35 棄てるか、守るか
「うお。防げ防げ。奴らを近付けるな」
羊耳は手勢よりはるかに多い賊徒に恐れをなして三十六計を決め込む始末だ。賊は顔琉達にも見境なく襲ってきた。
「多勢に無勢か。豎子には強がりを言うたものの、さて、どうしたものやら」
顔琉が鉄棍を担いで途方に暮れると粛が堪らず、
「おいおい爺さん。何とかなりそうとか、天の助けかってのは、ありゃハッタリかよ。勘弁してくれよ」
「仕方あるまい。ああでも言わねばあの豎子はグズグズして、逃げる決断さえできぬであろう。あれでは助かるもんも助からんわい」
額彦命が口を挟む。
「私達三人。背中合わせで円陣組めば、取り敢えず敵の攻撃防げる」
「おう、そういえばお前さんは確か倭国の戦士であったのお。こいつは頼もしいわい。では、その策を採用させて貰うとするか」
いつの間にか頭数に入れられている粛は納得いかなかったが、この急場を凌ぐには従う他なさそうだった。
一方、離脱した審判の眼前にも賊が迫っていた。三百六十度包囲されていたのだから当然である。
「どけっ。お前らの相手をするほど暇じゃない」
向かってきた賊徒を審判はたちまち蹴散らした。倉亭で酷い負け戦を味わった経験が活きた。前に座る甄梅が気懸かりではあったが、馬上の有利があれば歩兵の賊など敵ではない。顔琉が言った通り、乗る馬は駿馬であった。戦の肝を心得ている。
審判が手強いと見るや賊は及び腰になった。命令を受けて戦闘を行う軍隊とは違い、賊は個を優先する傾向が強い。徹底して攻めきれないのだ。だが、それは事態に応変できる長所を持つ。
歩兵が恐れをなしたと見るや十騎ほどの騎兵が前に出た。こうなれば馬上の有利はない。敵は長物を装備しているのに対し、審判の武器は剣。しかも前には甄梅を乗せている。最早ここまでかと諦めかけたが、その甄梅の存在が思わぬ光明をもたらした。甄梅を認めた賊は手を出すのを躊躇っている。その理由はなんとなく見えた。五体満足で甄梅を捕らえ、下衆な楽しみにする気であろう。ならばせいぜい利用させて貰うまでだ。
敵が攻めあぐねている隙を突き、審判が次々敵騎兵を叩き落す。包囲もやがて薄くなり、何とか突破できるかと思ったのも束の間、すぐに別働隊が追いついてきた。やはり駿馬とはいえ、二人乗りでは追いつかれる。審判は内心舌打ちした。いっそ甄梅など放り捨ててしまえば逃げ切れるのに、とも思うが、それでは本末転倒である。すると、そんな審判の心を見透かすように甄梅が言った。
「私をここで降ろして下さい」
「何っ」
雑音でよく聞こえなかったが、心を読まれた気がした審判は聞き返した。
「もう、よいのです。私が禍を呼ぶのです。ここで私を捨てれば、禍から逃れられます」
甄梅の言わんとするところは理解できる。だが、巫蟲や呪詛などといった迷信じみた話をこの娘もまた、信じ込まされている事実に審判は憤った。今、ここで自分が甄梅を見捨てればどんな目に遭うか分からぬ訳でもあるまい。審判には甄梅の自虐的な考えを受け入れることができなかった。禍を招くのは人の業だ。禍を定義付けるのは人の心だ。今までの敗戦で審判は嫌というほど見てきた。人の愚かさがどんな禍をもたらすのかを。
「勝手なことを言うな。禍ってのはそんな甘いもんじゃない。禍から一時逃げたって、またすぐ追いつかれるのがオチだ」
審判は叫んだ。甄梅に向けて言ったというより、自分にそう、言い聞かせた。勝手を言っているのは自分の方だというのは分かっている。甄梅を丹城から連れ出したのは私利私欲だ。では甄梅の言うところの禍の最たるものは審判自身ではないか。その自分に甄梅は逃げろと言う。自分のやましい気持ちを看破された気がした。審判は意地でも甄梅を守り抜こうと思った。そうすることで、自分の後ろめたさをごまかしたかったのだ。
審判は大声で喚きながら賊徒を蹴散らした。前に座る甄梅が怯えているのが分かる。だが、何か過去から追ってくる、禍のようなものを振り払いたかった。自分を闇に引き摺り込もうとする何者かを打ち払いたい気持ちを賊にぶつけていた。
その迫力に圧されたか、賊は次第に遠巻きになり、二人を取り囲んだまま併走し始めた。審判は馬上で賊を威嚇し寄せ付けない。が、ここにきて突如馬の足が止まった。賊に囲まれたまま、二人は立ち往生となった。
「何で止まるんだ。走れよ」
審判が怒鳴って馬腹を蹴るが、馬は動こうともしない。ここまでろくに餌も与えず、長旅の挙句、二人乗りで戦闘となればいかに駿馬といえど動けなくなるのは当然だった。