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かける魔法を間違えて  作者: 平木明日香
第一章 公務執行妨害です!
3/3

プロローグ



 1人前の魔女になるために出された課題は、ホウキを使って空を飛ぶことでも、猫に変身することでもありませんでした。魔法塾の先生は言うのです。


 「見習い魔女の皆さんは、1度、人間が住む街に行き、人里に咲く4つ葉のクローバーを1輪、手に入れなければいけません」


 と。


 森の精霊たちや、ドワーフの皆さんは、人間は恐ろしく欲深い生き物で、とても危険な存在だと口を揃えて言っています。ですから、絶対に近づいてはいけない、森から離れてはいけませんと、繰り返し私に教えるのでした。



 ある日、お母さんに聞きました。


 「どうして人間は怖いの?」


 またある日は、友達のエルフに聞きました。


 「どうして、森の動物は人を怖がるの?」



 聞く人聞く人、皆同じことを言います。


 「人間は怖い、怖い。森の仇だ。乱暴で薄汚く、自分勝手な生き物なんだ」


 と。


 そういう意味では、魔法塾の先生の言葉が私にはわかりませんでした。どうして人の街に降りなければいけないのか、どうして人と会わなければいけないのか、近頃では、森の会議でも問題になっているようでした。


 それで先生に聞いたのです。先生は魔法を使えるようになるための試練だと言い、また、「ただ人に会うだけではいけません」、と言います。人里に咲く4つ葉のクローバーを、心を許した「人間」の「手」により、刈り取ってもらわなければいけませんと、そう仰るのです。私は、ますます混乱してしまうのでした。



 見習い魔女が、人里に降りる時は、3つの契約をしなければいけません。


 1つ目は、3ヶ月間の間、1人の人間以外に見つかってはいけないということ。


 2つ目は、すでに亡くなった人間にのみ、接触が許されていること。


 3つ目は、勝手に未来を変えてはいけないこと。


 初めて聞いた時、私は二つ目の意味がわかりませんでした。


 すでに亡くなった人間に会う。


 それは幽霊に会うということでしょうか。それとも、お墓の前で話しかけるということでしょうか。そんな相手に、どうやって四つ葉のクローバーを摘んでもらえばいいのでしょう。


 けれど、先生の説明はもっと不思議でした。


 私たち魔女は、時間を自由に変えることはできません。でも、決められた条件が揃った時だけ、過去のある一点へ降りることができます。過去一年以内に亡くなった人間の記録を選び、その人が亡くなる三ヶ月前へ、時計の魔法で移動するのです。


 つまり、魔女の私たちから見れば、その人はすでに亡くなっている。


 でも、その三ヶ月前の世界では、その人はまだ生きている。


 その人と出会い、話し、心を通わせ、四つ葉のクローバーを摘んでもらう。


 それが課題でした。


 そんなの、ずるいと思いました。


 だって、その人が三ヶ月後に死ぬと知っているのに、友達にならなければいけないのです。


 しかも、未来を勝手に変えてはいけない。


 助けたくなったらどうするのでしょう。死なないでと言いたくなったらどうするのでしょう。危ない場所へ行かないでと、泣いて止めたくなったらどうするのでしょう。


 先生は言いました。


「その時に、自分がどんな魔女になりたいのか、よく考えなさい」


 その答えは、答えになっていないように聞こえました。


 でも、先生はそれ以上、何も言いませんでした。


 朧ヶ森は、春を待っていました。


 雪はもうほとんど消えていましたが、朝の沢にはまだ氷が残っていました。薬草園では、蕗の薹が土を押し上げ、塾の裏の飛行場には、まだ寒そうなすみれがいくつか咲いていました。霧ノ町の屋根からは、細い煙が何本も上がっていて、四季井戸の水は冬より少しだけ柔らかい匂いがしました。


 私の住んでいる町は、森の奥にあります。


 人間の地図には載っていません。たぶん、人間が同じ場所を歩いたとしても、ただの杉林と、崩れた林道と、苔むした石仏しか見つけられないと思います。結界があるからです。森は外から見るよりずっと広くて、道は人間の目から少しずつ逃げていきます。


 霧ノ町には、時計師さんの店があり、薬草師さんの畑があり、紙魚楼という記録所があり、黒い屋根の魔法塾があります。道はまっすぐではありません。古い木を避け、井戸を避け、昔誰かが泣いた場所を避けて、ゆっくり曲がっています。


 私はその町が好きでした。


 朝の井戸の冷たさも、薬草を干す匂いも、塾の鐘の音も、冬至の日に小さな火を持ち帰る行事も、全部好きでした。


 でも、少しだけ息苦しいと思うこともありました。


 霧ノ町では、誰もが誰かを知っています。私が初めてほうきから落ちた日のことも、調合室で眠り草と笑い草を間違えて、クラス全員を笑いながら眠らせたことも、使い魔候補の黒猫に三日で逃げられたことも、みんな知っています。


