107話 殺手 上
長くなったので分割しました。
雪が散らつく中、リオンクール軍は西の要塞を目指した。
最早、敵が迎撃に出てくる様子はなく、要塞は静まり帰っている。
「おいおい、見張りどころか門が開けっ放しだぜ?」
「ふむ、また逃亡したのかもな……」
ロジェがあまりの無防備さに呆れ、アンドレはまたもや敵が逃げ出したのかと疑っている。
行軍中にロジェとアンドレが俺にくっついているのは珍しいパターンだが、これは少し軍の編成を見直したためだ。
西の要塞奪還に燃えるポンセロが先陣を志願したためにピエールくんと共にアンドレたちと入れ替わったのである。
「いや、さすがに王都の支援を受けて逃げたら再起は無理だろ……完全に諦めたならまだしも……待てよ、空城計か?」
空城計とは三十六計に記された計略である。
城や陣の門を開け放ち、敵将に「何か罠があるのでは無いか」と警戒させたり、戦力の錯覚を起こさせる計略のことだ。
用心深い将であるほど無防備な様子に警戒心を煽られ、疑心暗鬼に陥ると言われている。
三國志では有名な諸葛孔明や趙雲、ややマイナーではあるが文聘が使い手として知られており、日本でも徳川家康が用いた逸話が残る。
俺はブツブツと呟きながら考え込むが、どうもこの手の探り合いは苦手だ。
……でも、ボードワンのお陰で考える癖はついたな……この前の戦いだって伏兵を見破れたし……
俺はつい関係ないことを考えながらぼんやりと城を眺める。
常に俺の裏をかき続けたボードワンを相手にしている内に、いつの間にやら俺も鍛えられたようだ。
経験とは誰にとっても偉大な師である。
「考えても仕方ない。不測の事態に備えながら進め」
俺は前進を指示し、さらに要塞に迫る。
すると、がら空きの城門から敵兵が逃げ出し始めた。
てんでバラバラの逃げ方であり、作戦行動とはとても思えない。
「おいおい、本当に落城か? 何もせずに?」
ロジェは呆れているようだが、弱り目の軍が脆いのは事実である。
兵士とは自軍が有利になると強くなり、不利になると途端に逃げ出したりするものなのは事実だ。
……しかし、それにしても極端すぎる気がするな……
怪しいと見れば全てが怪しく見える。
先だって対決した軍は数こそ少なかったが士気は高く、統制もとれていた。
今のだらしなさとは繋がらない。
「分からんな……どうにも」
俺が首を傾げていると要塞から軍使が訪れた。
それはバシュラール子爵の庶兄、ボードワンからの降参の使者であった。
………………
数度、使者を行き来させた後に俺はボードワン自身をリオンクールの陣中に招き寄せることにした。
要塞に何か罠があろうとも、ボードワン自身を人質にとり、それを防ぐ心積もりである。
リオンクール軍は陣を整え、主だった家来たちは本陣へと集まっていた。
今はまだボードワンは到着しておらず、場はくつろいだ雰囲気だ。
「子爵では無く庶兄とは……子爵に何かあったのは間違いありません」
「そうだな、それは間違いない」
ドーミエとアンドレが頷き合っている。
確かに降参の使者を出したのが子爵で無いのは彼らの異変を示唆している。
「多少の罠があっても攻めて良い気がするけどな」
「判断が難しいですね……確かに敵は死に体ですが、一筋縄ではいかない曲者です」
シモンとピエールくんも意見を交換しているが、確かにシモンの意見も一理ある。
今さら多少の被害が出ようとも戦局に影響は無いだろう。
……少し、過敏になりすぎているのかも知れないな……
俺は自らの用心深さをバカバカしくも思うが、ボードワンは何度も煮え湯を飲まされた相手なのだ。
用心して用心し過ぎと言うことは無いように思える。
「お出ましですぜ」
「馬車とは、恐れ入ったな」
ジローとデコスが軽口じみた口調でボードワンの到着を告げた。
ボードワンは馬車でこちらに来たらしい……これは珍しいことだ。
通常、騎士身分のものは病気でも無ければ騎乗にて移動するものである。
……病弱だとは聞いているが……
馬にも乗れない病状だとすれば重症である。
子爵に異変があり、ボードワン自身も病が篤かったならばバシュラール軍が統制を失ったことも合点がいく。
数騎の護衛に守られた1台の馬車が到着し、俺とは少し離れた場所で停車した。
