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めぐる光のあしあと ・・愛犬の仕草、祖父の口笛、逝った子の手のひら。大切なあの人は、もうそこにいる  作者: かーすけ


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第21話 光の交差点と時計塔(最終話)

 時計は、時間を刻むものではない。

 時枝は長い年月をかけて、そう思うようになっていた。


 時計が刻むのは、時間ではなく、音だ。

 その音が、人に時間を感じさせる。

 時間そのものは、音とは別のところを流れている。

 時計が止まっても、時間は止まらない。

 時計が壊れても、時間は壊れない。

 ただ、音がなくなるだけだ。


 時枝修理工房には、たくさんの時計がある。

 動いているものも、止まっているものも、直しかけのものも、全部が棚に並んでいる。

 それぞれが別の音を立てている。

 全部が揃うことはない。

 でも全部が、確かに動いている。

 時枝はそれを、毎日聞いていた。


 時枝六郎、八十一歳。

 この街で生まれて、この街で育って、この街で工房を開いて、五十年が経った。

 時計、オルゴール、古いラジオ、蓄音機。

 時間や記憶に関わるものを、修理してきた。

 名前を覚えてもらうほど、有名な工房ではなかった。

 でも、必要な人が来た。

 壊れたものを持って来た。

 直してほしいものを持って来た。

 時枝はそれを受け取って、時間をかけて直した。

 直ったものを渡した。

 それだけのことを、五十年続けた。

 子どもはいなかった。

 妻は、いた。

 ふさという名前だった。

 ふさは、三十年前に逝った。


 ふさのことを、時枝は毎日思い出す。

 毎日、というのは本当のことだった。

 大げさではなかった。

 どんな日も、何かの拍子に、ふさのことを思い出す。

 修理中の時計のねじを回している時。

 白湯を飲んでいる時。

 窓から時計塔を見ている時。

 ふさがいた頃も、工房はここにあった。

 ふさは工房の奥の居間にいた。

 時枝が仕事をしている間、居間で何かをしていた。

 本を読んでいることが多かった。

 時々、お茶を持ってきた。

 時々、何も言わずに工房の引き戸から顔を出して、また引っ込んだ。

 それだけのことが、今は懐かしかった。

 顔を出しては引っ込む、あの顔が懐かしかった。


 ふさが持っていた懐中時計を、時枝は今も持っていた。

 時枝が若い頃、ふさに贈ったものだった。

 二人がまだ二十代で、時枝がまだ弟子として修理を学んでいた頃に贈った。

 お金がなかった。

 いい時計は買えなかった。

 でも贈りたかった。

 古い懐中時計を見つけた。

 壊れていたが、自分で直した。

 直して、磨いて、ふさに渡した。

「あなたが直したの?」とふさは言った。

「そう」と時枝は言った。

「それはうれしい」とふさは言った。

 その言葉を、時枝は今も覚えている。

「それはうれしい」という、静かな言葉。

 ふさが逝った時、懐中時計はふさの手元にあった。

 棺に入れようとしたが、入れなかった。


 入れられなかった。

 時枝の手が、止まった。

 これを入れたら、何かが終わる気がした。

 入れなかった。

 それ以来、時枝はその懐中時計を、工房の棚の奥にしまっていた。

 見ることもあった。

 見るたびに、ふさのことを思った。


 その朝、老女が工房に来た。

 時枝はいつも通り、窓際の椅子に座って、白湯を飲んでいた。

 時計塔の方を向いていた。

 引き戸が開いて、鈴が鳴った。

 時枝は振り向いた。

 老女だった。

 八十近くに見えた。

 小柄で、白髪で、少し背中が丸くなっていた。

 手袋をして、冬のコートを着ていた。

 時枝は見知らぬ老女だと思った。

 でも何かが、引っかかった。

 顔立ちではなかった。

 歩き方でもなかった。

 入ってきた時の、工房の空気の変わり方が、引っかかった。

 この老女が入ってきた瞬間、工房の空気が、少し変わった。

 時枝には、それがわかった。


「いらっしゃいませ」と時枝は言った。

 老女は時枝を見た。

 目が細くて、皺が深くて、でも目の中に、何かが澄んでいた。

「修理をお願いしたいものがあって」と老女は言った。

「どうぞ」と時枝は言った。

 老女は手袋を外した。

 コートのポケットから、何かを取り出した。

 両手で包むように、持ってきた。

