六
龍帝祭は盛況のうちに幕を閉じた。
私と和来は五日間、折り紙を折り続けた。色とりどりの四角い和紙が、桔梗や百合、兎や舟、金魚に変わる。
和来はたくさん折り方を考えついて、素晴らしい働きだった。椿と梅の違いが分からないって、多少喧嘩っぽくなりつつも、うん、まあ、椿も梅も作ったから問題ない。
龍帝様御一行の寝室に置いた折り紙は千以上あったのだけど、彼らが帰った時にはひとつ残らず消えていた。
ちなみに、屋敷に現れた龍帝様はいつもの通り、金色の光の中。
神の中でも最上級に高貴な存在ゆえ、普通の目ではお姿を捕えられない。
龍帝様は屋敷の特別な客間にて、静かに酒を飲んでおられたと旦那様から聞いた。龍の形の折り紙を大層喜んでいた、とも。
後片付けも終わり、屋敷の周りの屋台もいつの間にか消えた午後。
丸窓から見える梅の木には雲雀の姿。蒼穹には、白い花と可愛らしい囀りがよく似合う。
旦那様の部屋でひなたぼっこをする私達は、久しぶりに二人きりの時間を得た。横になった旦那様の頭を膝に乗せ、長い銀髪を手ですくう。
本当に、こんなに肩の力が抜けたのは何週間ぶりだろう。
あの日。龍の影が手箱から出てきた日に、私は元の姿に戻してもらった。
旦那様に平謝りして、特に叱られなくて、拍子抜けした。
そりゃあ、心からの謝罪をお認めにならない旦那様じゃないけど、一言くらい叱責されるかと思ったのに。怒られたくはないけれど、素通りされるのも困惑する。私、面倒くさい人間だったんだな、なんて改めて思う。
風が吹く。春の風みたいに、少し冷たくて明るい光を帯びた風。
龍帝祭で見聞きしたことを、互いに思い出しながら語り合った後。
「あの箱に入っていたのは、私の逆鱗なのです」
ふと旦那様が呟く。
一瞬、なんのことかわからなくて反応が遅れたけれど、
「逆鱗って……温和な龍でも触ると怒るっていう……?」
私の問いかけに、膝の上の旦那様の頭が上下に動いた。
「龍が逆鱗に触れられるのを嫌うのは、それさえあれば、我らは何度でも甦ることができるからです」
「甦る……不死の理由、ということですか?」
「はい。逆鱗を砕かれれば、甦ることはできません。砕かれぬうちは死ぬことはない。よって、何人も触れぬよう、手箱にまじないをかけていたのです」
異界に来て数十年経って、初めて聞く話だ。旦那様は庭に顔を向けたまま、静かな口調で続けた。
「逆鱗が体から剥がれるのには、数百年を要します。しばらくは断りなく私の喉元に触れないで下さいね」
「はい。……ごめんなさい。そんなに大切な物が入っていた箱に、無断で触れて」
何度目かもわからない謝罪。あの日、「ごめんなさい」「はい」で終わった会話が再び動き出したことに驚きつつ、真相を知って気が引き締まる。旦那様の弱点、のようなものだったんだ。恋文なんて、失礼なことを考えた自分が恥ずかしい。
旦那様が吐息だけで笑った。
「可愛い燈七の童姿が見られたので、私はそれでよしとします。燈七はちゃんと説明すれば理解してくれる子だということも、知っていますしね」
「……もしかして、最初から気づいていたのですか。その、私が狸のお面で、玄関で」
思わず声が擦れた私に、旦那様の笑いがさらに大きくなる。
「どんな姿をしていても、私が燈七を見間違えることなどありません。最初からわかっていましたとも」
私は顔が赤くなったのを自覚した。あああ、あんなにぐるぐるしてたこと、旦那様には最初から全部見破られていたのか……! でも、それならそうと言ってくれればいいのに。
「無断で箱に触れたことを正直に打ち明けてくれない様子に、お仕置きが必要かと思いまして。ですが、私にばれるのを怖がる姿や、和来にこき使われている姿が、あまりにも可愛くて。つい見守ってしまいました、すみません」
梟のようにくっくっと笑われて、何も言い返せない。こんな意地悪な旦那様、きっと屋敷の誰も知らない。私だけが知っている特別だけど、こんな特別、嬉しくない……。
分が悪い、ので話題を変えよう。うん、それに限る。
「和来は今頃、どうしているでしょうか」
昨日、旦那様が和来を地上に帰した。
彼女は後ろも見ずに走り去っていったという。
「この先は棘の道でしょう。ただ、愛しい者と共にあることが、苦しみをもたらすことを、賢いあの少女なら理解していたはず。案外、どうにか幸せに暮らしていくかもしれませんね」
思い出すような口調の旦那様の髪をすきながら、私は小さな声で再び謝った。
「申し訳ありません。あのとき、出過ぎたお願いなどしてしまって。本当なら、旦那様の決定に異を唱えていい立場ではないのに」
旦那様が私の手を取り、指を絡めた。骨ばった手は、大きくて力強く、温かい。
「燈七。龍帝様の怒りを受け、砂の大地となった村の生き残り。あなたをこんなに愛しく思う日がくるとは思いませんでした。あなたがいなければ、私は人の身に己を置き換えて考えることなど、永遠になかったでしょう」
昔、昔の話。
龍帝様に謀反を企んだ龍と、共謀した人の村は、罰を受けた。
雨は降らず、井戸は枯れ、灼熱の太陽の熱だけが天から降り注ぐ唯一のものだった。
枯れた土地から逃げ出そうとした人々は、気が触れて首を吊った。
己で首を吊れないものは、家族が道連れにして死んだ。
豊かだった森の緑は瞬く間に蝋のように白くなり、異臭のする死の森となった。
水の恵みを失い、人も植物も動物もいなくなった。
私は雨乞いの巫女として、最後まで死ぬことは許されず、人の死に手を貸し、雨を天に乞うた。
そして最後の一人になったとき、天から旦那様が現れ、この異界へ導いてくれたのだ。
「……私を一人残して逝かないでください」
霧雨のような雨と共に旦那様が龍の姿で現れた時。
私は何かが欠けたのだ。
他の誰がそばにいても、それを埋められるのは旦那様だけ。
あの地獄から救い出してくれた旦那様がいない世界に、存在する意味はない。
「龍帝様の使いで下界の様子を見に行った先に、あなたがまだ、息をしてそこにいてくれてよかった。そうでなければ、私は人を愛おしいと思うこともなかったでしょうから」
囁くような旦那様の声が、あの村の風の音に重なって聞こえた。
風音だけが響く孤独な世界は、忘れたくて忘れられなくて、でも忘れてはならない光景。
私がどれだけ長く生きても、消えない過去。
旦那様は寝返りをうつと私を見上げた。陽の光に透ける銀糸が、きらきらと輝く。
「燈七の童姿を見て思ったのですが」
「どうせ、ちんちくりんって言うんでしょ」
「いえ、そろそろ私達にもややこが欲しいですね」
切れ長の目が悪戯っぽくたわんだ。
私は思わず立ち上がり、旦那様の頭を床に落としてしまった。必死に謝ったことは、言うまでもない。
狸のお面と、赤い金魚の折り紙が。
旦那様の黒漆の手箱に大切にしまわれたことを知るのは、もっとずっと後の話。
【了】
ありがとうございました。