2.アダソン夫妻の最期 アダソン夫妻暗殺事件発生の瞬間〜世界の崩落はここから始まった〜
その夜黒いリムジンが、本社を離れ、アダソン宮殿へ向かう。
その道を、彼らは何百回と通ってきた。
安全だと疑ったことなど、一度もなかった。
車内には、いつもと変わらない静けさがあった。
エンジン音は低く、振動もほとんど感じられない。
運転席との仕切り越しに、街の灯りだけが静かに流れていく。
この時間は、二人にとって特別なものではなかった。
仕事の終わりに、家へ帰る――ただそれだけの時間だった。
だからこそ、誰も気づかなかった。
それが、もう二度と繰り返されない帰り道だということに。
後部座席には、グラスが二つ置かれていた。
赤ワインが、ほんの少しだけ残っている。
車内には、低く抑えたジャズが流れていた。
そして――
アラクネアは、窓の外を見たまま、静かに言った。
アレックスは、グラスを持ったまま応じる。
「ん?」
「もし……全部終わったら、どこに行きたい?」
少しだけ、間があった。
アレックスは考えるふりをして、穏やかに答えた。
「……海の近くかな。何も決めないで、朝起きて、散歩して」
アラクネアは小さく笑った。
「あなたらしいわね」
「君は?」
彼女は少しだけ視線を落としてから、答えた。
「……静かなところ。誰にも知られない場所」
アレックスは、ほんの少し笑う。
「じゃあ、そこに行こう」
「……いつ?」
「全部終わったら」
その言葉に、アラクネアは小さく息を吐いた。
「“全部”って、いつの話?」
アレックスは、前を見たまま答えた。
「……いつかだよ」
対向車線の向こうに、ひとつの光があった。
街灯を切り裂くように現れたその車体は、異様な存在感を放っていた。
漆黒のボディ。地面に吸いつくような低さ。
ランボルギーニ社製――アヴェンタドールSVJ。
本来なら、サーキットでしか許されない車だった。
次の瞬間、夜の空気を引き裂くような轟音が響いた。
ブレーキ音は、なかった。
ためらいも、なかった。
ブォォォン――――ッ。
まるでジェット機が離陸する瞬間のような爆音。
耳を塞ぎたくなるほどの圧が、空気ごと叩きつけてくる。
それは街の音ではなかった。
交通の音でも、エンジン音でもない。
V12自然吸気エンジン。
770馬力という常識外れの出力。
0から100キロまで、わずか数秒。
その性能が生み出すのは、加速ではなく――暴力だった。
あの瞬間、
あの車は“走る兵器”になっていた。
後に明らかになるが、その車両は正規仕様ではなかった。
出力制御は解除され、排気系は直結に近い状態へ改変され、
消音機構は機能せず、回転数制限も外されていた。
その結果、音は「騒音」ではなく――衝撃へと変質していた。
低く、濁り、腹の底を直接叩くような振動。
耳ではなく、内臓で感じる圧。
それは、ジェット機が滑走路を離陸する瞬間、
あるいはリニアモーターカーが浮上する直前の加速に近かった。
風を切る音ではない。
空気そのものを押し潰しながら進む、異様な速度。
人間の感覚が追いつく前に、
「危険」だけが先に到達する。
だから人々はこう感じた。
――音がしたのではない。
――危険が迫ってきたのだと。
そしてそれは、偶然ではなかった。
後に判明するが、あの車両は
逃げるためでも、威嚇するためでもない。
最初から、衝突を前提に設計されていた。
衝突時に最も圧力が集中する位置には、
起爆装置と簡易爆薬が組み込まれていた。
衝撃を吸収するはずの構造は排除され、
逆に力を一点へ集中させるよう改変されていた。
つまりそれは事故ではない。
衝突した瞬間に終わるよう、
最初から設計された“出来事”だった。
逃げるための車ではない。
威嚇のための車でもない。
――最初から、「突っ込むための装置」だった。
だからブレーキ音はなかった。
ためらいもなかった。
減速の気配すら存在しなかった。
速度は後に推定されたが、正確な数値は誰にも分からない。
ただ、破壊状況と目撃証言から、
時速二百五十キロを超えていた可能性が高いとされた。
だが重要なのは、数字ではない。
その瞬間、あの車は「車」ではなくなっていた。
人の意思を運ぶ乗り物ではなく、
結果だけを生む装置になっていた。
あれは事故ではない。
そして、衝動でもない。
最初から、そこへ到達するよう設計された出来事だった。
⸻
次の瞬間、夜の空気を切り裂くような音が走った。
車内の時間が、ほんのわずかに引き延ばされる。
街の夜に溶け込むには荒すぎる音だった。
遠くから近づいてくるはずのそれが、距離の縮まり方だけが異様に速い。
アラクネアは、ふと窓の外に目を向けた。
理由はなかった。ただ、音が――ほんの一瞬、耳に引っかかった。
ブォーン……と、低く濁った、場違いなエンジン音。
低く、濁った、異質なエンジン音。
胸の奥で、微かな違和感が跳ねる。
けれど彼女は、言葉にしなかった。
騒ぎ立てるほどの確信はなく、
なにより、この穏やかな時間を壊したくなかった。
隣にいる人は、変わらずグラスを傾けている。
その横顔が、あまりにも落ち着いていて――
それだけで、この瞬間は守られているように思えた。
だから彼女は、いつものように微笑んで、
ただ一言、声をかけようとした。
「ねえ、あなた――」
――そのとき。
対向車線のスーパーカーの中で、
エリック・サーティーン容疑者は、アクセルを踏み抜いた。
一切の躊躇もなく。
ためらいも、迷いもなく。
