一人用の鍋を買った夜、会社で一番苦手な先輩に泣いてるところを見られたら「お前の『一人分』、俺が全部壊してやる」と言われました
「三年間、ありがとう。でも俺、お前といても――ときめかないんだよね」
言葉って、こんなに簡単に人を殺せるんだ。
駅前のカフェで、紅茶が冷めていくのをぼんやり眺めていた。向かいに座る翔太の口が動いている。『嫌いになったわけじゃない』『お前は悪くない』『楽だったよ、一緒にいて』。
楽。
ああ、そうか。私は三年間、この人の「楽」だったのか。
記念日には手料理を作った。疲れてるときは何も言わず隣にいた。愚痴も夢も、全部聞いた。尽くして、尽くして、尽くして――その結果が「楽だけど、ときめかない」。
笑えてくる。
「……わかった」
私の声は、思ったより平坦だった。
「え、それだけ?」
翔太が戸惑った顔をしている。なに、泣いて縋ってほしかったの? それとも怒ってほしかった? どっちにしても、あなたが「悪者にならない」シナリオでしょう。
「うん、それだけ。三年間ありがとう。元気でね」
席を立つ。足が震えているのは気づかないふりをした。
泣くのは、一人になってからでいい。
◇
スーパーの明かりが、やけに眩しい。
時刻は夜の九時過ぎ。終電間際の駅前スーパーは、仕事帰りのサラリーマンと、私みたいな「何かから逃げてきた人間」でごった返している。
鍋コーナーの前で、私は立ち尽くしていた。
一人用の土鍋。
直径十八センチ。一人分の出汁にちょうどいいサイズ。蓋には可愛いクマの絵が描いてある。値段は千二百円。
……これを買おう。
翔太と付き合ってた三年間、鍋はいつも二人分だった。白菜を四分の一、豚バラを二百グラム、〆のうどんは二玉。「俺、鍋奉行な」って言いながら、翔太はいつも火加減にうるさかった。
もう、そんな必要ないんだ。
白菜は八分の一でいい。豚バラは百グラム。うどんは一玉。全部、半分。
私の人生も、半分になった。
……いや、違う。元に戻っただけ。一人分に戻っただけ。最初から私は一人だったんだから。
大丈夫。慣れてる。一人は慣れてる。
土鍋に手を伸ばした、その瞬間。
「それ、俺も買おうとしてた」
低い声が、すぐ隣から降ってきた。
心臓が跳ねる。振り向くと、見覚えのある横顔があった。
切れ長の目。無表情。百八十センチを超える長身に、仕事帰りなのかスーツ姿のまま。
――嘘でしょ。
「……氷室、先輩」
営業部のエース。社内で「氷の王子」と呼ばれている男。私が会社で一番苦手な人。
氷室蒼介がそこにいた。
「藤崎か」
その声には、驚きも喜びもない。まるで自販機でコーヒーを買うみたいに、淡々と私の名前を呼ぶ。
「あ、えっと、これ、先輩が先なら……」
「いや、被っただけだ。好きに取れ」
被った。この人と私が、一人用の土鍋を買おうとしたタイミングが被った。
なんだろう、この状況。笑っていいのかな。
「……被りましたね」
とりあえず、そう言ってみた。
氷室先輩は答えない。代わりに、私の顔をじっと見下ろしている。その視線が、やけに鋭い。
「お前、泣いてるぞ」
「え?」
反射的に頬に触れる。指先が、濡れていた。
……あれ。おかしいな。泣くのは家に帰ってからって決めてたのに。
「泣いてないです」
「目、真っ赤だが」
「花粉症です」
「十一月だぞ」
「秋の花粉症もあるんです」
「……」
氷室先輩が黙った。その沈黙が、なんだか責められているみたいで居心地が悪い。
「大丈夫です。慣れてるので」
口癖のように、その言葉が出た。
大丈夫。一人は慣れてる。泣くのも慣れてる。傷つくのも、慣れてる。
「……慣れてる、か」
先輩が小さく呟いた。
そして次の瞬間、私の手から土鍋が奪われた。
「ちょっ、先輩!?」
「来い」
「は?」
「肉と野菜は俺が選ぶ。お前は卵を二パック取ってこい」
「いや、意味がわからないんですけど」
「うるさい。いいから来い」
長い足で、さっさと精肉コーナーに向かっていく。
置いていかれる。このままだと土鍋も持っていかれる。というか、なに、この展開。
「先輩、待ってください! 私、帰りますから!」
「帰ってどうする」
振り返らずに、先輩が言った。
「一人で泣くのか。コンビニ弁当でも食いながら」
「……っ」
図星だった。
帰ったら、きっとシャワーを浴びながら泣く。そのあとコンビニで買った何かを食べて、布団に潜り込んで、朝まで泣く。そういう予定だった。
「一人用の鍋を、一人で食うな」
