正法眼蔵 光明
大宋国、湖南、長沙、招賢大師、上堂、示、衆、云、
尽十方界、是、沙門眼。
尽十方界、是、沙門家常語。
尽十方界、是、沙門全身。
尽十方界、是、自己光明。
尽十方界、在、自己光明裏。
尽十方界、無、一人、不是、自己。
仏道の参学、かならず、勤学すべし。
転疎転遠なるべからず。
これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。
震旦国、後漢の孝明皇帝、(帝)諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝ともうす。
光武皇帝の第四の御子なり。
孝明皇帝の御宇、永平十年戊辰のとし、摩騰迦、竺法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す。
焚経台のまえに、道士の邪徒を降伏し、諸仏の神力をあらわす。
それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、初祖、みずから西天より南海の広州に幸す。
これ、正法眼蔵、正伝の嫡嗣なり。
釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。
ちなみに、嵩山の少室峰、少林寺に掛錫しまします。
法を二祖、大祖禅師に正伝せりし。
これ、仏祖、光明の親曾なり。
それよりさきは、仏祖の光明を見聞せる、なかりき。
いわんや、自己の光明をしれるあらんや?
たとえ、その光明は頂寧頁より担来して相逢すといえども、自己の眼睛に参学せず。(「寧頁」は一文字の漢字と見なしてください。)
このゆえに、光明の長短、方、円をあきらめず。
光明の巻、舒、斂、放をあきらめず。
光明の相逢を厭却するゆえに、光明と光明と、転疎転遠なり。
この疎遠、たとえ光明なりとも、疎遠に罣礙せらるるなり。
転疎転遠の臭皮袋、おもわくは、仏光も自己光明も、赤、白、青、黄にして火光、水光のごとく、珠光玉光のごとく、龍、天の光のごとく、日月の光のごとくなるべし、と見解す。
或、従、知識し、或、従、経巻すといえども、光明の言教をきくには、蛍光のごとくならん、とおもう。
さらに眼睛、頂寧頁の参学にあらず。
漢より隋、唐、宋、および、而今にいたるまで、かくのごとくの流類、おおきのみなり。
文字の法師に習学することなかれ。
禅師、胡乱の説、きくべからず。
いわゆる、仏祖の光明は、尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり、仏光なり、光仏なり。
仏祖は、仏祖を光明とせり。
この光明を修、証して、作仏し、坐仏し、証仏す。
このゆえに、此光、照、東方、万八千仏土の道著あり。
これ、話頭、光なり。
此光は仏光なり。
照、東方は東方、照なり。
東方は、彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり。
東方を罣礙すといえども、光明の八両なり。
此土に東方あり。
他土に東方あり。
東方に東方ある宗旨を参学すべし。
万八千というは、万は半拳頭なり、半即心なり。
かならずしも、十千にあらず、万万、百万、等にあらず。
仏土というは、眼睛裏なり。
照、東方のことばを見聞して、一条、白練、去を東方へひきわたせらんがごとくに憶想、参学するは、学道にあらず。
尽十方界は、東方のみなり。
東方を尽十方界という。
このゆえに、尽十方界あるなり。
尽十方界と開演する話頭、すなわち、万八千仏土の聞声するなり。
唐、憲宗皇帝は、穆宗、宣宗、両皇帝の帝父なり。
敬宗、文宗、武宗、三皇帝の祖父なり。
仏舎利を拝請して、入内供養のちなみに、夜、放光明あり。
皇帝、大悦し、早朝の群臣、みな、賀表をたてまつるに、いわく、陛下の聖徳、聖、感なり。
ときに、一臣あり。
韓愈文公なり。
字は退之という。
かつて仏祖の席末に参学しきたれり。
文公ひとり、賀表せず。
憲宗皇帝、宣問す、
群臣、みな、賀表をたてまつる。
卿、
なんぞ賀表せざる?
文公、奏対す、
微臣、かつて仏書をみるに、いわく、仏光は青、黄、赤、白にあらず。
いまのは、これ、龍神、衛護の光明なり。
皇帝、宣問す、
いかにあらんが、これ、仏光なる?
文公、無対なり。
いま、この文公、これ、在家の士俗なりといえども、丈夫の志気あり。
回天転地の才といいぬべし。
かくのごとく参学せん、学道の初心なり。
不、如是、学は、非道なり。
たとえ講経して天華をふらすとも、いまだ、この道理にいたらずば、いたずらの功夫なり。
たとえ十聖三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せんとき、発心なり、修、証なり。
しかありといえども、韓文公、なお、仏書を見聞せざるところあり。
いわゆる、仏光、非、青、黄、赤、白、等の道、いかにあるべしとか学しきたれる?
卿、もし青、黄、赤、白をみて、仏光にあらずと参学するちからあらば、さらに仏光をみて青、黄、赤、白とすることなかれ。
憲宗皇帝もし仏祖ならんには、かくのごとくの宣問ありぬべし。
しかあれば、明明の光明は百草なり。
百草の光明、すでに根、茎、枝、葉、華、菓、光、色、いまだ与、奪あらず。
五道の光明あり。
六道の光明あり。
這裏、是、什麼、所在なればか、説光説明する?