 悪い町ではありません。


 むしろ、優しすぎるくらいです。


 けれど、優しさは時々、透明な籠みたいになります。


 私は先生のような魔女になりたかったのです。


 すっと背筋を伸ばして、迷わず呪文を唱えて、困っている人にも、怒っている精霊にも、泣いている子どもにも、同じように手を差し伸べられる魔女に。


 そのためには、課題を受けなければいけませんでした。


 お母さんには、最後まで言えませんでした。


 言えばきっと止められると思ったからです。


 お母さんは、人間の話になると、いつも少し黙ります。怒るのではなく、怖がるのでもなく、ただ、鍋の底を見つめるような顔をします。私はその顔が苦手でした。叱られるより、ずっと胸が痛くなるからです。


 だから私は、塾の先生にだけ課題を受けると伝えました。


 それから、時計師のラムダさんの店へ行きました。


 ラムダさんの店は、職人通りの一番奥にあります。軒先には歯車の形をした風鈴が下がっていて、風が吹くたびに、ちりん、ではなく、かちり、かちり、と音がします。店の中には、壁一面に時計が掛かっています。振り子時計、懐中時計、砂時計、水時計、月齢時計、寝坊した人を叱る時計、嘘をつくと針が逆に回る時計。


 ラムダさんは、背の低い、灰色の髪をした時計師です。丸い眼鏡を鼻の先にのせていて、話す時も手はずっと歯車を磨いています。


「巻き戻しの腕時計がほしい?」


「はい」


「高いよ」


「……知っています」


「見習いの貯金で買えるものじゃない」


「そこを、なんとか」


 私はお辞儀をしました。できるだけ深く、丁寧に。


 ラムダさんはしばらく黙っていました。それから、作業台の上にある小さな箱を開けました。中には、銀色でも金色でもない、少しだけ青みがかった腕時計が入っていました。文字盤には数字がなく、季節の印と、月の形と、細い星の線が刻まれていました。


「中古だ。前の持ち主は無事に帰ってきた。少し気難しい時計だが、臆病な子には向いている」


「私、臆病ですか?」


「臆病で悪いことはない。時間に関わる魔法で一番危ないのは、怖がらない者だ」


 ラムダさんはそう言って、私の右腕に時計を巻いてくれました。


 時計はひやりと冷たく、それからすぐ、私の脈に合わせるように小さく震えました。


 私はその時、初めて本当に思いました。


 ああ、行くんだ。


 私は森の外へ行くんだ。


 次に向かったのは、紙魚楼でした。


 紙魚楼は白い蔵のような建物で、いつも静かです。中へ入る時は靴を脱ぎ、自分の名前を小さく言わなければいけません。記録たちに、私はまだ生きていますよ、と知らせるためです。


 魔法書士のオスカーさんは、奥の畳の部屋で私を待っていました。長い髪を後ろで結び、細い筆を持った人です。声はとても穏やかですが、紙を扱う時の指先は、鳥の骨に触れるみたいに慎重です。


「どんな人を選びたいですか」


 オスカーさんに聞かれて、私は少し迷いました。


 強い人。


 明るい人。


 話しやすい人。


 人間のことをよく知らない私にも、怒らない人。


 いろいろ考えましたが、結局、口から出たのは一番子どもっぽい願いでした。


「できるだけ、優しい人がいいです」


 オスカーさんは笑いませんでした。


 ただ、静かに頷いて、いくつかの紙束を広げました。


 それらは、過去一年以内に亡くなった人間の記録でした。名前、年齢、住んでいた場所、亡くなった日。その紙の端には、薄い焦げ跡のようなものや、水に濡れたような滲みがあるものもありました。


 私は全部を読むことができませんでした。


 だって、そこに書かれている人たちは、みんな誰かの大切な人だったはずだからです。


 その中から一人を選ぶなんて、まるで、これから友達になる相手を選んでいるのではなく、悲しみの扉を選んでいるみたいでした。


 オスカーさんは、最後に一枚の書類を私の前へ置きました。


 名前は、楠岡蓮。


 くすおか、れん。


 十七歳。


 人間の学校に通う女の子。


 亡くなった日は、春先。


 死因の欄には、火災、と書かれていました。


 その文字の周りだけ、紙が少し黒く滲んでいました。


「この人は、優しい人ですか」


 私が聞くと、オスカーさんは少しだけ目を伏せました。


「記録からわかることには限りがあります。でも、最後まで誰かを呼んでいた人です」


「誰を?」


「そこまでは、まだ読めません」


 私は、その名前を見つめました。


 楠岡蓮。


 知らない人間の名前。


 三ヶ月後に死んでしまう女の子。


 私が、友達にならなければいけない人。


 怖いと思いました。


 でも、不思議と、目を逸らせませんでした。


 出発の日、朧ヶ森には深い霧が出ていました。


 お母さんは、まだ私が塾の早朝授業に行くのだと思っていました。台所で黒麦パンを切り、山羊乳を温めてくれていました。私はできるだけ普通の顔をして朝ご飯を食べましたが、喉の奥に小さな石が詰まっているみたいで、パンの味がよくわかりませんでした。