杖にすがり付くように男が下り立つ。
……老人? いや……
俺は我が目を疑った。
老人では無い。
男は体を大ききく捻る異様な体勢のまま、杖にすがり付くように歩みを進める。足の長さが左右非対称だ。
これは恐らく脊椎側彎症、背骨が側方に彎曲したり、捻れが生じる病気である。
先天的に異常がある場合もあるが、後天的に発生する場合も少なくない。
原因は良くわかっておらず、効果的な予防法も根本的な治療法も見つかっていない。
この男は見る限り、かなりの重症である。足の長さが左右で違って見えるのも体のバランスが崩れているためであろう。
……まさか、これがボードワンなのか……
俺はゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ。
男は病的なほど痩せている。
極端な脊椎の歪みにより内蔵にも影響が出ているのかも知れない。
まだ20代の若さであるはずだが、杖にまとわりつく枯れ木のような印象で、およそ生命力というものを感じさせない弱々しさだ。
男は俺の前まで弱々しく歩き「ボードワン・ド・バシュラールです」と名乗った。
周囲にどよめきが起こり、シモンなどは失笑を漏らしている。
若いシモンからすれば武門に連なる者が杖にすがるのが可笑しく感じたのだろう。
だが、放置してはいけない。
これは正式な降参であり、ボードワンを辱しめる場ではないのだ。
「鎮まれ、バシュラール卿は俺を恐れさせる真の勇士だ」
俺は穏やかに、だが有無を言わせぬ力を込めて言葉を続ける。
「このバリアンは敵が幾千あろうとも決して怯まない。だが、バシュラール卿の知略には何度も苦しめられ、その恐ろしさは身に染みている。バシュラール卿を嗤うことは俺の武勇を嗤うのと同義だ」
俺はそう告げるとシモンをジロリと睨み付けた。
彼は己の行いを恥じ、シュンと項垂れている。
……まあ、いい。反省できるなら上出来だ……今はそれよりも……
俺は視線を戻し、ボードワンと向き合った。
シモンでは無いが、確かに意外ではある。
病弱とは聞いていたが、俺のイメージは竹中半兵衛のような……肺病とかで苦しむ線の細い怜悧な武人だったのだが、杖が無ければ立つことも出来ぬ姿とは想像もしていなかった。
これでは廃嫡されるのも無理はない。
しかし、鋭い目付きだけが想像した彼の姿と重なっていた。
「お心遣い、痛み入ります」
ボードワンは静かに礼を述べ、僅かに頭を揺すった。
恐らくは頭を下げたつもりだろう。
「我らバシュラールはリオンクール卿に降参いたします」
彼は静かに降参の意思を告げた。
弱々しいが、力みの無い、澄んだ声音である。
「受け入れましょう」
俺が応じるとボードワンは静かに瞑目した。
しかし、思うところはあるようで、悔しさが滲み出ているようにも見える。
「……して、バシュラール子爵は如何なさいましたか?」
俺がバシュラール子爵について尋ねた……これは当たり前の事ではある。
またも子爵に逃げられて再起されては堪らない。
「弟……子爵は……」
その時、静かだったボードワンの様子は一変した。
ギリリと歯噛みし、こちらを睨み付けたのだ。
恨みが人を傷つけるのならば、俺は無傷ではいられまい……そう感じるほどの敵意が籠められている。
「リオンクール卿が放たれた刺客に、トゥーサン・ド・ベリの凶刃に倒れました……弟はベリの名誉を重んじ帯剣を許し……私はそれを見ぬけなかった……」
ボードワンは血を吐くように言葉を紡ぎ、それを聞いた俺は強い衝撃を受けた。
……まさか……トゥーサンが……そうか、それで全てが繋がった……
確かに俺はベリ親子にボードワンの暗殺を命じていた(88話参照)。
命じた俺からすれば「当たれば儲け」くらいの話だったが、トゥーサンは律儀に俺の命を果たせる状況で事を成したのだ。
なぜボードワンでは無く子爵を暗殺したのかは分からないが、敵の総大将は討ち取られ、とっくに勝敗は決していたのである。
ボードワンがいかに優れた知者であろうとも、不具の身では兵は従わない。
武門の棟梁として廃嫡され、醜く病んだ彼では兵を統率できず、軍は空中分解したのだ。
アモロスで軍を率いるのに、体の壮健さは最低条件である。
……トゥーサン、良くぞ、良くぞやってくれた!