云何、忽、生、山河大地? なるべし。
(今、)長沙、道の尽十方界、是、自己光明の道取を審細に参学すべきなり。
光明、自己、尽十方界を参学すべきなり。
生死去来は、光明の去来なり。
超凡越聖は、光明の藍、朱なり。
作仏作祖は、光明の玄、黄なり。
修、証は、なきにあらず、光明の染汚なり。
草木、牆壁、皮肉骨髄、これ、光明の赤、白なり。
煙霞、水石、鳥道、玄路、これ、光明の回環なり。
自己の光明を見聞するは、値仏( or 諸仏)の証験なり、見仏の証験なり。
尽十方界は、是、自己なり。
是自己は、尽十方界なり。
回避の余地あるべからず。
たとえ回避の(余)地ありとも、これ、出身の活路なり。
而今の髑髏、七尺、すなわち、尽十方界の形なり、象なり。
仏道に、修、証する尽十方界は、髑髏形骸、皮肉骨髄なり。
雲門山、大慈雲匡真大師は、如来、世尊より三十九世の児孫なり。
法を雪峰、真覚大師に嗣す。
仏衆の晩進なりといえども、祖席の英雄なり。
だれが雲門山に光明仏の未曾出世と道取せん?
あるとき、上堂、示、衆、云、
人人、尽有、光明在。
看時、不見、暗、昏昏。
作麼生、是、諸人光明在?
衆、無対。
自、代、云、
僧堂、仏殿、廚庫、三門。
いま、大師、道の人人、尽有、光明在は、のちに出現すべしといわず、往世にありしといわず、傍観の現成といわず。
人人、自有、光明在と道取するをあきらかに聞持すべきなり。
百、千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。
人人、尽有、光明在は、雲門の自搆にあらず。
人人の光明、みずから拈、光、為、道なり。
人人、尽有、光明とは、渾人、自、是、光明在なり。
光明というは、人人なり。
光明を拈得して依報正報とせり。
光明、尽有、人人在なるべし。
光明、自、是、人人在なり。
人人、自、有、人人在なり。
光光、自、有、光光在なり。
有有、尽有、有有在なり。
尽尽有有、尽尽在なり。
しかあれば、しるべし。
人人、尽有の光明は、現成の人人なり。
光光、尽有の人人なり。
しばらく、雲門にとう、
なんじ、
なにをよんでか人人とする?
なにをよんでか光明とする?
雲門、みずから、いわく、
作麼生、是、光明在?
この問著は、疑殺、話頭の光明なり。
しかあれども、恁麼道著すれば、人人、光光なり。
ときに、衆、無対。
たとえ百、千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。
これ、仏祖、正伝の正法眼蔵、涅槃妙心なり。
雲門、自、代、云、
僧堂、仏殿、廚庫、三門。
いま、道取する自、代は、
雲門に自、代するなり。
大衆に自、代するなり。
光明に自、代するなり。
僧堂、仏殿、廚庫、三門に自、代するなり。
しかあれども、雲門、なにをよんでか僧堂、仏殿、廚庫、三門とする?
大衆、および、人人をよんで僧堂、仏殿、廚庫、三門とすべからず。
いくばくの僧堂、仏殿、廚庫、三門かある?
雲門なりとやせん?
七仏なりとやせん?
四七なりとやせん?
二三なりとやせん?
拳頭なりとやせん?
鼻孔なりとやせん?
いわくの、僧堂、仏殿、廚庫、三門、たとえ、いずれの仏祖なりとも、人人をまぬがれざるものなり。
このゆえに、人人にあらず。
しかありしより、このかた、有仏殿の無仏なるあり、無仏殿の無仏なるあり。
有光仏あり。
無光仏あり。
無仏光あり。
有仏光あり。
雪峰山、真覚大師、示、衆、云、
僧堂前、与、諸人、相見、了、也。
これ、すなわち、雪峰の通身、是、眼睛のときなり。
雪峰の、雪峰を覰見する時節なり。
僧堂の、僧堂と相見するなり。
保福、挙、問、鵝湖、
僧堂前、且置。
什麼所、望州亭、烏石嶺、相見?
鵝湖、驟歩、帰、方丈。
保福、便、入、僧堂。
いま、帰、方丈。入、僧堂。これ、話頭、出身なり。
相見底の道理なり。
相見、了、也、僧堂なり。
地蔵院、真応大師、云、
典座、入、庫堂。
この話頭は、七仏已前事なり。
正法眼蔵 光明
仁治三年壬寅、夏、六月二日、夜、三更四点、示、衆、于、観音導利興聖宝林寺。于、時、梅雨、霖霖。
簷頭、滴滴。
作麼生、是、光明在?
大衆、未、免、雲門、道、覰破。




