1.転勤の朝
第1章 全ての始まりと出会い
――まだ何も背負っていなかった頃。
判断も、責任も、選択肢も、すべてがこれからだった時代。
――物語は、まだ静かな場所から始まる。
誰も英雄ではなく、誰も世界を背負っていなかった頃。
判断は、まだ訓練の途中で、責任は、個人の範囲に収まっていた。
ただ、正しさを急がない人間と、声を大きくしない人間が、同じ時間の中にいただけだった。
この章で描かれるのは、恋ではない。
使命でもない。
ましてや、運命の宣言ではない。
あるのは、立ち止まる勇気と、保留する判断と、沈黙を信頼する姿勢。
薔薇は、まだ名前を持たない。
家族でも、象徴でもない。
ただ、育てられている途中の命として、そこにあるだけだ。
それでも――
この静かな時間がなければ、後に訪れるすべての選択は、成立しなかった。
第1章は
「何も背負っていなかった二人」が、同じ速度で世界を見始めた瞬間の記録である。
未来を約束しないまま、それでも、未来に耐えうる判断が、ここで初めて揃った。
⸻
1989年、春。ワシントンD.C.は、まだ朝の空気に冬の名残を残していた。
アラクネア・ベネットは、その冷たい輪郭の中に立っていた。FBI本部ビルの前で、ほんの一瞬だけ足を止め、建物を見上げる。
巨大な壁。規則の匂い。人の流れ。ここでは、立ち止まること自体が目立つ。それが分かっているのに、彼女は一度だけ深く息を吸った。
彼女はアメリカ中西部の地方支局から転勤してきたばかりだった。
農業地帯を含む州。事件は派手ではないが、記録と数字と人の生活が密接に絡む土地。
そこで彼女は、淡々と、正確に、黙々と仕事をしてきた。誰かを責めるためではなく、誰かが誤って壊されないために。記録の一行、数字の一桁が、生活の続きと直結している場所で。
十人姉妹の末っ子。姉たちは皆、結婚して家を出ていき、最後に残ったのが彼女だった。
誰かと一緒にいることより、一人でいることの方が長かった。それでも、孤独だとは思っていなかった。ただ、静かなだけだった




