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一人用の鍋を買った夜、会社で一番苦手な先輩に泣いてるところを見られたら「お前の『一人分』、俺が全部壊してやる」と言われました

作者: uta
掲載日:2026/05/24

「三年間、ありがとう。でも俺、お前といても――ときめかないんだよね」


言葉って、こんなに簡単に人を殺せるんだ。


駅前のカフェで、紅茶が冷めていくのをぼんやり眺めていた。向かいに座る翔太の口が動いている。『嫌いになったわけじゃない』『お前は悪くない』『楽だったよ、一緒にいて』。


楽。


ああ、そうか。私は三年間、この人の「楽」だったのか。


記念日には手料理を作った。疲れてるときは何も言わず隣にいた。愚痴も夢も、全部聞いた。尽くして、尽くして、尽くして――その結果が「楽だけど、ときめかない」。


笑えてくる。


「……わかった」


私の声は、思ったより平坦だった。


「え、それだけ?」


翔太が戸惑った顔をしている。なに、泣いて縋ってほしかったの? それとも怒ってほしかった? どっちにしても、あなたが「悪者にならない」シナリオでしょう。


「うん、それだけ。三年間ありがとう。元気でね」


席を立つ。足が震えているのは気づかないふりをした。


泣くのは、一人になってからでいい。



スーパーの明かりが、やけに眩しい。


時刻は夜の九時過ぎ。終電間際の駅前スーパーは、仕事帰りのサラリーマンと、私みたいな「何かから逃げてきた人間」でごった返している。


鍋コーナーの前で、私は立ち尽くしていた。


一人用の土鍋。


直径十八センチ。一人分の出汁にちょうどいいサイズ。蓋には可愛いクマの絵が描いてある。値段は千二百円。


……これを買おう。


翔太と付き合ってた三年間、鍋はいつも二人分だった。白菜を四分の一、豚バラを二百グラム、〆のうどんは二玉。「俺、鍋奉行な」って言いながら、翔太はいつも火加減にうるさかった。


