11/93
2.本部の時間
FBI本部のスピードは、彼女にとって異質だった。時間は分単位で区切られ、情報は秒で価値が変わる。沈黙は「遅れ」に見なされ、迷いは「危険」に見なされる。
彼女の配属先は、情報管理・内部監査関連部門。文書とアクセスログを扱う、表に出ない部署だった。
そこには銃声も追跡もない。あるのは、端末の光と、紙の束と、誰にも気づかれない小さな矛盾だけ。
慣れない机に座った初日、彼女は私物を一つだけ置いた。そっと、音を立てないように。
小さな、赤い薔薇の苗。
豪華な花ではない。まだ育成途中の、控えめな生命。急がせても咲かないもの。それだけが、実家の時間と同じ呼吸をしていた。
子どもの頃に何度も読んだ『バラの国のお姫さま』の絵本。薔薇を育て、誰かに渡せたら、友だちができるかもしれない――そんな淡い願いの名残だった。
ここでは、誰にも話しかけられなかった。昼食は一人。帰り道も一人。会話は業務連絡だけで十分、という顔を皆がしている。
それでも、苗だけはここで生きていた。命令も評価も関係なく、ただ少しずつ育っていく。
彼女はそれを見ながら思った。急がなくていいものが、この場所にも一つだけある――と。