その言葉に、足が止まる。
「余計なお世話です」
「そうだな」
「先輩に関係ないです」
「ああ、関係ない」
なのに、どうして。
「でも俺も一人分の鍋を買いに来た人間だ。お前と条件は同じだろう」
氷室先輩がようやく振り返った。
相変わらず無表情。でも、その目がほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
「一人用の鍋を、二人で食う。それだけだ」
「……それ、先輩にメリットないですよね」
「ない」
「じゃあなんで」
「さあ」
先輩が首を傾げた。本気でわからない、という顔だった。
「放っておけなかった」
◇
気づけば、私は氷室先輩のマンションにいた。
「……お邪魔、します」
「入れ」
ワンルームだと思っていたら、意外と広い1LDK。家具は最低限だけど、キッチンだけやたら充実している。調理器具がずらりと並んでいて、まるで料理好きの一人暮らし男子の見本みたいだった。
「座ってろ」
先輩がスーツの上着を脱いで、袖をまくる。そして棚から取り出したのは――紺色のエプロン。
「え」
「なんだ」
「いえ……」
似合う。めちゃくちゃ似合う。
氷の王子が、エプロン姿で白菜を切っている。なにこのギャップ。会社の女子が見たら卒倒するやつだ。
「ぼーっとしてないで、鍋洗え」
「あ、はい」
言われるままに土鍋を洗う。新品だからそのまま使えるはずなのに、先輩は「一回洗え」と譲らなかった。
「おろしたては割れやすい。目止めしてから使う」
「め、目止め……」
「お粥を炊く。それで土鍋の細かい穴を塞ぐ」
「はあ……」
なんか、すごく本格的だ。
「今日は時間がないから省略するが、本来はそうするもんだ」
「先輩、料理好きなんですか」
「嫌いじゃない」
そっけない返事。でも、出汁を引く手つきが明らかにプロだった。昆布と鰹節で取った一番出汁の香りが、狭いキッチンに広がる。
「出汁、美味しそう……」
「当たり前だ」
相変わらず無愛想。でも、その横顔がなんだか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「座ってろ。すぐできる」
「あの、私も何か」
「いい。座れ」
「でも」
「お前は客だ」
「勝手に連れてきたくせに……」
「そうだな」
悪びれもしない。
私はおとなしくローテーブルの前に座った。クッションが一つしかないのが、この部屋の住人の生活を物語っている。
「先輩も、一人暮らし長いんですか」
「十年」
「十年……」
「大学から一人だ」
「ご実家は」
「ない」
その言い方には、明らかに触れてほしくない色があった。
「……すみません」
「別に。事実だ」
鍋に火が入る。白菜と豚バラが、出汁の中でくつくつと煮える音がした。
「一人分の鍋は、二人で食うと美味くなる」
先輩がぼそりと言った。
「……どうしてですか」
「さあ。でもそういうもんだ」
返事になっていない。でも、湯気の向こうの先輩の顔が、さっきより少しだけ穏やかに見えた。
「ほら、食え」
小さな土鍋が、テーブルの真ん中に置かれる。一人用のはずなのに、やけに豪華に見えた。白菜、豚バラ、豆腐、しいたけ、ネギ。色とりどりの具材が、黄金色の出汁に浮かんでいる。
「……美味しそう」
「当然だ」
先輩が向かいに座る。一人用の鍋を挟んで、二人で向かい合う形になった。
「取り皿」
「あ、ありがとうございます」
箸で白菜をつまむ。口に入れた瞬間、出汁の旨味が舌の上に広がった。
「……おいしい」
「そうか」
「すごく、美味しいです」
目の奥が熱くなる。
おかしいな。鍋を食べてるだけなのに。白菜を噛んでるだけなのに。
「っ……」
涙が、止まらなかった。
「……泣くな」
「泣いてないです」
「嘘つくな」
「だって……」
箸を置く。もう誤魔化せなかった。
「三年、付き合ってたんです。結婚するって、思ってた。なのに『ときめかない』って。私じゃ足りないって。尽くしても、尽くしても、全然……っ」
声が震える。みっともない。会社の先輩の前で、こんな。
「ごめんなさい、私、帰り……」
「帰るな」
「でも」
「いいから食え」
先輩が、私の取り皿に豚バラを乗せた。
「食って、泣いて、寝ろ。それでいい」
「……先輩」
「お前を振ったやつは馬鹿だ」
その言葉に、息が止まった。
「尽くされて、ときめかない? 意味がわからない。贅沢すぎて反吐が出る」
先輩の声には、明らかな怒りが混じっていた。私のことなんか何も知らないはずなのに。関係ないはずなのに。
