正法眼蔵 観音
雲巌、無住大師、問、道吾山、修一大師、
大悲菩薩、用、許多手眼、作麼?
道吾、云、
如、人、夜間、背、手、摸、枕子。
雲巌、曰、
我、会、也。我、会、也。
道吾、云、
汝、作麼生、会?
雲巌、曰、
遍身、是、手眼。
道吾、云、
道、也、太殺道。祗、道得、八、九成。
雲巌、曰、
某甲、祗、如此。師兄、作麼生?
道吾、云
通身、是、手眼。
道得、観音は、前後の聞声、ままに、おおしといえども、雲巌、道吾にしかず。
観音を参学せんとおもわば、雲巌、道吾の、いまの道也( or 道取)を参究すべし。
いま、道取する、大悲菩薩というは、観世音菩薩なり、観自在菩薩ともいう。
諸仏の父母とも参学す。
諸仏よりも未得道なりと学することなかれ。
過去、正法明如来なり。
しかあるに、雲巌、道の大悲菩薩、用、許多手眼、作麼? の道を挙拈して参究すべきなり。
観音を保任せしむる家門あり。
観音を未夢見なる家門あり。
雲巌に観音あり、道吾と同参せり。
ただ一、両の観音のみにあらず。
百、千の観音、おなじく雲巌に同参す。
観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。
所以は、いかん?
雲巌、道の観音と、余仏、道の観音と、道得、道不得なり。
余仏、道の観音は、ただ十二面なり。雲巌、しかあらず。
余仏、道の観音は、わずかに千手眼なり。雲巌、しかあらず。
余仏、道の観音は、しばらく、八万四千手眼なり。雲巌、しかあらず。
なにをもってか、しかありとしる。
いわゆる、雲巌、道の大悲菩薩、用、許多手眼? は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず。
いわんや、十二、および、三十二、三の数般のみならんや?
許多は、いくそばく、というなり。
如、許多の道なり。
種般、かぎらず。
種般、すでに、かぎらずば、無辺際量にも、かぎるべからざるなり。
用、許多のかず、その宗旨、かくのごとく参学すべし。
すでに無量、無辺の辺量を超越せるなり。
いま、雲巌、道の許多手眼の道を拈来するに、道吾、さらに道不著といわず、宗旨あるべし。
雲巌、道吾は、かつて薬山に同参の斉肩より、すでに四十年の同行として、古今の因縁を商量するに、不是所は剗却し、是所は証明す。
恁麼しきたれるに、今日は許多手眼と道取するに、雲巌、道取し、道吾、証明する。
しるべし。
両位の古仏、おなじく道取せる許多手眼なり。
許多手眼は、あきらかに雲巌、道吾、同参なり。
いまは、用、作麼? を道吾に問取するなり。
この問取を経師、論師、ならびに、十聖三賢、等の問取に、ひとしめざるべし。
この問取は、道取を挙来せり、手眼を挙来せり。
いま、用、許多手眼、作麼? と道取するに、この功業をちからとして成仏する古仏、新仏あるべし。
使、許多手眼、作麼? とも道取しつべし。
作、什麼? とも道取し、
動、什麼? とも道取し、
道、什麼? とも道取ありぬべし。
道吾、いわく、如、人、夜間、背、手、摸、枕子。
いわゆる宗旨は、たとえば、人の、夜間に手をうしろにして枕子を模索するがごとし。
模索するというは、さぐり、もとむるなり。
夜間は、くらき道得なり。
なお、日裏、看、山と道取せんがごとし。
用、手眼は、如、人、夜間、背、手、摸、枕子なり。
これをもって用、手眼を学すべし。
夜間を日裏より、おもいやると、夜間にして夜間なるときと扌㑒点すべし。(「扌㑒」は一文字の漢字と見なしてください。)
すべて昼夜にあらざらんときと扌㑒点すべきなり。
人の、摸、枕子せん、たとえ、この儀、すなわち、観音の、用、手眼のごとくなる、会取せざるとも、かれがごとくなる道理、のがれ、のがるべきにあらず。
いま、いう、如、人の人は、ひとえに譬喩の言なるべきか?
また、この人は、平常の人にして、平常の人なるべからざるか?
もし仏道の平常人なりと学して譬喩のみにあらずば、摸、枕子に学すべきところあり。
枕子も、咨問すべき何形段あり。
夜間も、人、天、昼夜の夜間のみなるべからず。
しるべし。
いま、道取するは、
取得、枕子にあらず。
牽挽、枕子にあらず。
推出、枕子にあらず。
夜間、背、手、摸、枕子と道取する道吾の道底を扌㑒点せんとするに、眼の夜間をうる。みるべし。すごさざれ。(「扌㑒」は一文字の漢字と見なしてください。)
手の、まくらをさぐる、いまだ剤限を著手( or 著取)せず。
背、手の機要なるべくは、背、眼すべき機要のあるか?
夜間をあきらむべし。
手眼、世界なるべきか?
人、手眼の、あるか?
ひとり手眼のみ飛、霹靂するか?
頭正尾正なる手眼の一条、両条なるか?
もし、かくのごとくの道理を扌㑒点すれば、用、許多手眼は、たとえありとも、だれが、これ、大悲菩薩、ただ手眼菩薩のみきこゆるがごとし?
