逃亡した日常1 前編
目が覚めると見知らぬ部屋。見知らぬ少女に見知らぬ女性。怪我の治療がされていたことから直ぐに危険は迫らないだろうが、病院や警察に行くよりも厄介なことが起こりそうな予感がする。
スズメの鳴く音、やかんがお湯を沸かす音、車が道路を走る音、カラスがバサバサと羽ばたく音、スズメの鳴く音、カラスの羽ばたく音、チュンチュン!チュン……チュ……ン……。
「スズメ食われた!?」
目を開けて飛び上がると、見知らぬソファーの上だった。体には毛布がかかっていて、辺りを見渡すと病院というわけでも警察署というわけでもないようだ。まさかさっきの強盗団が俺を誘拐したとか・・・?
「ここ、どこだよ!」たまらず叫んだ。
場所が分からないことがこんなにも不安を煽るものだとは思わなかった。こんな状況に身を置いたことがないから体感したことも実感したこともないけれど、これだけは人生で最も不快なことであろうと暫定ランキング1位に堂々と君臨した。
そんな俺の不審な様子をテーブルを挟んで向こう側のソファーに座って女の子はじっと観察していた。
「お前誰だよ!」
「いや、貴方が誰よ」
俺の悲痛の問いかけは、明らかに年下の少女に一蹴された。不快なことランキングの1位が秒速で塗り替えられた瞬間である。
少女はじっと俺を見ている。ベッドから飛び起きた俺はまず自分の体の無事を確認する。頭には包帯が巻かれ、触ってみると少し痛かった。毛布をめくってみるとお腹にも包帯が巻かれていて、脇腹のあたりには少しだけ血が滲んでいる。
――上裸だった。
見知らぬ少女は、未だ俺のことをじっと見つめている。見入っている。
「あの~ここ、どこっすかね?」
先ほどのようにきつい一言を言われると、お腹の傷よりも重傷を心に負うことになることは、明確だった。よってこちらが下手であることを相手に伝えるために情けなく聞いてみる。あえて、情けなく聞く。
しかし彼女は答えずにただじっとこちらを見つめている。白のカットソーにグレーのニットワンピースを可愛らしく着こなしているツインテールの少女は、まるで喋る気配がない。
「――アンタ誰だよ」
たまらず聞いてみる。
「手当て、アンタがしてくれたのか?」
次第に気持ちも落ち着いてきて、思考も徐々に回るようになってきた。そうだ、俺はバイト中に強盗に襲われて、七海に包丁を盗ませて、撃退して、油断したところを後ろから……。
「そうだ!七海は!七海は無事なのか?」
大声が頭に響いてズキズキ痛む。七海は無事なのだろうか。
少女は深いため息を吐いて、ジトーっと俺の様子を見た後に、やかんの音が鳴るほうを向く。
「周子さーん、起きたよー」
あ、起きた?と恐らく台所があるであろう場所から若い女性の声がする。スタスタと足音が聞こえ、髪の長い綺麗な女性が目の前に現れた。
「おはよう、体調はどう?」
俺の目の前のテーブルにマグカップに入れたコーヒーを置き、砂糖とミルクは?と加えて尋ねてくる。
「アンタは?」
見知らぬ人物2人を目の前にすると、何よりも相手の情報を先に求めたくなるのが人の心理というものなのだろう。しかし彼女は先ほどの少女よりも圧倒的に会話のしやすいタイプであろうことは瞬時に判断できたため、とりあえず聞いてみようと思ったのかもしれない。何よりも今は質問に答えてほしかった。
「突然のことで驚いたでしょ、ごめんなさいね。私は――周子、周子って呼んで」
名乗るときの若干の間に違和感を覚えたが、悪人のようには見えなかったから気にしないことにした。
「手当てはアンタが?」
「えぇ、そうよ、あまり上手にできなくてごめんね?まだ、どこか痛むところはある?」
周子は先ほどの少女の隣に腰を下ろし、長い髪を耳にかけながら言った。
「いや、大丈夫だ、ありがとう」
「そう?ならよかった。看病は黎華ちゃんがしてくれたのよ?お礼なら彼女にも」
隣を見ながら周子は言った。いきなり話題を振られた黎華は俺から顔を背けて沈黙を続けている。よく見ると俺が頭を置いていた辺りに水の張った桶とタオルがあった。
「そうか、ありがとうな」と俺が言うと「別に、頼まれたから仕方がなくだよ」と彼女はちらりとこっちを見て言った。
「そう言えば、あなたの名前を聞いてなかったわね、教えてくれる?」
少しだけ鋭く光る眼に警戒心が含まれている気がした。確かに見知らぬ男を招き入れているのだ。いや、招いてはいない。招かれざる客だからこそ警戒をしているのだろう。
彼女も案外曲者なのかもしれない。少しだけそう思った。
「椎名、椎名遊大。一応学生、です」
「ゆうた?あなた、遊ぶに大きいでユウタって読むの?」
その質問は幼少期からよくされている為、特段驚くことはなかったが。
「――なんで名前知ってんだ?」
初対面の彼女は俺の名前をあらかじめ知っていた。知っていなければこの質問はできないはずだ。
彼女はおもむろにソファの裏から小さなバッグを取り出し、中から財布を取り出してこちらへ投げる。
「学生証、見たから」
「へぇ、そんなこともするんだな」
「正義の警察だって同じことしてるじゃない」
あたかもそれが正しい行いであるかのように堂々としている。威風堂々。
「そうそう、これも返しておくわ」
周子がカバンから俺の携帯電話を取り出し「安心して、そっちは覗いてないから」と言い、手渡す。
「当然だろ」
電源を付けると時刻は12時13分。携帯の通知を確認をすると、店長から「そっちは大丈夫だったかい?お店のことは任せてしばらく休んでていいよ!警察のことでいろいろ大変だろうけど、頑張ってね」という内容と、母さんから「家に帰らないなら連絡をしなさい、帰ったらお説教ね」と入っていた。
警察のこと、という店長のメッセージがかなり気になったが、何よりも母さんのメッセージが恐ろしくて、何も考えられなかった。
「周子、さん。色々聞きたいことがあるんだけど、とりあえず、七海は?」
周子は持っていたコーヒーカップをテーブルに置き「七海ちゃんなら無事よ」と微笑みながら言った。
その様子を見て、とりあえずは信じて良いと感じた。次。
「ここはどこだ?あんたん家か?」
周子は再びコーヒーに口を付け、何も語らない。黎華と呼ばれていた少女は携帯をいじっている。
「何故俺はここにいるんだ?警察はどうした?病院は?」
周子は何も答えない。というよりは何かをじっと考えている様子だった。どこまで話していいものか、そんなことをコーヒーを嗜みながら、少しだけ時間を稼いでいる。そんなようにも見えた。
そんな様子を見ても、己に危機感は全くなかった。温かい毛布に水の張った桶、テーブルの上に置かれた一口も飲まれていないコーヒーカップを見ると、何かに巻き込まれたのだとしても、それは長いもののように感じられる。とりあえずは相手の出方を伺うのが最善の選択だろう。
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