――後の調べで、ひとつの事実が明らかになる。
その車内には、一枚の写真が置かれていた。
ダッシュボードの奥、視界に入る場所に、
小さく折りたたまれた家族写真。
エリック・サーティーンと、
妻と、十三歳の息子が並んで写った家族写真だった。
犯行に反対していた妻。
父の異変に気づき、怯えていた少年。
それでも彼は、その写真を捨てなかった。
――自分が、どこへ向かっているのかを忘れないために。
――そして、もう戻れないことを、確かめるために。
だが、その写真は――
衝突と同時に炎に包まれ、跡形もなく焼き尽くされた。後に車内から捜査で見つかった。
爆発の光と炎の中で、
家族の顔も、言葉も、記憶も、過去も、迷いも、躊躇も、すべてが消えた。
残ったのは、
設計された衝突と、止められなかった現実だけだった。
――それでもなお、自分は引き返さないのだと、
何度も自分に言い聞かせるために。
「自分にはもう、戻る場所がない」
そう思い込むために。
そしてもうひとつ。
それは、彼自身への“証明”でもあった。
この瞬間が、人生の終点であることを。
これ以上、迷わないことを。
残ったのは、
破壊の意志だけだった。
次の瞬間、世界から音が消えた。
アレックスが前方を見て言った。
「……危な――」
それが、最後の言葉だった。
――その瞬間。
ブォォォン――――ッ。
空気が裂けた。
それは、音というより衝撃だった。
耳に届くより先に、身体の奥を殴りつける圧。
続いて――
バァンッ。
ドォン――――ッ。
金属が砕ける音と、空気が押し潰される音と、爆発が重なり合い、
ひとつの「出来事」として空間を飲み込んだ。
その音は、街に響いたのではない。
街そのものを、ひと呼吸で壊した。
人々が後になって思い出そうとしても、
正確な順番を語れないのはそのためだった。
ブォォォンだったのか。
バンだったのか。
ドンだったのか。
違う。
それらは同時だった。
音が鳴ったのではない。
“音の塊”が、そこに落ちてきたのだ。
そして次の瞬間――
黒いリムジンは、
まるで紙細工のように折れた。
炎が噴き上がり、
光が視界を奪い、
音が消えた。
激突。
炎上。
車は一瞬で炎に包まれ、
リムジンカーの運転士とアレックスとアラクネア、そして相手の運転手――
エリック・サーティーンは、その場で命を落とした。
それが、世界の「停止」の始まりだった。
他に死者はいない。
この事故で命を落としたのは、
この4人の者たちだけだった。
叫び声は、なかった。
聞こえなかったのではない。
聞こえる前に、すべてが終わったのだ。
それが――
アダソン夫妻の最期だった。
⸻
爆発の衝撃は、交差点を中心に周囲へ広がった。
だが、それは建物を吹き飛ばすような破壊ではなかった。
地面が割れたわけでも、街が崩れたわけでもない。
ただ――
あまりにも強い圧力が、一瞬だけ空間を押し潰した。
衝突点から数メートルの範囲では、
熱と衝撃で人が吹き飛ばされ、
それより少し離れた場所では、
人々が足を取られ、転び、耳を押さえた。
窓ガラスが割れ、
店の棚が倒れ、
室内にいた者たちは何が起きたのか分からないまま、
床に膝をついていた。
爆風は交差点の周囲にも及び、
近くに停まっていた車の窓ガラスが割れ、
店舗のショーウィンドウが震えた。
だが、他の車両が炎に包まれることはなかった。また建物が崩れることはなかった。
地面が裂けることもなかった。
それは偶然ではなく、
“そこだけを壊すように設計された衝撃”だった。
それでも多くの人は、
「あの瞬間、地面が揺れた」と証言した。
それは実際に割れたのではない。
衝撃波が身体を突き抜け、
脳がそう錯覚しただけだった。
後に現場検証を行った警察は、
「無差別事故ではない」と断言している。
⸻
言葉は最後まで届かなかった。音は、なかった。衝撃も、叫びも、悲鳴もなかった。ただ、光が一瞬白くなり、そこで時間は途切れた。後にまとめられた事故調査報告書には、「衝突時、車内に争った形跡なし」「安全ベルトは装着されていた」「会話中であった可能性が高い」「恐怖反応は確認されず」と記された。彼は世界を救おうとしていたわけでも、会社の未来を語っていたわけでもない。ただ隣にいる人を守ろうとした。それだけだった。そしてそれが、彼にできた最後の行動だった。
交差点の真ん中で、時間が詰まったみたいに一瞬止まり、次の瞬間、空気が潰れる音がした。爆発というより、光が噴き出した。炎が立ち上がった場所は運転席でも後部座席でもなく、車体の中央だった。黒いリムジンはそこで折れたみたいに圧し潰れ、真ん中に衝撃が集中し、逃げ場のない熱がそのまま車内を覆った。叫び声は聞こえなかった、と複数の目撃者は言う。聞こえないのではなく、聞こえる前に終わったのだと、後年、現場にいた者たちは同じ表現を使った。
現場にいた者たちは、最初はそれが「誰の車」なのかを知らなかった。黒い車が燃えている、交差点の真ん中で炎が高すぎる、近づけない、車の形が途中から分からなくなる――通報の言葉はどれも似ていた。やがて、無線と通信が同じ名を繰り返し始め、はじめて意味が落ちてきた瞬間があった。名前を知ったときの衝撃は、別の種類の恐怖だった、と当時の指令センター職員は後に語った。
事故が事件に変わる、というより、日常が歴史に変わる瞬間だった。
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