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全体あらすじ

全体あらすじ

アダソン夫妻という制度

―― 早過ぎた正しさが世界を止めるまで正しさが制度になる前に崩れる世界を描く、人権と文明の批評思想SF

(企業ホラー/制度SF/企業物小説)


(起承転結内包・構造上の役割注記つき)

ジャンル定義


本作は、巨大企業という制度が「正しさ」を制度ではなく人格に依存させ、その依存を極限まで進めたとき、倫理的で成功していたはずの善意がいかにして人権侵害・文明的停止・倫理的空白を生み、正しさそのものが社会を止めてしまうのかを描く、企業ホラー/制度SF/企業物小説である。


同時に本作は、創業・成長・成功・継承・破綻という企業の一生を、英雄譚や経営賛歌、陰謀論的テロサスペンスとしてではなく、「判断の設計」と「責任の所在」という一点のみによって描き切る思想SFであり、怪物も陰謀も用いず、人格への過剰な信頼が制度化されないまま延命された結果、文明が静かに停止していく構造そのものを恐怖として立ち上げる物語である。


本作で描かれる架空企業サイバーサイジング社は、日本的な企業文化とは異なる文脈の中で成立した企業である。

その基盤には、「創業者夫妻ファウンダーズ・カップル」を中心とする、シリコンバレー系・欧米ファミリー企業文化が存在していた。


この文化圏では、企業は単なる経済主体ではなく、創業者の倫理観・人生観・家族観そのものを体現する存在として語られる。

創業者の人格と企業理念は分離されず、むしろ「創業者の生き方=企業の正しさ」として物語化され、信頼と権威を獲得していく。


サイバーサイジング社においても、アダソン夫妻は経営者であると同時に、企業そのものを象徴する存在であり、

彼らの関係性、役割分担、価値判断は、そのまま企業の制度設計として機能していた。


描かれるのは、企業という制度が人格への依存を極限まで進めたときに生じる静かな恐怖――すなわち、正しさが正しいまま期限切れになること、その構造的リスクを可視化・検証することこそが、本作の中心的な目的である。


また本作では、AI・アルゴリズム統治・ESG経営・プラットフォーム依存が進む現代社会において、人々が「判断」を自ら行わず、信頼できる人格や組織に委託し続ける構造が、いかにして新たな支配と停止を生み得るのかを、同時代的な問題として照射する作品である。



【起 ― すでに終わった世界から語られる物語】

この物語は、すでに終わった世界の記録として始まる。

舞台はフィラデルフィア郊外、かつて世界の基幹インフラを支配していた巨大ITグローバル企業、サイバーサイジング社のアメリカ本社の廃墟を望む、公文書保管施設の閲覧室である。


挿絵(By みてみん)


語り手は、元内部関係者であり、事件後に散逸しかけた記録を回収・整理する役を担ったダニエル・ロウ。 彼は、すでに伝説でも神話でもなくなった出来事――いわゆる「サイバーサイジング・ショック」を、静かに語り始める。


挿絵(By みてみん)


この物語が扱うのは成功譚ではない。

世界を支え、倫理的で、止まれる企業として機能していた巨大ITグローバル企業サイバーサイジング社と、その創業者でもあり経営者でもあるアダソン夫妻が、なぜ創立から25年後、暗殺とともに歴史から姿を消し、文明規模の崩落を引き起こしたのか。

その「理由」を、最初と最後を辿るための記録である。


これは、企業がどのように生まれ、どのように機能し、どのように「制度になり損ねたまま終わったのか」を検証するための企業史であり、その検証過程そのものが恐怖となる企業ホラーである。


時間は巻き戻される。 すべての始まりは―― 一人の女性が、FBI本部へ転勤してきた、その日から始まる。


そしてすべての終わりは―― サイバーサイジング社が創立してから約二十五年後、あの日の夜に起きた悲劇とともに訪れ、やがて「リーマン•ショック」より酷い「サイバーサイジング・ショック」と呼ばれる国際的崩落へとつながっていった。


(構造上の役割注記: ここで読者は「結末がすでに確定している過去の物語」であることを知らされる。 本作は避人探しや逆転を目的とするサスペンスではなく、 企業と制度がどのような構造的必然によって崩壊したのかを読み解く思想SFであることが宣言される。)