「お前は悪くない。お前を選ばなかったやつが、ただ見る目がなかっただけだ」
「……っ」
「だから泣くな。そんなやつのために泣く必要ない」
無愛想な声。ぶっきらぼうな言葉。
なのに、どうしてこんなに胸に刺さるんだろう。
「……先輩」
「なんだ」
「どうして、そんなこと言うんですか」
「さあ」
先輩が鍋をかき混ぜた。
「わからない。でも、お前の『諦めた顔で笑う姿』が、気に食わなかった」
諦めた顔。
私、そんな顔してたんだ。
「大丈夫です、慣れてるので」
「それだ」
「え?」
「その言葉。ずっと聞いてた。お前、何かあるたびにそう言う」
「……」
「慣れてる、じゃない。諦めてるんだろう」
図星だった。
一人で生きていける。誰かに頼らなくても平気。傷ついても、立ち直れる。全部、諦めの言い換えだった。
本当は、誰かに言ってほしかった。
『一人にしない』って。『そばにいる』って。
でも、そんなこと言ってくれる人なんかいないから。だから、諦めた。
「……先輩、私のことそんなに見てたんですか」
「見てた」
即答だった。
「え」
「お前、いつも一人で昼飯食ってるだろう。屋上の端っこで、おにぎり二個」
「な、なんで知って」
「俺も屋上で食うからだ。お前より先に」
知らなかった。全然気づかなかった。
「お前が来る前に俺は移動する。鉢合わせると気まずいだろう」
「そ、それは……ありがとう、ございます?」
「礼を言われることじゃない」
先輩が溜息をついた。
「お前、俺のこと苦手だろう」
「……っ」
「わかってる。俺は愛想がない。話しかけづらい。だから距離を取られても仕方ない」
「あの、それは……」
「でも」
先輩の目が、まっすぐ私を見た。
「俺は、お前のことを見てた。ずっと」
心臓が、おかしな音を立てる。
「今日、スーパーで会ったのは偶然だ。でも、お前が泣いてるのを見て、放っておけなかった」
「……」
「理由はわからない。でも、お前を一人で泣かせたくなかった」
鍋の湯気が、二人の間を揺らめいた。
「……先輩」
「なんだ」
「私、どうしたらいいですか」
その問いに、先輩は少しだけ黙った。
そして、手を伸ばした。私の頭に、大きな手のひらが乗せられる。
「とりあえず、食え。話はそれからだ」
ぎこちない手つき。でも、その温度がやけに優しかった。
「〆は雑炊にする。残すな」
「……はい」
涙を拭いて、箸を取り直す。
白菜も、豚バラも、さっきよりずっと美味しかった。
◇
気づけば、鍋は空になっていた。
「雑炊、できたぞ」
先輩が、卵でとじた雑炊をよそってくれる。黄金色の出汁を吸った米が、ふっくらと艶めいている。
「あの、ありがとうございます。こんなに良くしてもらって」
「いい。俺も久しぶりに二人分作った」
「先輩も、普段は一人なんですよね」
「ああ」
「……寂しくないですか」
「慣れてる」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「先輩も同じこと言うんですね」
「まあな」
「じゃあ先輩も、諦めてるんですか」
「……」
先輩が、珍しく言葉を止めた。
「諦めてた、かもな」
「かもって」
「今日までは」
雑炊を口に運ぶ。出汁を吸った米が、じんわりと胃に染みる。温かい。体の芯から、溶けていくみたいだ。
「お前の一人分、俺が壊してやる」
「……え?」
顔を上げる。先輩の目が、さっきまでと違っていた。
熱を、帯びている。
「一人用の鍋も、一人分の飯も、一人で泣くことも。全部」
「先輩、それって……」
「……さあ。俺にもわからない」
先輩が、困ったように眉を寄せた。
「ただ、お前が一人でいるのを見てると、苛々する。お前が泣いてると、腹が立つ。お前が『慣れてる』って言うと、殴りたくなる」
「それ、全部物騒なんですけど」
「そうだな」
でも、その目は笑っていなかった。
「俺は不器用だ。言葉も足りない。お前に好かれる自信もない」
「……」
「でも、お前を一人にしたくない。それだけは、はっきりわかる」
雑炊の湯気が、ゆらゆらと立ち上る。
一人分の鍋を買いに行った夜。私の恋は終わったはずだった。
なのに。
「……先輩」
「なんだ」
「雑炊、おかわりいいですか」
そう言った私の声は、たぶん、泣いていた。でも、さっきとは違う涙だった。
「……食えるだけ食え」
先輩がおたまを持ち上げる。
一人分のはずの鍋は、いつの間にか二人分の雑炊に変わっていた。