もう、そんな必要ないんだ。


白菜は八分の一でいい。豚バラは百グラム。うどんは一玉。全部、半分。


私の人生も、半分になった。


……いや、違う。元に戻っただけ。一人分に戻っただけ。最初から私は一人だったんだから。


大丈夫。慣れてる。一人は慣れてる。


土鍋に手を伸ばした、その瞬間。


「それ、俺も買おうとしてた」


低い声が、すぐ隣から降ってきた。


心臓が跳ねる。振り向くと、見覚えのある横顔があった。


切れ長の目。無表情。百八十センチを超える長身に、仕事帰りなのかスーツ姿のまま。


――嘘でしょ。


「……氷室、先輩」


営業部のエース。社内で「氷の王子」と呼ばれている男。私が会社で一番苦手な人。


氷室蒼介がそこにいた。


「藤崎か」


その声には、驚きも喜びもない。まるで自販機でコーヒーを買うみたいに、淡々と私の名前を呼ぶ。


「あ、えっと、これ、先輩が先なら……」


「いや、被っただけだ。好きに取れ」


被った。この人と私が、一人用の土鍋を買おうとしたタイミングが被った。


なんだろう、この状況。笑っていいのかな。


「……被りましたね」


とりあえず、そう言ってみた。


氷室先輩は答えない。代わりに、私の顔をじっと見下ろしている。その視線が、やけに鋭い。


「お前、泣いてるぞ」


「え?」


反射的に頬に触れる。指先が、濡れていた。


……あれ。おかしいな。泣くのは家に帰ってからって決めてたのに。


「泣いてないです」


「目、真っ赤だが」


「花粉症です」


「十一月だぞ」


「秋の花粉症もあるんです」


「……」


氷室先輩が黙った。その沈黙が、なんだか責められているみたいで居心地が悪い。


「大丈夫です。慣れてるので」


口癖のように、その言葉が出た。


大丈夫。一人は慣れてる。泣くのも慣れてる。傷つくのも、慣れてる。


「……慣れてる、か」


先輩が小さく呟いた。


そして次の瞬間、私の手から土鍋が奪われた。


「ちょっ、先輩!?」


「来い」


「は?」


「肉と野菜は俺が選ぶ。お前は卵を二パック取ってこい」


「いや、意味がわからないんですけど」


「うるさい。いいから来い」


長い足で、さっさと精肉コーナーに向かっていく。


置いていかれる。このままだと土鍋も持っていかれる。というか、なに、この展開。


「先輩、待ってください! 私、帰りますから!」


「帰ってどうする」


振り返らずに、先輩が言った。


「一人で泣くのか。コンビニ弁当でも食いながら」


「……っ」


図星だった。


帰ったら、きっとシャワーを浴びながら泣く。そのあとコンビニで買った何かを食べて、布団に潜り込んで、朝まで泣く。そういう予定だった。


「一人用の鍋を、一人で食うな」


その言葉に、足が止まる。


「余計なお世話です」


「そうだな」


「先輩に関係ないです」


「ああ、関係ない」


なのに、どうして。


「でも俺も一人分の鍋を買いに来た人間だ。お前と条件は同じだろう」


氷室先輩がようやく振り返った。


相変わらず無表情。でも、その目がほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。


「一人用の鍋を、二人で食う。それだけだ」


「……それ、先輩にメリットないですよね」


「ない」


「じゃあなんで」


「さあ」


先輩が首を傾げた。本気でわからない、という顔だった。


「放っておけなかった」



気づけば、私は氷室先輩のマンションにいた。


「……お邪魔、します」


「入れ」


ワンルームだと思っていたら、意外と広い1LDK。家具は最低限だけど、キッチンだけやたら充実している。調理器具がずらりと並んでいて、まるで料理好きの一人暮らし男子の見本みたいだった。


「座ってろ」


先輩がスーツの上着を脱いで、袖をまくる。そして棚から取り出したのは――紺色のエプロン。


「え」


「なんだ」


「いえ……」


似合う。めちゃくちゃ似合う。


氷の王子が、エプロン姿で白菜を切っている。なにこのギャップ。会社の女子が見たら卒倒するやつだ。


「ぼーっとしてないで、鍋洗え」


「あ、はい」


言われるままに土鍋を洗う。新品だからそのまま使えるはずなのに、先輩は「一回洗え」と譲らなかった。


「おろしたては割れやすい。目止めしてから使う」


「め、目止め……」


「お粥を炊く。それで土鍋の細かい穴を塞ぐ」


「はあ……」


なんか、すごく本格的だ。


「今日は時間がないから省略するが、本来はそうするもんだ」


「先輩、料理好きなんですか」


「嫌いじゃない」


そっけない返事。でも、出汁を引く手つきが明らかにプロだった。昆布と鰹節で取った一番出汁の香りが、狭いキッチンに広がる。


「出汁、美味しそう……」


「当たり前だ」


相変わらず無愛想。でも、その横顔がなんだか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。


「座ってろ。すぐできる」


「あの、私も何か」


「いい。座れ」


「でも」


「お前は客だ」


「勝手に連れてきたくせに……」


「そうだな」


悪びれもしない。


私はおとなしくローテーブルの前に座った。クッションが一つしかないのが、この部屋の住人の生活を物語っている。


「先輩も、一人暮らし長いんですか」


「十年」


「十年……」


「大学から一人だ」


「ご実家は」


「ない」


その言い方には、明らかに触れてほしくない色があった。


「……すみません」


「別に。事実だ」


鍋に火が入る。白菜と豚バラが、出汁の中でくつくつと煮える音がした。


「一人分の鍋は、二人で食うと美味くなる」


先輩がぼそりと言った。


「……どうしてですか」


「さあ。でもそういうもんだ」


返事になっていない。でも、湯気の向こうの先輩の顔が、さっきより少しだけ穏やかに見えた。


「ほら、食え」


小さな土鍋が、テーブルの真ん中に置かれる。一人用のはずなのに、やけに豪華に見えた。白菜、豚バラ、豆腐、しいたけ、ネギ。色とりどりの具材が、黄金色の出汁に浮かんでいる。