【承 ― 正しさが共有され、私的領域から制度の萌芽へ広がる】

全ての始まりは、1989年アメリカのワシントンD.C。

FBI本部で出会ったアラクネア・ベネットとアレックス・アダソンは、英雄的でも野心的でもなかった。

二人を結びつけたのは、成果を急がず、判断を保留することを恐れない「同じ速度」で世界を見る感覚だった。

恋愛よりも先に、判断を共有できるという確信が生まれ、やがて二人は家庭を築く。


結婚と家族の形成は、幸福の完成としてではなく、価値観を次世代へ渡す準備として描かれる。 歌として残される家族の理念、事故を起こさないために設計された生活空間、そして生まれてくる子どもたち。 薔薇は象徴ではなく、育て続けられた時間の結果として、家族の記憶に溶け込んでいく。


この段階で描かれるのは、まだ企業ではなく、制度でもなく、「正しさが人から人へ手渡し可能なサイズで存在していた世界」である。


挿絵(By みてみん)


しかし、家族が増え、守るものが具体的になるにつれ、FBIという国家制度の限界もまた、具体性を持って迫ってくる。

国家を守る正しさが、必ずしも目の前の人間を守らない瞬間があることを、二人はすでに理解していた。

これは反抗ではなく、覚醒であり、逃避ではなく、責任の引き受け直しだった。


やがて夫妻は決断する。 国家の内側では守れないなら、国家の外側に「守るための器」を作るしかない、と。


ここで物語は、家庭という最小単位の制度から、企業という公共制度へと踏み出す。


(構造上の役割注記: ここでは物語が私的幸福から公共性へと拡張される。 正しさが家庭内の価値観から、社会を運用する思想へと変質する直前段階である。 企業物小説としての出発点が、ここで静かに確定する。




【転 ― 正しさが制度になりきれなかった致命的分岐(添削完成稿)】


サイバーサイジング社の創立は、反逆でも革命でもなかった。

それは極めて合理的で、倫理的で、慎重な判断の積み重ねだった。


サイバーサイジング社は、創業当初から

「創業者夫妻」、「ファウンダーズ・カップル」、「シリコンバレー系企業」という、欧米特有の企業文化を色濃く持つ組織だった。


この文化において、夫婦は単なる共同経営者ではない。

相互補完的に役割を分担し、その関係性そのものが、企業の判断構造として設計される。


アダソン夫妻においては、次のような役割分担が、暗黙の制度として機能していた。


母親であるアラクネア・アダソンは、

・倫理

・長期的視点

・社会的影響

・人権と世代間責任


を担い、


父親であるアレックス・アダソンは、

・最終判断

・強硬な交渉

・即時的な停止判断

・危機下での決断


を担っていた。


二人は対等でありながら、決して同じ役割を持たなかった。

夫妻が揃って初めて、判断が完結する構造だったのである。


この設計は、彼らがFBI出身であったことと深く結びついている。


国家安全保障、交通制御、医療・生命維持システム――

それらはいずれも、


・判断の遅れ

・責任の分散

・合議の迷走


が、直接的な死や崩壊につながる分野だった。


夫妻は、そこで学んでいた。


「決める人」と「動かす人」を分けた瞬間、例外判断と責任逃れが必ず発生する。


だからこそ彼らは、最終判断と実行責任を、夫妻という一体の人格に集中させる道を選んだ。


サイバーサイジング社において、取締役会は存在していた。

しかしそれは、社長を制御するためのブレーキではなく、

助言と検証を行うための補助装置に近い位置づけだった。


なぜなら、この企業の価値は、


・例外を作らないこと

・線を曲げないこと


にあったからである。


合議制は、必ず

「今回は特例で」

「委員会判断として」

という逃げ道を生む。


夫妻はそれを、

世界インフラに対する最大のリスクだと考えていた。


そしてここから、彼らは結論に至る。


夫妻は、インフラを扱う企業において最も重要なのは「正しく止まれること」だと考えた。

そのために彼らは、制度を急いで外部化せず、自分たち自身が制度として機能する運営を選ぶ。


人そのものを制度として配置し、人格を上から下へと薄め、各部署に「止める権利」を与える。

判断の最終責任だけを夫妻自身が引き受け続ける構造運営を、彼らは意図的に構築していった。


それは独裁ではなかった。

サイバーサイジング社の真の恐ろしさは、その**「過剰なまでの民主性」**にあった。


サイバーサイジング社は、25年間の間に、いつの間にか世界中から「来てほしい」という要望を受け続けた。その結果、黄金期から後継期には、世界各地に125支社、150人の支社長体制へと展開し、社員数は約10万〜15万人に達していた。


