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ロボットが真っ先に案内したのは中庭である。中庭にはアカシヤや桜など木々で囲まれ、その昔は運動に疲れた子供たちが寝ころんだり話し合ったりしていたらしい。そこに、身長一メートルの校長の銅像があった。校舎内の出来事の多くを視界に収めることができる位置にそれはあった。
静かな時の流れの中で校舎の窓一つ一つがはっきりと見てとれ、そこにはきっと誰かの思い出があるのだろうとぼんやりと想像した。ライトの加減で矢守のように見える校舎。
―――しかし・・・・・・。
―――しかし、である・・・・・・。
誰がやったのかわからないが、そのスーツを着た禿頭の狸親父の背中に蝙蝠の翼があり、かぎのついた長い尾を落書きされていた。教科書の偉人をつい変人にしてしまう謎の病気にかかったのだろう。アフロにするとか、眼を黒く塗りつぶすとかいうのは基本項目である。
―――義務教育中に直さないと、ペン回しへと移行していく恐ろしい病気である。ちなみに大学生になると、着ぐるみをして講義を受けるようになる。そして代返という朝飯前を身に着ける。
魅入られたような魔力・・・・・・。
まあしかし、マジックインキである。変な話だけれど、橋の下とか、商店のシャッターとかをスプレーで落書きするよりはいささか子供じみていて好感が持てる。
だが、どうして校長の銅像などを作ったのだろう。素朴な疑問だった。施設というなら、そこは、二宮金次郎とか、クラーク博士あたりが適当なのではないだろうか。いや、案外そこは日本国旗なのではないか、という気もした。
>しかしどうしてだろうか。
>どうしてまったくこんなにも興味が湧かないのだろう。
ロボットは、校舎は後回しで、それからグラウンドへ連れて行った。さながら僕は学校買収を企むX氏といったところなのかも知れない。ちなみにX氏は、名門高校や、偏差値、有名大学合格率が大好きだ。裏口入学はもっと好きである。
ロボットは、サッカーのゴールポストや、投光器のある照明設備、それから野球のバックネット、それから陸上のトラックもあるグラウンドを案内しながらも、その一つ一つの値段を教えたり、そこであった出来事を語ることを忘れなかった。たとえばサッカーのゴールポストは四〇万円ぐらいするし、投光器の照明設備は年間云百万という世界らしい。自家発電なのでそういう心配はありませんがとロボットが言うまで下世話なことを僕は考え続けた。
しかし、体育館や、自動洗浄機能もついているというプール設備とくると、かなり本格的である。そこに誰もいないなんて宝の持ち腐れだろう。
でもそうやって見ると、何もかもが追憶の彼方にある文化のノスタルジアの結晶だった。それからロボットは校舎案内に移り、子供たちが授業を受けていたという教室を見学した。机と椅子と黒板と掃除箱。何も活けられていない花瓶。
そして僕は長いあいだ体内に溜めていた息をゆっくりと外に吐き出す。
(勉強の最終目的とは何なのだろう、と僕は思う)
(―――時間を区切る鐘が校舎に響き、授業時間の終わりを告げる・・・)
学校教育とは何だったのだろう―――それは深い河という気がした・・。学問には自然の不思議さがあり、ある種の権威と、俗流に媚びるような体裁がある。PTAという秘密裏の組織があり、モンスターペアレントという駄目親の見本帳はブラックリストに載っていた。
そして、子供たちには子供たちで、法律の条文を暗記させるようなテストというものがあり、それは記憶力や理解力、あるいは塾というものなくして成立しえないものだった。学問にはまず、家柄や環境が決定的に左右した。それだのに、多くの人々は平等というのを口にした。平等はきれいごとの外面のいい言葉のことだった。僕は思考をクリアにしながら、希望や夢が消えていった何かを解きほぐそうとしていた。
―――意味深に首を傾げながら。
―――それから。
「静かでしょ」と、サラが教室のドアにもたれかかりながら言った。
僕が見る。
息の止まりそうな明晰な甘さというのが、そこにあった。潔らかで、清冽で、もう一度はっきりとそのフレームのなかへ自堕落と放蕩を滑り込ませる。
すると、何故か視線を外して、ゆうに一分は自分の世界にこもったナルシズム、もしくは内気な様子のあと、おもむろに、こちらを見てきた。表紙の絵みたいに、はやる胸のときめきを抑えつつ、できるなら、永久にこちらを見ないでほしいような気がしながら。
そうだ―――ポニーテールをしている・・。
それから、耳に水色のイヤリングをつけている。
何処かで仕事をしているのかなと思っていたら、どうも、学校の制服を選択していたらしい。チャコールグレーっぽいブレザーに蝶のような赤リボンがあり、いいアクセントになっているし、チェック柄のブリーツスカートからは綺麗な、すらりと長い、二の足が覗いた。脚線美はスカートによる魔術だ。無造作に見えて、じつは完璧な接線が存在し、そこに色気が漂っている。
ちょっと待って―――白い指がめくり上げようとするスカート・・・。
(悪戯っぽい、男心にスナップを撮らせるような―――)
(―――ときめき・・・・・)
この驚きや、やましさの中に端を発するもの・・・。
