だからです」


 きっぱりと断言するエメラルドグリーンの瞳は、一点の濁りも無く澄み切っていた。

 ミランダは束の間、言葉を失う。もっと違う回答が返ってくると思っていたのだ。相手の笑顔を見ると幸せになるから、とか。親切は巡り巡って返ってくるから、とか。ミランダが鼻で笑うような、善人然とした理屈から来る行いだとばかり。しかしエイレーネは、ごく簡潔に述べた。


──誰の目から見ても正しい事。


 念頭にあるのは常に正邪曲直。民の目に映る姿は清く、気高く在らねばならない。己の生き方を以って、人々を正しく導く。それが王女と呼ばれ、姫と呼ばれ、妃と呼ばれる女人の在り方なのだ。


「それに、受けた恩を仇で返すのは道理に反します。リファト殿下を助けてくださった事について、髪の一房では到底足りない程の恩義を感じておりますゆえ、どうぞ遠慮なくお受け取りください」


 可憐に笑うエイレーネ。そんな彼女に、ミランダは敗北に似た気分を味わっていた。女としての魅力も、知性でさえ貴族に引けを取らないミランダは、事実、所作においてはエイレーネをも凌駕している。この世で最高の女だという自負もあった。

 けれど、ほんの一瞬とは言えエイレーネに対し、平伏すに値する相手だと感服してしまった。尊敬の念を抱く己の胸中に気付いてしまったのである。王族の真似事をしていた平民では、真の王族にはなれない。母親の胎にいる時から王族である事を課せられ、その定めに応えんとした者とは覚悟の質が違う。ミランダは正しく在る事を理由に、己の身を削ってまで他人に親切は示せないのだ。


「……母のこと、最後まで嫌いにはなれなかったのよね」


 観念したような響きを持った独り言は、空気に溶けて消えていった。エイレーネとミランダ、お互いの生き方は相容れない。ミランダの念頭には常に損得感情がある。合理的である事は彼女の武器でもあった。愛だの優しさだのそんなものは何の武器にもなりやしない、自分の首を締めるだけと思ってきた。だって己の母がそうだった。世の中の無情をこの目で見たのだ。でも、そうやってミランダが忌避していたものでしか……エイレーネでなければ救えなかった人々もいるのだろう。

 親切な人間は損をする。されど万人に好まれる人柄というのは結局のところ、心に真の優しさを持つ人間の事なのである。

 書状を受け取ったミランダは、ゆっくりと立ち上がる。そしてカーテシーと呼ばれるお辞儀を披露するのだった。


「リファト殿下並びにエイレーネ妃殿下。この度は格別のご高配を賜り、深く感謝申し上げます。お二方のご多幸をお祈り申し上げると共に、ご自愛専一にお過ごし下さいませ」


 それはそれは素晴らしいカーテシーであった。国王をも唸らせたに違いない。平々凡々な生まれだった彼女の、並々ならぬ努力の集大成だった。優れた美貌だけで王の寵愛を独占し続ける事はできない。知性を兼ね備え、あらゆる努力を惜しまなかったミランダだからこそ、時の運を味方につける事ができたのだ。


 闇夜に紛れる直前、ミランダは徐に二人を振り返った。


「……陛下は生前『目障りな王妃が消える日も近かろう』と仰っていました。それが陛下の死に繋がったとわたくしは考えております」

「母上が毒殺を試みた、と?」

「あくまでわたくしの憶測です。探ろうとしたのですが、時間が足りませんでしたわ。狂気の沙汰に陥った人間ほど、始末におえないものはございません。くれぐれも油断なさいませんよう」


 ミランダは最後にとびきりの笑みを浮かべた。それはまるでエイレーネへ贈る激励のようであった。

【補足①】

本当なら愛妾は国王の最期を看取る事は許されません。崩御の前に王宮から出て行くのが通例です。しかしギャストン王は最期までミランダをそばに置き、王妃や王子でさえ寝所に寄せ付けませんでした。周囲から強い反発を受けても、国王はミランダへ愛を伝え続けました。


【補足②】

ミランダの母親は娼婦でした。ひどく貧しい生活でしたが、母は娘を大切に育てました。しかしミランダは、母の言う"あの人"ととの子だから大事にしてくれるだけだと思い、複雑な心境でした。しかし仮に母が真実を知ったとしても、娘を捨てる光景はどうしても想像できず、だからミランダは母親のことが最後まで嫌いになれなかったのです。「母のようにはならない」と誓っていますが「あんな人を母親に持ちたくなかった」という気持ちにはなった事がありません。母みたいな優しい人を見ると、何となく放っておけなくてミランダは苛々してしまうのです。

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