それは、25年間、完璧に機能し続けた。

あまりにも、成功しすぎた巨大企業になっていった。


組織は

「夫妻 ⇄ 支社長 ⇄ 部門責任者 ⇄ 現場ごとの責任者⇄ 現場の社員」

という緻密な階層構造を持ち、すべてのレイヤーで自由な対話と合意形成が推奨されていた。


特筆すべきは、末端の社員にまで

「正しく止めるためのNO」を突きつける権限と、迷った際に「夫妻へ直接相談できる権利」

が保証されていたことである。


しかし、この理想的な風通しの良さこそが、世界を「夫妻」という単一のOS(思考回路)へ依存させるための装置となった。


社員が「NO」と声を上げ、夫妻と対話するたびに、彼らは夫妻の深い慈愛と論理に触れ、納得し、自発的に「自分」の判断基準を「夫妻」のそれへと書き換えていった。


異論や反抗さえもが、夫妻の正しさを再確認するための学習プロセスとして吸収されていく。


こうして約10万~15万人の社員は、「自分で考えて決めている」と信じながら、無意識のうちに夫妻という巨大な心臓の鼓動へと、自らの精神を同期させていったのである。


これらの異常な成功をさらに加速させたのは、皮肉にも夫妻自身の「変化」であった。


挿絵(By みてみん)


創業から5年目まで、実務に徹する黒いスーツに身を包んでいた夫妻は、6年目を境に、華やかなファッションスーツへと装いを変える。

彼らは無意識のうちに、サイバーサイジング社の「顔」として、PR活動を本格化させていった。


挿絵(By みてみん)


SNSや動画プラットフォームが普及すると、洗練された装いの夫妻は、家族のように親しみやすい笑顔で、毎年恒例のクリスマスや年末年始の挨拶動画を配信するようになる。


アダソン兄弟とのプライベートな日常のSNS配信は、世界中の人々にとって「理想の家族像」となり、憧れの対象となった。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


重要顧客にはSPを伴った丁寧な面会を行い、黄金期には天皇皇后や世界各国の首脳陣との謁見を重ねていく。


このようにして世界中で夫妻の存在が知れ渡るようになってから、

彼らの外見には、ある奇妙な印象が付随し始める。


二人は意識していなかったが、FBI時代に身についた生活習慣と感情管理の癖により、

創業以前から、そして創業後も、外見上ほとんど老いを見せなかった。


睡眠を削らず、生活リズムを崩さず、感情を爆発させない。

怒りも恐怖も表に出さず、常に一定の温度で判断し続ける。

その結果、夫妻は無意識のうちに、

二十代から三十代の頃とほとんど変わらない印象を保ち続けていた。


実際には、彼らが命を落とす頃には五十代半ばから後半に差しかかっていたが、

写真や映像に残る姿からは、

その時間の経過を読み取ることができなかった。


ファッションスーツに身を包み、

常に同じ装い、同じ表情、同じ姿勢で世界の前に立つ二人は、

次第に次のように語られるようになる。


「いつ撮影されたのかわからない」

「季節感がない」

「時間が止まっているように見える」

「この人たちの年齢がわからない」

「いつ見ても、同じ顔、同じ服装だ」

「歳を取っている感じがまったくしない。正直、少し気味が悪い」


さらに黄金期に入る前後からは、

夫妻を模したバービー人形が、

限定モデルや記念モデルとして販売されるようになる。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


それらは成功の象徴であり、憧れの対象として消費されたが、

同時に、奇妙な言葉を生み始めた。


――引退してほしくない。

――変わらないでほしい。

――歳を取らないでほしい。

――まだやれる。


称賛の形を取りながら、

人格と身体の時間を固定しようとする言葉が、

次第に公然と語られるようになっていく。


夫妻は、それらを判断の対象として扱っていなかった。

自分たちの外見と存在が、

世界の側で「老いない象徴」として消費され、

人権の境界を静かに侵食し始めていることを、

この時点では、まだ意識の外に置いていた。



黄金期から後継準備期にかけて使用されていた代表取締役社長挨拶画像もまた、この象徴化を静かに補強していた。


挿絵(By みてみん)