 カウンターの上に、そっと置いた。

 懐中時計だった。


 時枝の手が、止まった。

 湯呑みを持ったまま、止まった。

 懐中時計だった。

 古い、金色の懐中時計だった。

 傷がある。

 蓋の端に、小さな傷がある。

 時枝が若い頃につけた傷だった。

 磨いても消えなかった傷だった。


「これ」と時枝は言った。

 声が、かすれた。

「壊れてしまって」と老女は言った。

「動かないんです。でも捨てられなくて、ずっと持っていました」

 時枝は立ち上がった。

 ゆっくり立ち上がって、カウンターに近づいた。

 懐中時計に、手を伸ばした。

 触れた。

 冷たかった。

 でも確かに、自分が作ったものの感触があった。

 時枝自身が、若い頃に磨いて、直して、渡したものだった。

「この時計」と時枝は言った。

「どこで手に入れましたか」

 老女は少し間を置いた。

「昔、もらったものです」と言った。

「大切な人に、もらいました」

 時枝は老女を見た。

 老女は時枝を見た。

 目が、合った。


 時枝の頭の中で、何かが動いた。

 動いた、というより、開いた。

 記憶が、開いた。

 若い頃の記憶が。

 二十代の頃の記憶が。

 修理を学んでいた頃の、貧しかった頃の、でも何かが眩しかった頃の記憶が。

 ふさの顔が、見えた。

 若い頃のふさの顔が。

 笑っていた。

「それはうれしい」と言っていた、あの顔が。

 時枝は目の前の老女を見た。

 老女の顔を見た。

 違った。

 若い頃のふさとは、顔立ちが違った。

 でも。

 目の細くなり方が、似ていた。

 笑った時の、目の細くなり方が。

「あなたは」と時枝は言った。

 声が、震えていた。

「長い間、待っていました」と老女は言った。

 静かな声だった。

 急いでいない声だった。

「また会えましたね」


 時枝は動けなかった。

 カウンターに手をついていた。

「また会えましたね」という言葉が、頭の中で鳴り続けた。

 ふさだ、とは言えなかった。

 この老女がふさだとは、証明できなかった。

 顔が違う。

 声が違う。

 年齢も、名前も、何もわからない。

 でも。

 この懐中時計を持っていた。

 時枝が若い頃に作って、ふさに渡した懐中時計を。


「長い間、待っていました」という言葉が、ふさのことを言っているとしか思えなかった。

 時枝は五十年以上、この街にいた。

 ふさが逝ってから、三十年、この工房にいた。

 待っていた、わけではない。

 仕事をしていた。

 壊れたものを直していた。

 でも待っていたのかもしれない、と、今この瞬間、思えた。

 ずっと、この街にいたのは、待っていたからかもしれない、と。


 時枝は懐中時計を手に取った。

 蓋を開けた。

 止まっていた。

 針が、止まっていた。

 時枝は内側を覗いた。

 バネが一本、外れていた。

 直せますか」と老女は言った。

「直せます」と時枝は言った。

「よかった」と老女は言った。

 静かな笑い方をした。

 目が細くなった。

 ふさが笑った時の、あの目の細くなり方で。


 時枝は作業台に戻った。

 椅子に座った。

 ルーペを目に当てた。

 懐中時計を開いた。

 手が震えていた。

 八十一年生きてきて、こんなに手が震えたことはなかった。

 でも震えながら、作業を始めた。

 外れたバネを、ピンセットで戻した。

 ゆっくりと、丁寧に。

 急がなかった。

 この作業を急いではいけない気がした。

 時間をかけてよかった。

 時計は逃げない。

 この老女も、今日はここにいる。


 時枝はゆっくり、丁寧に、バネを戻した。

 しばらくして、懐中時計の針が動き始めた。

 カチカチという音が、作業台の上に生まれた。

 小さな音だった。

 でも確かな音だった。

 時枝は懐中時計を持ち上げた。

 耳に近づけた。

 カチカチ、という音が、耳に届いた。

 動いている。

 ちゃんと、動いている。

 時枝は懐中時計を、しばらく耳の近くで持っていた。

 その音を聞いていた。


 五十年前に、時枝が直して、ふさに渡した時計が、今日また動き始めた。

 三十年止まっていたものが、今日また動き始めた。

 時枝の目が、熱くなった。

 老女のところへ持っていった。

「直りました」と時枝は言った。

 老女は懐中時計を受け取った。

 両手で包んだ。

 耳に近づけた。

 目を閉じた。

 カチカチという音が聞こえているのか、老女の顔が、少しずつほぐれていった。