◇
時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
「あの、私そろそろ……」
「送る」
「え、いいですよ。駅まで近いし」
「送る」
有無を言わさない声だった。
玄関で靴を履いていると、先輩が後ろから声をかけてきた。
「藤崎」
「はい」
「明日の昼」
「……昼?」
「屋上で食え。俺も行く」
振り返ると、先輩は相変わらずの無表情だった。でも、その耳がほんの少しだけ赤い気がするのは、気のせいだろうか。
「……先輩が来たら、私が移動することになりますけど」
「移動するな」
「でも」
「弁当、作ってくる」
「……は?」
「二人分」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……私、先輩のこと苦手でした」
「知ってる」
「でも」
言葉を探す。うまく言えない。でも、言わなきゃいけない気がした。
「今日の先輩は、苦手じゃなかったです」
先輩が、一瞬だけ目を見開いた。
そしてすぐに、いつもの無表情に戻る。でも、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
「……そうか」
「はい」
「なら、明日も苦手じゃなくしてやる」
「それ、どういう意味ですか」
「さあな」
ドアが開く。十一月の夜風が、頬を撫でていった。
「送るぞ」
「……はい」
先輩の隣を歩く。一歩、二歩。その距離が、さっきより少しだけ近くなった気がした。
「先輩」
「なんだ」
「一人用の鍋、先輩も買おうとしてたんですよね」
「ああ」
「じゃあ今日、先輩も一人で食べるはずだったんですね」
「……そうだな」
「なのに、私に譲ってくれた」
「譲ったんじゃない」
先輩が立ち止まった。私も、つられて立ち止まる。
「一緒に使っただけだ」
街灯の明かりが、先輩の横顔を照らしている。
「一人用を、二人で」
「……はい」
「だから、これからもそうする」
その言葉の意味を、私はちゃんと理解していた。
一人分の鍋を買った日、私の恋は終わったはずだった。
でも、終わりは始まりでもあるらしい。
「先輩」
「なんだ」
「私、明日からお弁当作ってこようかな」
「……来るな。俺が作る」
「でも」
「うるさい。お前は食うだけでいい」
相変わらず、ぶっきらぼうだ。
でも、その不器用さが、今はなんだか愛おしかった。
「わかりました。じゃあ、ごちそうさまでした」
「ああ」
「それと」
私は、先輩の目をまっすぐ見た。
「ありがとうございます。一人にしないでくれて」
先輩が、息を呑んだ。
そして、大きな手が伸びてきて、私の頭をぽんと撫でた。
「……当然だ」
その声は、やっぱりぶっきらぼうで。
でも、やけに優しかった。
◇
家に着いて、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、今日あったことを反芻する。
失恋した。スーパーで泣いた。苦手な先輩に見つかった。なぜか先輩の家で鍋を食べた。雑炊を三杯おかわりした。
……我ながら、カオスな一日だった。
スマホが震える。LINEの通知。
『明日、卵焼きは甘い派か塩派か』
差出人は、氷室蒼介。
いつの間に連絡先を交換したんだろう。そういえば、駅で別れる前に「連絡先」とだけ言われて、気づいたらスマホを渡していた。
『甘い派です』
送信。
すぐに既読がついた。
『わかった』
それだけ。相変わらず言葉が少ない。
でも、その短い言葉が、なんだか嬉しかった。
『先輩は?』
『甘い派』
『じゃあ一緒ですね』
『ああ』
画面を見つめながら、私は笑っていた。
おかしいな。今日、振られたばかりなのに。泣いてたはずなのに。
胸の奥が、温かい。
あの人が作ってくれた鍋の温度が、まだ残っている気がする。
『先輩』
『なんだ』
『おやすみなさい』
少し間があった。
『……おやすみ』
その一言を見て、私はスマホを胸に抱いた。
失恋した夜に、私は新しい何かに出会ってしまったのかもしれない。
まだ名前もつけられない、この胸の熱さに。
一人分の鍋は、二人で囲んだほうがいい。
先輩の言葉が、耳の奥でリフレインする。
明日は、屋上で。
二人分のお弁当を、一緒に食べる。
そう思ったら、自然と目が閉じていった。
今夜は、一人で泣かなくて済みそうだ。
――私の「一人分」が壊れていく音が、聞こえた気がした。