そこに写る夫妻は、二十五年前とほとんど変わらない笑顔と装いで、企業ロゴの前に並び立っている。

年齢の痕跡は読み取れず、時間の経過だけが不自然に欠落していた。


一部では、


「本当に代表取締役社長挨拶画像なのか」

「家族写真のように見える」

「ロゴの前に立つ位置としては、あまりにも目立ちすぎではないか」

「なぜ、あの距離感なのか」


といった違和感の声も、静かに囁かれていた。


特に問題視されたのは、父親が母親を抱えるように腕を回し、二人の距離が異様なほど近い構図だった。

通常、代表取締役社長挨拶画像において、配偶者同士であっても、身体的接触や親密さを前面に出すことはほとんどない。


それは本来、

公的な役職と、私的な関係性を明確に分離するための、暗黙の了解だった。


だがこの写真では、その境界が意図的であるかのように曖昧にされていた。


しかし多くの人々は、その写真が社長室で撮影されていることにも、

母親側に執務室の出入り口があり、父親側に二人分の執務机が配置され、

その中央――来客用の応接スペースに夫妻が立っていることの意味にも、深く考えを巡らせなかった。


微笑ましく、親しみやすく、変わらない。


だが同時に、その微笑みは、どこか説明のつかない感覚を伴っていた。


――安心してください。

――あなたは、変わらなくていい。


そう囁きながら、

「こちら側へ来る必要はない」

「判断はすべて引き受ける」

と告げてくるような、静かな圧。


見ている者の中には、次のような感覚を覚えた者もいた。


いつまでも若い。

いつまでも変わらない。

時間が止まっている。

ずっとそこにいる。

ずっと歳を取らない。

ずっと一緒にいる。

いつでも来てね。

安全だよ。


それらは、本来、人間に向けて投げかけてはならない言葉だった。


それらは、


建物に向ける言葉であり、

キャラクターに向ける言葉であり、

マスコットに向ける言葉であり、

企業理念やブランドに向ける言葉である。


つまりその代表取締役社長挨拶画像は、

夫妻を「人」としてではなく、

老いず、変わらず、永遠にそこにある企業設備、

あるいは企業そのものを象徴する装置として提示していた。


だからこそ、それは微笑ましいのに、背筋が冷えた。


誰かが「気味が悪い」と言えば、

別の誰かが「でも、アダソン夫妻だから」と答える。


その画像と同時に黄金期に用いられていた代表取締役社長挨拶文章もまた、この象徴化を強く補強していた。


表向きに語られているのは、

福利厚生、保育園・教育施設、生活・滞在を支える各種施設、娯楽・文化・スポーツ・国際交流活動など、仕事と生活・余暇・交流、日常生活まで支えるIT。

どれも正しく、倫理的で、非の打ち所がない。


文章は一貫して、「会社」が主語ではなく「私たち(主に夫妻)」を主語にして語られる。


・私たちは守ってきました

・私たちは支えます

・私たちは信じています

・私たちは約束します

・私たちは信頼される

・私たちは愛される

・私たちは真摯に向き合う


そこに登場するのは、

「社員とその家族」

「次世代まで含めて支える」

「世界中の拠点」

「善をもって技術を扱う」

「パートナー」

という、包摂と保護の言葉だった。