「……美味しそう」


「当然だ」


先輩が向かいに座る。一人用の鍋を挟んで、二人で向かい合う形になった。


「取り皿」


「あ、ありがとうございます」


箸で白菜をつまむ。口に入れた瞬間、出汁の旨味が舌の上に広がった。


「……おいしい」


「そうか」


「すごく、美味しいです」


目の奥が熱くなる。


おかしいな。鍋を食べてるだけなのに。白菜を噛んでるだけなのに。


「っ……」


涙が、止まらなかった。


「……泣くな」


「泣いてないです」


「嘘つくな」


「だって……」


箸を置く。もう誤魔化せなかった。


「三年、付き合ってたんです。結婚するって、思ってた。なのに『ときめかない』って。私じゃ足りないって。尽くしても、尽くしても、全然……っ」


声が震える。みっともない。会社の先輩の前で、こんな。


「ごめんなさい、私、帰り……」


「帰るな」


「でも」


「いいから食え」


先輩が、私の取り皿に豚バラを乗せた。


「食って、泣いて、寝ろ。それでいい」


「……先輩」


「お前を振ったやつは馬鹿だ」


その言葉に、息が止まった。


「尽くされて、ときめかない? 意味がわからない。贅沢すぎて反吐が出る」


先輩の声には、明らかな怒りが混じっていた。私のことなんか何も知らないはずなのに。関係ないはずなのに。


「お前は悪くない。お前を選ばなかったやつが、ただ見る目がなかっただけだ」


「……っ」


「だから泣くな。そんなやつのために泣く必要ない」


無愛想な声。ぶっきらぼうな言葉。


なのに、どうしてこんなに胸に刺さるんだろう。


「……先輩」


「なんだ」


「どうして、そんなこと言うんですか」


「さあ」


先輩が鍋をかき混ぜた。


「わからない。でも、お前の『諦めた顔で笑う姿』が、気に食わなかった」


諦めた顔。


私、そんな顔してたんだ。


「大丈夫です、慣れてるので」


「それだ」


「え?」


「その言葉。ずっと聞いてた。お前、何かあるたびにそう言う」


「……」


「慣れてる、じゃない。諦めてるんだろう」


図星だった。


一人で生きていける。誰かに頼らなくても平気。傷ついても、立ち直れる。全部、諦めの言い換えだった。


本当は、誰かに言ってほしかった。


『一人にしない』って。『そばにいる』って。


でも、そんなこと言ってくれる人なんかいないから。だから、諦めた。


「……先輩、私のことそんなに見てたんですか」


「見てた」


即答だった。


「え」


「お前、いつも一人で昼飯食ってるだろう。屋上の端っこで、おにぎり二個」


「な、なんで知って」


「俺も屋上で食うからだ。お前より先に」


知らなかった。全然気づかなかった。


「お前が来る前に俺は移動する。鉢合わせると気まずいだろう」


「そ、それは……ありがとう、ございます?」


「礼を言われることじゃない」


先輩が溜息をついた。


「お前、俺のこと苦手だろう」


「……っ」


「わかってる。俺は愛想がない。話しかけづらい。だから距離を取られても仕方ない」


「あの、それは……」


「でも」


先輩の目が、まっすぐ私を見た。


「俺は、お前のことを見てた。ずっと」


心臓が、おかしな音を立てる。


「今日、スーパーで会ったのは偶然だ。でも、お前が泣いてるのを見て、放っておけなかった」


「……」


「理由はわからない。でも、お前を一人で泣かせたくなかった」


鍋の湯気が、二人の間を揺らめいた。


「……先輩」


「なんだ」


「私、どうしたらいいですか」


その問いに、先輩は少しだけ黙った。


そして、手を伸ばした。私の頭に、大きな手のひらが乗せられる。


「とりあえず、食え。話はそれからだ」


ぎこちない手つき。でも、その温度がやけに優しかった。


「〆は雑炊にする。残すな」


「……はい」


涙を拭いて、箸を取り直す。


白菜も、豚バラも、さっきよりずっと美味しかった。



気づけば、鍋は空になっていた。


「雑炊、できたぞ」


先輩が、卵でとじた雑炊をよそってくれる。黄金色の出汁を吸った米が、ふっくらと艶めいている。


「あの、ありがとうございます。こんなに良くしてもらって」


「いい。俺も久しぶりに二人分作った」


「先輩も、普段は一人なんですよね」


「ああ」


「……寂しくないですか」


「慣れてる」


その言葉に、思わず笑ってしまった。


「先輩も同じこと言うんですね」


「まあな」


「じゃあ先輩も、諦めてるんですか」


「……」


先輩が、珍しく言葉を止めた。


「諦めてた、かもな」


「かもって」


「今日までは」


雑炊を口に運ぶ。出汁を吸った米が、じんわりと胃に染みる。温かい。体の芯から、溶けていくみたいだ。


「お前の一人分、俺が壊してやる」


「……え?」


顔を上げる。先輩の目が、さっきまでと違っていた。


熱を、帯びている。


「一人用の鍋も、一人分の飯も、一人で泣くことも。全部」


「先輩、それって……」


「……さあ。俺にもわからない」


先輩が、困ったように眉を寄せた。


「ただ、お前が一人でいるのを見てると、苛々する。お前が泣いてると、腹が立つ。お前が『慣れてる』って言うと、殴りたくなる」


「それ、全部物騒なんですけど」


「そうだな」


でも、その目は笑っていなかった。