「ルッカ」


 玄関を出る時、お母さんに呼び止められました。


 心臓が跳ねました。


「はい」


「今日は霧が深いから、沢の近くには行かないようにね」


 私は一瞬、返事ができませんでした。


 それから、笑って頷きました。


「うん。気をつける」


 嘘をつくと、舌が少し苦くなります。


 魔女だからでしょうか。それとも、ただ私が嘘に慣れていないからでしょうか。


 外へ出ると、町はまだ朝霧の中でした。四季井戸の水音が遠くで聞こえ、職人通りの煙突から細い煙が上がっていました。塾の鐘はまだ鳴っていません。誰にも見つからないように、私は坂道を急ぎました。


 境の沢には、先生が待っていました。


 黒い外套を着て、いつもの帽子をかぶり、霧の中にまっすぐ立っていました。先生のそばには、ラムダさんとオスカーさんもいました。私は三人の顔を見た途端、急に足が重くなりました。


 行きたいと思っていました。


 ひとり前の魔女になりたいと思っていました。


 でも、いざ森を出るとなると、怖くてたまらなくなりました。


 先生は私の前に来て、右腕の時計を確かめました。


「忘れ物はありませんか」


「たぶん」


「呪文帳は?」


「あります」


「薬草袋は?」


「あります」


「人間の服は?」


「入れました」


「契約書は?」


「ここに」


 私は鞄から書類を出しました。先生はそれを確認し、また私に返しました。


 それから、いつもより少し柔らかい声で言いました。


「ルッカ。決して振り返らないように」


「振り返ると、時計が狂うんですよね」


「それもあります。でも、それだけではありません」


 先生は境の沢を見ました。


 沢の水は浅く、透明で、底の石まで見えました。でも今日は、水面に見知らぬ道が映っていました。霧の奥へ伸びる、細くて白い道です。


「森は優しい場所です。優しい場所は、時々、出ていく者の足を止めます。あなたが本当に行くと決めたなら、前だけを見なさい」


 私は頷きました。


 でも、目の奥が少し熱くなりました。


 先生は、私の肩に手を置きました。


「困ったことがあったら、教えた呪文を唱えなさい。魔法は万能ではありません。でも、あなたが本当に必要な時には、きっと助けてくれます」


「はい」


「そして、忘れないこと。魔法は、願いを聞きます。言葉だけでなく、心の奥に隠した願いまで」


 私はその言葉の意味を、わかったつもりで頷きました。


 本当は、何もわかっていませんでした。


 魔法が心の奥の願いまで聞いてしまうこと。


 それが、どれほど怖いことなのか。


 どれほど取り返しのつかないことにつながるのか。


 その時の私は、まだ知りませんでした。


 ラムダさんが、私の時計の横にある小さな竜胆石のスイッチを指さしました。


「押したら始まる。戻れるのは三ヶ月後だ。時計を外すな。濡らしすぎるな。強く叩くな。泣きながら眠る時は、文字盤を布で包め」


「泣く前提なんですか」


「泣かない子どもより、泣ける子どもの方が壊れにくい」


 オスカーさんは、楠岡蓮さんの書類をもう一度、私に見せました。


「住所を間違えないように。時間は、彼女が亡くなる三ヶ月前。人間の暦では、十二月二十五日です」


「クリスマス、ですよね」


「ええ。人間にとっては、特別な日だそうです」


 クリスマス。


 外界観察室で見たことがあります。


 赤い服の老人、飾られた木、光る街、白いケーキ、贈り物。魔女の森にはない、人間の冬のお祭り。


 そんな日に、私は死ぬ予定の女の子に会いに行くのです。


 胸の奥が、きゅっとしました。


 私は時計に手を添えました。


 冷たい文字盤の奥で、針が静かに震えていました。まるで、時計も怖がっているみたいでした。


 最後に、私は森を見ました。


 振り返ってはいけないと言われたので、まだ進む前に、しっかり見ておきたかったのです。


 霧の向こうに、霧ノ町の屋根が少しだけ見えました。塾の塔も、四季井戸のあたりに立つ古い桂の木も、私の家へ続く坂道も、全部白く霞んでいました。そこには、私のこれまでの全部がありました。


 失敗した魔法。


 叱られた日。


 笑った日。


 お母さんの薬の匂い。


 友達の声。


 ほうきから落ちて見上げた青空。


 森は何も言いませんでした。


 ただ、霧を深くして、私の背中を包みました。


 私は息を吸いました。


 そして、右腕の時計のスイッチを押しました。


 かちり。


 小さな音がしました。


 たったそれだけの音なのに、世界が一度、瞬きをしたように感じました。


 沢の水面に映っていた白い道が、ふっと明るくなりました。足元の石が消え、土の匂いが遠ざかり、代わりに、知らない街の冷たい空気が流れ込んできました。


 私は一歩を踏み出しました。


 もう、振り返りませんでした。


 その先で、楠岡蓮という女の子が待っている。


 まだ私のことを知らない、死んだはずの人間の女の子。


 そして私は、その子と友達にならなければいけない。


 これが、私の課題の始まりでした。


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