だが裏返せば、それはこうも読めた。

それは、トップに立つ二人――

FBI出身の父と母が、世界そのものを一つの家族として包み込むような構図だった。


守る。

育てる。

導く。

面倒を見る。

真摯に。

一緒に。

信頼してもいい。

愛してもいい。

世界中やみんなが家族と仲間である。


それらはすべて、善意の言葉だ。

だが同時に、それは

「あなたは判断しなくていい」

「あなたは一人で考えなくていい」

という感覚を、静かに伴っていた。



さらに、この代表取締役社長挨拶の文章を別の言語に“読み替える”なら、

それは次のようにも受け取れた。


「FBI出身のパパとママが用意した、

誰もがいつでも利用できる世界規模の家――

サイバーサイジング社へようこそ。


ここにはITサービスはもちろん、仕事も、教育も、生活も、交流も、日常も、エンターテイメントも、ショッピングも「生活に必要なもの」はすでに揃っていた。

世界中の誰にとっても、

ここから外へ出て何かを求める必然性は、ほとんど残されていなかった。


そして本来なら個々人が引き受けるはずだった『判断』や『考える責任』さえも、すでにここでは代行されているかのようだった。


元FBIの専門性を持つパパとママが、世界中どこにいても、誰であっても、文化や国が違っても、最後まで真摯に面倒を見る。

危険なことは起こさせない。

間違った選択に至る前に、正しい道へ戻す。

問題が起きたり、困ったときは、いつでも誰でもパパとママに聞けばいい。

面倒なことはさせない。

パパとママのいうこと聞いて信頼していれば大丈夫。

とそう信じさせるだけの説得力が感じられるような文章だった。


だから、無理に外へ出なくてもいい。

迷う必要も、立ち止まる必要もない。

外の世界は危険だ。

困ることも迷うことも必要ない。


ここにいればいい。

信じていればいい。」


元々、そう語りかけられているわけではない。

だが、そう読めてしまうだけの条件が、完璧に整えられていた。


社員も、社員の家族も、顧客も、

気づかぬうちに「守られる子供」という位置へと配置され、

自分で決めなくてもいい世界へ、静かに迎え入れられていく。


この文章は、命令ではない。

叱責でも、脅迫でもない。


それでも拒否することは難しい。

なぜなら、そこに書かれているのは、

すべてが正しく、すべてが優しく、

すべてが「善意」だからである。


それは、

正しさと専門性と善意と愛情だけで組み上げられた、

極めて静かで、説明不要な支配の宣言文だった。


そうして違和感は、安心と信頼の名の下に、何度も上書きされていった。


本来、リスクを避けるべきITインフラ企業の代表取締役としては、あまりにも「目立ちすぎる」これらの行動は、いつの間にか無意識のうちに夫妻を、ただの経営者から、世界中に愛され、信頼される**「正義の象徴」**へと変貌させてしまった。


通常、支社を増やすにはマニュアル化――すなわち制度化が必要である。

しかし夫妻は、それをしなかった。


代わりに150人の支社長たちに対し、FBIでの経験に裏打ちされた独自のトレーニングを施し、夫妻が持つ特有の思考回路と倫理的直感を、徹底的にインストール(学習)させるという、属人的な拡大方法を選んだ。