おそらく―――コスプレなのだろうと思う。
途切れることなくゆったりと流れる時間―――くっきりと焼き付けられる。それをもし、恋とか片想いとか、よくわからないけど何故か切ない畸形の、消化不良の気持ち、なんだったら婉曲な拒絶というのなら、まさしく、その通りだという気がしながら。
出会ったころに戻りたい、と思う気持ちが一段階世界を明るくする。
そしてどうして開かないドアはいつも情熱の背理にあって、何か僕を見透かすような、微妙な緊張を巧緻のうちに促すのだろう。脆くて透明な殻がそこにある。
「あ、」
―――と言って、別に名前を忘れたわけではなかったのだが、つかつかと歩み寄ってきて、口許に人差し指をあて、睫毛の奥の鮮やかな瞳でウィンクしてくる。ピンと張りつめている可視の世界の異質な秩序が朧ろに見え始めてくる。
鼓動のリズムを掻き乱す、ありえない―――ほど、近い距離。孤独も、美しい夢の醒め際にある、副作用だ。取り返しのつかない懈怠、それは無意識の神や、未来の予測からきているのではないかと僕は想像する。
不安定な螺旋状の追跡が理論構築をはじめる―――感染・・。
土にへばりついている苔のように、何かの意味が僕の内側を急速に犯してゆくのを感じる。確かにそれが閃いた。だが、その閃きはすぐに消え去り、意味は永遠に失われた。思考はそれきり光に搏たれ、瞬間の波打ち際を漂泊っていった。
(神経組織の網の目をかいくぐったあと、柔構造の迷路―――)
(・・・・・・スローモーションにしなだれかかってくる、魔法)
眠りにおちてゆく過程みたいだ。
そうしていると、サラは本当に抜群に憧れの女性みたいだ。お淑やかで、面倒見がよくて、どこか、茶目っ気があって。二歳年上の憧れの先輩、みたいな役どころを不意に想像する。厚い絨毯生地に巻き込まれて、硝子や羽毛や水や風船とすれ違ってゆく。
でもそんな気配を即座に胸にしまいこみたい、だって―――。
骨抜きにされたって、彼女はただ、ふざけているだけ・・・。
灯台の光のように過ぎてゆく―――切り取られた秘密・・・。
高いのに、軽いしゃがれ声が耳心地よく鈴のように響いてくる。
「サラよ。あなたの恋人の」
*
―――用の無い生徒は速やかに下校して下さい。
―――用の無い生徒は速やかに下校して下さい。
*
僕はあやふやに笑った。どうも真面目に話すのがいけないような気もしてきた。さっきと一緒だ、嘘みたいな、悪い、さらに輪をかけた奇行に閉塞、いや、窒息しそうになる。金属的な光を帯びてくる、言葉。
あーあ、とサラは伸びをして肘を曲げ腋を見せるようなポーズをとりながら、リラックスする。肩甲骨の浮き出た華奢な背中に、それから媚びるような上目遣い。手をこすりあわせる動作。体温の延長線上にある、熱気。
―――それは好意のしるし。
「ちなみにどうして校長の銅像にあんな悪戯がしているのかって思わない、ちなみにしたのは、あたしよ」
お前か、というツッコミは―――心のなかだけにしておいたけれど。
しかし何で、さっきと打って変わってどこかしおらしくしているのだろう。全然シモネタを言おうとしない。やっぱりわざとだったのかな、とも思う。
趣向を変えて来たのだろうか、この人一体何がしたいんだ。
そう思うのに―――何だかドキドキする・・・・・・。
うまくやられてるなという気はしつつ―――それも悪くはなかったりもして。
そんな僕を見透かすように、
「もしよかったら、後でグラウンドでキャッチボールとかしない?」
唐突、藪からスティックに。
いや―――、藪からボウリングするマイケル・ジャクソンに。
「いいですけど・・・・・・」
「その―――」
一呼吸置く。
テンポをズラす、焦らすという効果を操るサラ嬢。
舞台と見物席の境界は必要に応じて何時でも撤廃することができる、陶酔境。
「―――君と高校卒業の記念に、キャッチボールしたいなと思って」
と、いきなり嘘シナリオが展開する青春モードのサラ氏。
言い方が、可愛い。
騙されてる、というか、お前は間違ってると思うのに―――。
君なんて、どこか距離を取った呼び方をする。
さっきまで、君なんて呼びもしなかったのに・・・・・・・。
でもそこに―――【春の空気】が感じられる・・・。
*
(小学校の時の友達の中山というやつが―――。)
(同じクラスの長谷川って女の子に恋をして・・、)
(ラブレターを出したらしいぞって聞いた、HRを鮮やかに思い出す・・)
*
―――しかし二度と眼にすることはない種の幻想だろう。
もうこの人、本当に何考えてるのかわからない。
でもその嘘っぽさに、ほろ苦い感じを覚えてしまうのは何故なんだろう―――。
>心の中にすきま風が入る。
>ぎこちなく顫えるカレンダーに触れようとした白い指先によって。
「エキセントリックな先輩でごめんね、でも、これがあたしの卒業証書だから」
もう何か映画のセリフのように言うのである、この人は。
「―――君に最初に触れたのは、四月だったね、
そして君に最後に触れるのは三月」
そして三月、誰かがシャンパンの栓を抜いてしまう。
とどまることをしらない、思春期の風。
「ちなみに、メイド服にするか、制服にするか―――迷ってたのよ」
それは、どうでもいい。
―――本当に。