「俺は不器用だ。言葉も足りない。お前に好かれる自信もない」


「……」


「でも、お前を一人にしたくない。それだけは、はっきりわかる」


雑炊の湯気が、ゆらゆらと立ち上る。


一人分の鍋を買いに行った夜。私の恋は終わったはずだった。


なのに。


「……先輩」


「なんだ」


「雑炊、おかわりいいですか」


そう言った私の声は、たぶん、泣いていた。でも、さっきとは違う涙だった。


「……食えるだけ食え」


先輩がおたまを持ち上げる。


一人分のはずの鍋は、いつの間にか二人分の雑炊に変わっていた。



時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。


「あの、私そろそろ……」


「送る」


「え、いいですよ。駅まで近いし」


「送る」


有無を言わさない声だった。


玄関で靴を履いていると、先輩が後ろから声をかけてきた。


「藤崎」


「はい」


「明日の昼」


「……昼?」


「屋上で食え。俺も行く」


振り返ると、先輩は相変わらずの無表情だった。でも、その耳がほんの少しだけ赤い気がするのは、気のせいだろうか。


「……先輩が来たら、私が移動することになりますけど」


「移動するな」


「でも」


「弁当、作ってくる」


「……は?」


「二人分」


その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「……私、先輩のこと苦手でした」


「知ってる」


「でも」


言葉を探す。うまく言えない。でも、言わなきゃいけない気がした。


「今日の先輩は、苦手じゃなかったです」


先輩が、一瞬だけ目を見開いた。


そしてすぐに、いつもの無表情に戻る。でも、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


「……そうか」


「はい」


「なら、明日も苦手じゃなくしてやる」


「それ、どういう意味ですか」


「さあな」


ドアが開く。十一月の夜風が、頬を撫でていった。


「送るぞ」


「……はい」


先輩の隣を歩く。一歩、二歩。その距離が、さっきより少しだけ近くなった気がした。


「先輩」


「なんだ」


「一人用の鍋、先輩も買おうとしてたんですよね」


「ああ」


「じゃあ今日、先輩も一人で食べるはずだったんですね」


「……そうだな」


「なのに、私に譲ってくれた」


「譲ったんじゃない」


先輩が立ち止まった。私も、つられて立ち止まる。


「一緒に使っただけだ」


街灯の明かりが、先輩の横顔を照らしている。


「一人用を、二人で」


「……はい」


「だから、これからもそうする」


その言葉の意味を、私はちゃんと理解していた。


一人分の鍋を買った日、私の恋は終わったはずだった。


でも、終わりは始まりでもあるらしい。


「先輩」


「なんだ」


「私、明日からお弁当作ってこようかな」


「……来るな。俺が作る」


「でも」


「うるさい。お前は食うだけでいい」


相変わらず、ぶっきらぼうだ。


でも、その不器用さが、今はなんだか愛おしかった。


「わかりました。じゃあ、ごちそうさまでした」


「ああ」


「それと」


私は、先輩の目をまっすぐ見た。


「ありがとうございます。一人にしないでくれて」


先輩が、息を呑んだ。


そして、大きな手が伸びてきて、私の頭をぽんと撫でた。


「……当然だ」


その声は、やっぱりぶっきらぼうで。


でも、やけに優しかった。



家に着いて、ベッドに倒れ込む。


天井を見上げながら、今日あったことを反芻する。


失恋した。スーパーで泣いた。苦手な先輩に見つかった。なぜか先輩の家で鍋を食べた。雑炊を三杯おかわりした。


……我ながら、カオスな一日だった。


スマホが震える。LINEの通知。


『明日、卵焼きは甘い派か塩派か』


差出人は、氷室蒼介。


いつの間に連絡先を交換したんだろう。そういえば、駅で別れる前に「連絡先」とだけ言われて、気づいたらスマホを渡していた。


『甘い派です』


送信。


すぐに既読がついた。


『わかった』


それだけ。相変わらず言葉が少ない。


でも、その短い言葉が、なんだか嬉しかった。


『先輩は?』


『甘い派』


『じゃあ一緒ですね』


『ああ』


画面を見つめながら、私は笑っていた。


おかしいな。今日、振られたばかりなのに。泣いてたはずなのに。


胸の奥が、温かい。


あの人が作ってくれた鍋の温度が、まだ残っている気がする。


『先輩』


『なんだ』


『おやすみなさい』


少し間があった。


『……おやすみ』


その一言を見て、私はスマホを胸に抱いた。


失恋した夜に、私は新しい何かに出会ってしまったのかもしれない。


まだ名前もつけられない、この胸の熱さに。


一人分の鍋は、二人で囲んだほうがいい。


先輩の言葉が、耳の奥でリフレインする。


明日は、屋上で。


二人分のお弁当を、一緒に食べる。


そう思ったら、自然と目が閉じていった。


今夜は、一人で泣かなくて済みそうだ。




――私の「一人分」が壊れていく音が、聞こえた気がした。

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