支社長たちは経営を学んだのではない。

「夫妻ならどうするか」を完全に模倣する訓練を受けたのである。


これにより、夫妻はマニュアルを作る時間を短縮し、夫妻のコピー――すなわち分身を各地に配置するだけで、125もの拠点を「いつの間にか」動かすことを可能にした。


この**「圧倒的な成功実績」と「偶像化された信頼」**の積み重ねが、世界から思考を奪っていった。


世界は、サイバーサイジング社という「システム」そのものよりも、この華やかで完璧な「夫妻」という人格と象徴を、無自覚のうちに盲信するようになっていた。


「夫妻が、あの完璧なふたりが微笑んでいる限り、世界は安泰である」


そう信じることで、本来構築されるべき客観的なリスクヘッジや制度的検証は、「今は不要なもの」だと錯覚されていく。


サイバーサイジング社は、単なる便利なインフラではなく、

「アダソン夫妻という完璧な善意」そのものとして認識され始めていた。


この結果、本来なら必ず問われるべき

「もし夫妻が死んだらどうなるのか?」

という問いは、現実的な議論の場から、静かに消えていったのである。


「これほど上手くいっているのだから、今はわざわざ複雑な組織図や委員会(制度)など作らなくていい」


そんな成功ゆえの慢心と怠慢は、世界規模の「人格依存」と「象徴依存」として共有され、完成してしまった。


これこそが、サイバーサイジング社を覆う、甘く、静かな機能不全の始まりであった。


実態を直視すれば、それはもはや「会社」と呼べる組織ではなかった。

世界が思考を放棄した結果として肥大化した、「救済の生命維持装置」だったのである。


だが同時に、その華やかな表舞台の裏側で、致命的な空席が静かに広がっていた。


夫妻は、永遠に判断者であり続けるつもりではなかった。

息子であるアダソン兄弟への経営移行と同時に、人格から制度へと移行する計画は、確かに存在していた。


しかし、実の後継者である兄弟への移行には、莫大な時間を要した。


支社長たちに求められたのが「人格の模倣」であったのに対し、兄弟に求められたのは、その人格を脱ぎ捨て、普遍的な「制度」へと翻訳する役割だったからである。


支社長たちは、夫妻との対話を通じて現場を止める権限を持ち、相談と助言によって正しさを維持する、血の通った分身だった。


一方で兄弟に課された役割は、世界中が熱狂する「アダソン家」というブランドや、人間味あふれる相互補完の関係性すらも、「制度」という永続的な機械へと昇華させることだった。


彼らがこの膨大な翻訳作業と重責に苦心し、制度が実体を持つ前の「過渡期」に留まっていたこと――

それこそが、サイバーサイジング社が抱えた、唯一にして最大の脆弱性だった。


兄弟体制はあくまで過渡期の設計であり、その完成形として、夫妻が会長職へ退き、取締役会や倫理委員会といった客観的な枠組みを設置する構想も存在していた。


だがその制度は、常に「後で置かれるはずのもの」として、実体を持たないまま時間だけが過ぎていった。


この「後で」という判断の先送り、

人格への盲信、

そして「今は制度を作らなくていい」という成功の錯覚――

それこそが、この物語が描く企業ホラーの核心である。


そして25年後。

誰もが続く未来を疑わなかった夜、アダソン夫妻は、息子たちへの後継準備と制度設置準備の途上で、顧客企業の社長エリック・サーティーンによって暗殺される。


挿絵(By みてみん)


それは単なる暗殺ではなかった。

象徴を狙った、企業テロ――企業ハイジャック事件だったことが、後に判明する。


エリックは狂気に陥っていたわけではない。

彼はサイバーサイジング社の創立25周年の2年前から、顧客として、同時に観察者として、この企業を見続けていた。


完璧に機能し、倫理的で、止まれる企業。

だが彼の目には、それは企業ではなく、宗教組織に映っていた。


「人が判断する限り、世界は歪む」


その思想に取り憑かれた彼にとって、夫妻は敵ではなかった。

善意で世界を遅らせる“象徴”だったのである。


夫妻の眩しすぎる色彩の中に、制度が欠落した「虚無の空白」を見抜いていたエリックが引き抜いたのは、鮮やかなファッションスーツを纏った、世界の心臓だった。


彼が壊したのはインフラではない。

企業そのものでもない。


これは破壊ではなく、企業の「意味」――

すなわち、世界が判断を委ねていた象徴だけを引き抜くための、企業ハイジャックだった。


死んだのは二人だけではない。


世界中の125支社、150人の支社長、そして15万人の社員の中に宿っていた**「判断の拠り所」**が、同時に死んだのである。


現場には依然として「NO(停止)」と言う権限だけが残されていた。

しかし、その「NO」を汲み取り、次の「YES(前進)」へと導く夫妻――羅針盤は、もう存在しない。


世界中のインフラ担当者が「止めるべきか」と悩み、かつてのように夫妻に相談しようとして、その先が空洞であることに気づき、絶望する。


「自分たちで話し合って決める」訓練をしていたはずの約10万-15万人の社員が、実は「夫妻の影をなぞる」訓練しかしていなかったことが、ここで露呈する。


誰一人として、夫妻のいない世界で「YES」のボタンを押す責任を引き受けられない。


こうして世界は、誰に命令されることもなく、自ら「NO」を握りしめたまま石化し、文明的停止へと沈んでいった。


この瞬間、制度未完成の空白と、象徴破壊が重なり、物語は不可逆点を越える。


(構造上の役割注記:

ここは制度SFとしての反転点である。

第3章は悲劇の設計図、

第4章は不可逆点の通過を描く。

正しさは間違っていなかった。

だが、正しさを置く場所が間違っていたことが、

ここで初めて露わになる。)




【結 ― 遅すぎた制度化と、過去になった世界】


【結 ― 遅すぎた制度化と、過去になった世界】

夫妻の死後、世界はすぐには混乱しない。 暴動も、即時の崩壊も起きなかった。 だが、世界から「判断」だけが失われていた。


認証は通らず、承認は宙づりになり、止める権限だけが、どこにも存在しない。


サイバーサイジング社は止められたのではない。止まる判断を下せる者がいなかったために、止まるしかなかった。


二十五年間、世界は考えなくてよかった。 正しさは常に、誰かが引き受けてくれていた。 その結果、説明書も理論も残っているにもかかわらず、「押していいかどうか」を決める力だけが、世界から消えていた。


これは金融危機ではない。 技術事故でも、単なる企業不祥事でもない。


自分で判断できず、考えられない世界への依存が、 一斉に露呈した文明的停止だった。


やがてこの混乱は、リーマン・ショックを超える規模の連鎖崩壊として記録される。


――サイバーサイジング・ショック――


10万-15万人の社員が、追放されたわけでも解雇されたわけでもなく、ただ「入れなくなった」ことで職と生活を失う。

誰も悪意を持っていなかった。

誰も間違った判断をしたつもりもなかった。

それでも世界は止まり、文明は沈黙した。


これは、企業が悪だったから起きた崩壊ではない。

正しさを人格に預け続け、制度として回収しなかったことによる事故である。


後継者であったアダソン兄弟は、この空白の中心に立たされる。


彼らは守られていたわけではない。 制度が完成するまでの「仮置き」として存在していただけだった。


挿絵(By みてみん)


判断できない世界を前に、アダソン兄弟に残された選択肢は一つしかなかった。 国際破産手続き―― 世界の基盤を、これ以上無責任に延命させないための遮断。


この決断によって、兄弟の人生は、完全に逸れていく。


彼らは後継者ではなく、崩壊の責任を引き受けさせられた存在として記憶される。


夫妻は生前、アダソン兄弟に経営を引き継ぐための準備の一つとして、AIIBSOという諜報機関を創立させるよう指示していた。


本来、AIIBSOという諜報機関は、まったく別の目的で構想されていた。 それは、アダソン兄弟が人格に依存しない判断体系を設計し、「止めることができる制度」を実装していくために、それを静かに外部から支援する補助的な諜報・監査組織の訓練所だった。


だが、世界はそれを許さなかった。


兄・ジェイムズは、本来は人を守る側であったにもかかわらず、感情を切り離し、精神(男性性)としての制度だけを信じる側へと永久に配置される。


弟・マックは、本来は制度を設計する側であったにもかかわらず、現場と混乱と感情(女性性)のすべてを引き受け、理解するために自らを壊していく側へと追い込まれる。


つまり兄弟は、本来与えられるはずだった役割とは正反対の位置へと、制度ではなく状況によって配置されてしまったのだ。


二人は、再建を選ばなかった。 継承もしなかった。


それは逃避ではない。 二度と、人格に正しさを預けないための、意識的な拒否だった。


こうしてAIIBSOは、本来想定されていた補助機関ではなく、文明が二度と同じ失敗を繰り返さないための冷酷な拒否の結晶として、生まれ生まれ変わる。


やがて世界は、遅すぎる学習に辿り着く。 人格に預けられていた正しさを、制度へと回収する法律と仕組みが整備されていく。


だがそれは、 サイバーサイジング社が消えた後の話だ。


物語は再び現在へ戻る。 廃墟となった本社を前に、ダニエルは記録を閉じる。


これは英雄譚ではない。 失敗談でもない。


ただ、「正しさには期限がある」という事実を、過去の出来事として示す記録である。


そして最後に、語りは読者へ委ねられる。


この記録を読み終えたあなたは、 次にどんな正しさを、 誰に預けるのか――


それこそが、 まだ終わっていない物語なのだと。


(構造上の役割注記: 結末は解決ではなく継承である。 企業は終わり、物語は閉じる。 だが制度をどう設計するかという問いだけが、現在へ残される。)

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