恁麼いわば、手眼菩薩、用、許多大悲菩薩、作麼? と問取しつべし。
しるべし。
手眼は、たとえ、あい罣礙せずとも、用、作麼? は恁麼用なり、用恁麼なり。
恁麼道得するがごときは、遍手眼は不曾蔵なりとも、遍手眼と道得する期をまつべからず。
不曾蔵の那手眼ありとも、這手眼ありとも、自己にはあらず、山海にはあらず、日面、月面にあらず、即心是仏にあらざるなり。
雲巌、道の我、会、也。我、会、也。は、道吾の道を我、会するというにあらず。
用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我、会、也。我、会、也。なり。
無端、用、這裏なるべし。
無端、須、入、今日なるべし。
道吾、道の汝、作麼生、会? は、いわゆる我、会、也。たとえ我、会、也。なるを罣礙するにあらざれども、道吾に汝、作麼生、会? の道取あり。
すでに、これ、我、会。汝、会。なり。
眼、会。手、会。なからんや?
現成の会なるか?
未現成の会なるか?
我、会、也。の会を我なりとすとも、汝、作麼生、会? に汝あることを功夫ならしむべし。
雲巌、道の遍身、是、手眼の出現せるは、夜間、背、手、摸、枕子を講誦するに、遍身、これ、手眼なりと道取せると参学する観音のみ、おおし。
この観音、たとえ観音なりとも、未道得なる観音なり。
雲巌、道の遍身、是、手眼というは、手眼、是、身、遍というにあらず。
遍は、たとえ遍界なりとも、身、手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。
身、手眼に、たとえ遍の功徳ありとも、攙奪、行市の手眼にあらざるべし。
手眼の功徳は、是と認ずる見取、行取、説取あらざるべし。
手眼、すでに許多という。
千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、無量、無辺にあまる。
ただ遍身、是、手眼の、かくのごとくあるのみにあらず、度生説法も、かくのごとくなるべし。
国土、放光も、かくのごとくなるべし。
かるがゆえに、雲巌、道は遍身、是、手眼なるべし、手眼を遍身ならしむるにはあらずと参学すべし。
遍身、是、手眼を使用すというとも、動容進止せしむというとも、動著することなかれ。
道吾、道取す、道、也、太殺道。祗、道得、八、九成。
いはくの宗旨は、道得は太殺道なり。
太殺道というは、いいあて、いいあらわす、のこれる未道得なし、というなり。
いま、すでに未道得の、ついに道不得なるべき、のこりあらざるを道取するときは、祗、道得、八、九成なり。
いう意旨の参学は、たとえ十成なりとも、道未尽なる力量にてあらば、参究にあらず。
道得は、八、九成なりとも、道取すべきを八、九成に道取すると、十成に道取するとなるべし。
当恁麼の時節に、百、千、万の道得に道取すべきを力量の妙なるがゆえに、些子の力量を挙して、わずかに八、九成に道得するなり。
たとえば、尽十方界を百、千、万力に拈来する、あらんも、拈来せざるには、すぐるべし。
しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。
いま、八、九成のこころ、かくのごとし。
しかあるを、仏祖の祗、道得、八、九成の道をききては、道得、十成なるべきに、道得いたらずして、八、九成という、と会取す。
仏法もし、かくのごとくならば、今日にいたるべからず。
いわゆるの八、九成は、百、千といわんがごとし。
許多といわんがごとく参学すべきなり。
すでに八、九成と道取す。
はかりしりぬ。
八、九にかぎるべからずというなり。
仏祖の道話、かくのごとく参学するなり。
雲巌、道の某甲、祗、如是。師兄、作麼生? は、道吾のいう道得、八、九成の道を道取せしむるがゆえに、祗、如是と道取するなり。
これ、不留、朕、跡なりといえども、すなわち、臂、長、衫袖、短なり。
わが適来の道を道未尽ながら、さしおくを某甲、祗、如是というにはあらず。
道吾、いわく、通身、是、手眼。
いわゆる道は、手眼、たがいに手眼として通身なりというにあらず。
手眼の通身を通身、是、手眼というなり。
しかあれば、身は、これ、手眼なりというにはあらず。
用、許多手眼は、用、手、用、眼の許多なるには、手眼、かならず、通身、是、手眼なるなり。
用、許多身心、作麼? と問取せんには、通身、是、作麼? なる道得もあるべし。
いわんや、雲巌の遍と道吾の通と、道得尽、道未尽にはあらざるなり。
雲巌の遍と道吾の通と、比量の論にあらずといえども、おのおの許多手眼は恁麼の道取あるべし。
しかあれば、釈迦老師の道取する観音は、わずかに千手眼なり、十二面なり、三十三身、八万四千なり。
雲巌、道吾の観音は許多手眼なり。
しかあれども、多少の道にはあらず。
雲巌、道吾の許多手眼の観音を参学するとき、一切諸仏は観音の三昧を成、八、九成するなり。
正法眼蔵 観音
爾時、仁治三年壬寅、四月二十六日、示衆。
いま、仏法西来より、このかた、仏祖、おおく観音を道取するといえども、雲巌、道吾におよばざるゆえに、ひとり、この観音を道取す。
永嘉、真覚大師に、不見、一法、名、如来。方、得、名、為、観自在。の道あり。
如来と観音と、即、現、此身なりといえども、他身にはあらざる証明なり。
麻谷、臨済に正手眼の相見あり。
許多の一一( or 一、二)なり。
雲門に見色明心、聞声悟道の観音あり。
いずれの声色か、見聞の観世音菩薩にあらざらん?
百丈に入理の門あり。
楞厳会に円通観音あり。
法華会に普門示現、観音あり。
みな、与、仏、同参なり、与、山河大地、同参なりといえども、なお、これ、許多手眼の一、二なるべし。