絶体絶命の危機を1人の忠臣が救ったのだ。
しかも、命じた俺ですら忘れていたような無茶を成し遂げて。
暗殺の道義的な問題はこの際どうでも良い。
俺はトゥーサンの忠義に感動した。
「リオンクール卿、私は卿が恨めしい……弟は我らの希望でした。万に迫る寄せ集めの兵を統率し、周囲にリオンクールの包囲を呼び掛け、半ば事は成就していたのです……それを……」
ボードワンは俯き、体を震わせている。
周囲がざわつき、動揺した。
彼らはこの暗殺のことは何一つ知らなかったはずだ。
さすがに暗殺などとは褒められた行いではなく不名誉である。
部下が動揺するのも無理はない。
だが、不名誉で戦に勝てれば俺に不満はない。
もともと、リオンクールは外交的に孤立しがちで、俺の評判は最悪なのだ。
……既に失う名誉など無いし……それに師なら『よくぞしてのけた』と大笑するはずだ……
アルベールの教えは道徳や名誉を考慮せず、ただひたすらに勝利のみを目指す恐るべきものであった。
『騎士は勝つのが本分だ』
この年になって初めてアルベールが俺たちに伝えてくれた兵法の凄みが理解できた気がする。
卑怯と呼ばれることがなんだ、俺は負けることが嫌だ。
負ければ皆が多くのものを失う……そんなことが許せるものか。
『他から奪い、皆に分ける』
これが俺の、理想の君主の姿なのだ。
「見事です、残酷なほどに。卿の一手は的確に我が軍の急所を貫いた……完敗です」
ボードワンの目は血走り、口から血が滲む。
歯を食いしばり過ぎて口中を噛みきったのかも知れない。
病者の怒りは得も言われぬ迫力があり、怨念じみた語り口は周囲を威圧した。
……まあな、暗殺をされた側としては言いたいことも山ほどあるだろうさ……
彼の口惜しさや怒りは良く理解できる。
しかし、いつまでもボードワンの恨み節を聞いているわけにもいかない。
俺は軽く手を上げて彼を制した。
「降参の条件はバシュラール家の全領地の没収、領有権の完全放棄、そしてバシュラール卿……貴殿の首だ。一族の誰かに土地を与え、家門の相続は約束しよう」
俺が条件を告げるとボードワンは「ご厚情に感謝します」と礼を述べた。
無条件降服ではあるが、バシュラールの一門を族滅などしてはかえって民心は離れるだろう。
脅威たり得るボードワンのみ排除し、傍流の誰かを小領主としてリオンクールの隅っこにでも飼い殺すのが無難だ。
本音を言えばボードワンを部下にしたいところではある。
俺を苦しめた好敵手……ライバルを仲間にする展開は大好きだが、これは無理だ。
彼の感情としても弟を暗殺した俺に従うのは難しかろうし、何よりバシュラールの嫡流に近すぎる。
ボードワンが不具だとは言え、彼の息子がそうだとは限らない。
彼の息子ならば、俺を苦しめた名将の子であり嫡流の甥である……旗印には十分だ。
「残念だ。貴殿がリオンクールに生まれていれば共に語らいたかった」
俺が本音を漏らすと、彼は苦笑し首を振った。
「リオンクール卿が側にいては私は妬心の虜となっていたでしょう。卿は私が欲しかったものを全て備えている」
ボードワンは「戦の始末を致しましょう」と述べ、杖にすがり付くように馬車へ向かった。
降参の証に城を引き渡すのだろう。
……戦の始末、か……
俺は彼の細い背中に深い哀愁を感じた。