3.薔薇に気づいた男
数日後。同じフロアに、彼はいた。
アレックス・アダソン。
対テロ・重大犯罪捜査部門に付随する情報分析課。現場と分析、判断と倫理をつなぐ役割を担う男。
英雄のように前へ出るタイプではない。むしろ、止めるべきところで止める。誰にも褒められない判断を、当然のように引き受ける。
彼がそこへ来たのは、資料の束を受け取りに来ただけだった。書類の確認。署名。受領。本部の日常の中では、いくらでもある短い用事。
けれど、その途中で彼の視線が止まった。
机の隅。小さな赤い苗。
彼は立ち止まり、声を荒げることもなく、ただ一言だけ落とした。
「……薔薇、育てているんですか?」
アラクネアは驚いた。FBI本部で、誰かが自分の“私物”に触れたのは初めてだった。
注意されるのかと思った。規則違反だと言われるのかと思った。だから一拍遅れて、短く答える。
「はい。昔から好きで」
彼は理由を語らなかった。“どうしてここに”とも、“なぜこんなものを”とも言わない。
ただ、同じ距離のまま頷いて言った。
「僕もです」
その一言が、妙に彼女の胸に残った。同情でも、励ましでもない。評価でもない。
ただ、同じ事実を共有しただけの言葉。
彼は続けた。
「薔薇は、手入れが正直ですよね。放っておけば枯れるし、向き合えば、ちゃんと応える」
その言葉に、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだ。笑うつもりはなかったのに、笑ってしまった。
彼女は気づく。この人は踏み込みすぎない。でも、見落としもしない。
そして彼もまた気づいていた。彼女は声が小さいのではない。言葉を削っているだけだ。
二人の時間の流れが、初めて揃った。