 眉が、下がった。

 口の端が、少し上がった。

 目が、細くなった。

 時枝はその顔を見た。

 ふさが笑った時の顔が、重なった。

「ありがとう」と老女は言った。

「こちらこそ」と時枝は言った。

 声が、また震えた。

 老女が帰った。


 引き戸が閉まって、鈴が鳴った。

 工房に、時計の音だけが残った。

 時枝は窓際の椅子に戻った。

 白湯の湯呑みを、両手で包んだ。

 時計塔の方を向いた。

 空が、橙色になっていた。

 夕暮れだった。

 今日も、夕暮れが来た。


 時枝は白湯を一口飲んだ。

 温かかった。

 老女が言った言葉が、頭の中にあった。

「また会えましたね」

 また会えた。

 どこかで会っていたのか、時枝にはわからなかった。

 この生では、会っていない。

 でも老女は「また会えた」と言った。

 ふさが、どこかで生まれ変わって、また会いに来た。

 そういうことが、あるのかもしれない、と時枝は思った。


 その夜、時枝は自分のことを考えた。

 八十一年、生きてきた。

 子どもの頃から、この街にいた。

 修理を学んで、工房を開いて、ふさと一緒に五十年以上いた。

 ふさが逝って、一人になって、それでもここにいた。

 なぜここにいたのか。

 仕事があったから、という答えは、正確ではなかった。

 別の場所に行くことも、できたはずだった。

 でもここにいた。

 この街に、この工房に、ずっといた。


 時枝は棚を見た。

 壊れた時計が並んでいた。

 壊れたオルゴール、古いラジオ、蓄音機の部品。

 みんな、誰かが持ってきたものだった。

 誰かが、大切にしていたものだった。

 壊れても、捨てられなかったものだった。

 時枝はそれを受け取って、直してきた。

 直して、返してきた。


 夢を、見た。

 眠ったのか、まだ起きているのか、わからなかった。

 でも夢を見た。

 光の中だった。

 白くて、温かくて、輪郭のない場所だった。

 時枝はそこにいた。

 周りに、誰かがいた。

 一人ではなかった。

 たくさんの誰かが、いた。

 顔は見えなかった。

 でも気配があった。

 温かい気配が、たくさんあった。


 その気配を、時枝は知っていた。

 知っていた、というのが正確かどうか、わからない。

 でも、懐かしかった。

 懐かしい気配だった。

 一人一人の気配を、時枝はたどった。


 雨の夜のバス停で、黒猫と泣いていた女の人。

 古いオルゴールを持ってきた青年。

 レモンドロップの缶を、大切に持っていた子ども。

 山小屋で口笛を吹いていた老人。

 ゲーム機を抱えていた高校生。

 病棟の廊下で泣いていた看護師。

 銀色のボールペンを持っていた中堅社員。

 古書店で詩集を見つけた元教師。

 公園のベンチで子犬を抱いていた青年。

 海辺でピアノを弾いていた青年。

 定食屋で豚汁を飲んだ頑固な老人。

 踏切の前で立ち止まった女性。

 認知症の母と縁側にいた娘。

 屋上でスケッチブックを開いた女子高生。

 タクシーの中で泣いた老人。

 夏祭りで金魚をすくった少女。

 路地裏のパン屋でラスクを食べた女性。

 キャンプ場で弟の名前を呼んだ男。

 電話ボックスで崩れ落ちた教師。

 生まれたばかりの娘の小指を握った父親。

 みんな、いた。

 光の中に、みんないた。


 時枝は光の中に立っていた。

 みんなが、時枝を向いていた。

 顔は見えなかった。

 でも向いていることが、わかった。

 こちらを向いている気配が、確かにあった。


 時枝は何かを言おうとした。

 言葉が、出なかった。

 出る前に、誰かの気配が近づいてきた。

 一つの気配が、光の中を動いてきた。

 時枝の前に来た。

 誰なのか、見えなかった。

 でも時枝には、わかった。

 ふさだった。


 老女の姿でも、若い頃の姿でも、どちらでもなかった。

 ただ、ふさの気配だった。

「来たよ」とふさの気配が言った。

 声ではなかった。

 意味が来た。

 来た、という意味が。

 時枝は答えようとした。

 答える前に、光が、少し大きくなった気がした。

 その光の中で、時枝は気づいた。

 ここはどこだ、と思った。

 思って、わかった。


 ここは、時間が始まる前の場所だった。

 時間が始まる前の、魂が集まっている場所だった。

 時枝はここを知っていた。

 ここを、知っていた。

 ここから来た。

 ここから、この街に来た。

