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病院の屋上の洗濯物干し場でピアノの音が聴こえている。
誰もいないレストランの厨房に構図された―――。
色彩的な籠の果物みたい―――だ・・・・・・。
打鍵の音が立っていると思ったら急にやさしくなったりもして。
白いなよやかな指が。
十本の蜘蛛のような動きをする指先の。
フラット、ハーフタッチ・・・。
―――でも何ということはない、指の振り下ろす位置を繊細に変え。
瞑想的な表情で、夢見るような仄明るさを啣んだ―――。
旋律を掻き鳴らす。
甘い香水の香に聴診器でもあてているような、曲。
くすぐって、媚びて、また光のまぶしさのようにきらきらとして。
水に映る投影は暗く光る廊下へと続いて―――。
荒寥と腕を拱いている黒い風は孤独な宇宙の世界へ僕を連れていく。しまいには、どういう作用だか、魂まで裸にされたような気持ちになって、音楽の引き起こす激情というものの恐ろしさを感じる。
果てしない心細さ。
幾つもの暗流が。
幾つもの筋書きが。
暗い網目の中へ痛みを連れて消えてゆく。
*
扉の向こう―――。
施設の壁の向こう―――。
そこには、とうの昔に原型をとどめていない地球の姿がある。
怪物の影のような影がせり出して、吹雪に変わる。
蝋燭の火のようにいまにも消え入りそうな―――、
核の冬・・・・・。
*
ここはヴァリス―――。
動物たちのたくさんいる珍しい型の施設だ。
そして病院の屋上で、僕は彼女を眺めている。
彼女の眼は、昔から人間という種族が昆虫の羽ばたき程度の―――。
成長しか、しなかったことを知っている。
首筋へ辷っていく透明な風にひねられて。
誰かが僕の肩に手を掛けたように、いつか、項垂れていた。
僕のファインダーの向こう側には無数のセーブ・ポイントがあるのに対し。
彼女は一回こっきりのそれとばかり打ち切って、また始めるだろう。
たぬきや、あらいぐまや、レッサーパンダの明るい声が聞こえてくる。
ロボットがバーベキューの準備を始めている。
でもいつかは、傍若無人に、一切の感情とかお構いなし。
発達した黴のように、影のない、死の世界へと僕等を連れていってしまう。
そんな世界でも、彼女は生き続けるだろ―――う・・・。
ピアノを不意に止めた彼女が、こちらを見ている。
吸い込まれそうな君の瞳―――。
そして、はなれてゆくようでちかづいてゆく僕にこう言う。
それはどうだろうと思いながら、聞いている・・。
けれど、そうだったら、ここにどんな意味が生まれるんだろう。どこからか迷い出して落ち着く場所を見出しかねて呼吸する、息苦しく。そして、景色や会話、キャラクターは意味をなくしてしまう。そしてこんな、ぎくりとするような問い掛け、一体何度目だろう。その都度、鯨の中のピノキオだとか、無人島にいるロビンソンクルーソーだとか。水潴に、ちょうど雨が描き出す小さな波紋のように玩具みたいだと思っている自分の心の声さえも何か―――。
―――忘れることに意味があった、というのはどうだろうと考えていた。
だから黒も白になった、と思っていた。
でもそんなことを言い出すにはまだ少し早い。
ぼうっとしている二人のように浮かび流れてくる世界の意味。
道理の意味、次の瞬間、砕け散る―――砕け散る・・・。
「私たちは、もしかしたら、
何処かで出会っていたのかも知れません」
と、そう言いながら。
僕は忘れてゆくだろ―――う・・・。
だって何も存在しなかった世界には最初から僕も存在しなかったのだ。
でもだからまるで折り畳んでいた、真新しい帆のように輝く。
―――言葉の、嘘が落ちている。
ペナルティ、ゲームの放棄、―――そして沈黙の故障。
そんなはずはないと思いながら、次の。
そうかもしれないと思いながら、次の。
そうだとしてそれでと思いながら、次の。
―――鉤針のような冷たさで。
扉は内側へゆっくりと開いた。
三重の金網のフェンス。
バラックありき観葉植物ありきの屋上。
そして一台のピアノが麒麟に見えてくる。
サーベルタイガーに見えてくる。
ガラパゴス諸島に見えてくる。
人魚の誘惑の歌のように深みに引きずり込まれてゆく。
音もなく―――イメージのように数かぎりもなく。