 五十年前ではなく、もっと前に。

 ずっとずっと前に。

 この街の時計塔のそばに、工房を開いて、壊れた時間の記憶を直す役目を持って、ここから来た。

 なぜそれを知っているのか、わからなかった。

 でも知っていた。

 体が覚えていた。


 橋渡しをしていたのは、時枝だった。

 工房に来た人たちの背後で、何かが起きていた時。

 時枝がそこにいた。

 雨の夜のバス停で、傘を置いていった。

 古書店の少年が、本を渡す時に隣にいた。

 踏切の路地で、工房の明かりをつけていた。

 電話ボックスの角で、明かりを灯していた。

 直接何かをしたわけではなかった。

 でも時枝がそこにいた時に、奇跡が起きた。

 偶然かもしれなかった。

 でも偶然ではなかった。


 時枝はこの街で、橋渡し人として生きてきた。

 本人も知らなかった。

 でも、そうだった。

 それが今、光の中でわかった。

 光が、もう少し大きくなった。

 みんなの気配が、温かくなった。


 時枝は光の中に立っていた。

 言葉を探した。

 でも言葉は要らない気がした。

 ここでは、言葉よりも何かが正確だった。

 時枝は光の中に向かって、思った。

 ありがとう、と思った。

 みんなに向かって、思った。

 来てくれた人たちに。

 壊れたものを持ってきた人たちに。

 奇跡を受け取った人たちに。

 泣いた人たちに。

 笑えた人たちに。

 前に進んだ人たちに。

 全員に向かって、ありがとう、と思った。


 すると。

 光の中から、気配たちが動いた。

 みんなが、時枝の方へ近づいてきた。

 顔は見えなかった。

 でも近づいてきた。

 一人一人が、時枝の近くに来た。

 何かを言っている気配があった。

 言葉ではなかった。

 意味が来た。

 ありがとう、という意味が。


 時枝に向かって、ありがとう、という意味が来た。

 一人から来た。

 また一人から来た。

 また一人から。

 次々に来た。

 全員から来た。


 時枝は動けなかった。

 動く必要がなかった。

 ただ、受け取っていた。

 光の中で、ありがとう、を受け取っていた。


 ふさの気配が、また近くに来た。

「帰りましょう」とふさの気配が言った。

 帰る。

 どこへ。

 でも時枝には、わかった。

 ここが、帰るべき場所だった。

 ここへ帰る。

 またここから始まる。

 また誰かとして生まれて、また誰かと出会って、また誰かの橋渡しをして。

 あるいは、違う役目を持って。

 でも確かに、また来る。


 魂は、巡る。

 それが時枝の、この長い時間をかけて、ようやく体で知ったことだった。

 時枝は光の中で、笑った。

 声を出した笑いではなかった。

 でも笑った。

 八十一年分の、静かな笑いだった。


 光が、さらに大きくなった。

 みんなの気配が、温かくなった。

 時計塔の鐘が、どこかで鳴り始めた。

 光の中にいるのに、鐘の音が聞こえた。

 この街の時計塔の、あの音が。

 毎日聞いてきた、あの音が。

 時枝はその音を聞きながら、光の中を歩き始めた。


 ふさの気配が、隣にいた。

 みんなの気配が、周りにいた。

 時枝は一歩、踏み出した。

 光の中へ。

 次の時間へ。

 また巡る場所へ。


 翌朝、時枝修理工房の引き戸に、小さな札がかかっていた。

「しばらくお休みします」

 墨で書かれていた。

 いつ書かれたのか、誰も知らなかった。

 工房の中は、静かだった。

 棚に並んだ時計たちが、それぞれのリズムで音を立てていた。

 揃うことはなかった。

 でも全部が、動いていた。


 窓際の椅子に、白湯の入った湯呑みが一つ、置かれていた。

 湯気は、もう出ていなかった。

 でも置かれていた。

 誰かが、ここにいた証拠のように、置かれていた。


 時計塔の鐘が、鳴った。

 朝の八時を告げる鐘だった。

 いつもより、少しだけ、きれいな音がした気がした。

 聞いた人の中に、そう感じた人が、何人かいた。

 理由はわからなかった。

 でも確かに、今朝の鐘は、少しだけ違って聞こえた。

 鐘の音は、街に広がって、海の方へ向かって、どこまでも続いていった。


 海辺の街に、春が来た。

 加奈は黒猫の麦と一緒に、窓から海を見た。

 誠は台所でオルゴールを鳴らしながら、朝ごはんを作っていた。

 田中は白衣のポケットに二つの缶を入れて、病棟の廊下を歩いた。

 義雄は山小屋の窓から庭を見て、シマエナガを待った。

 健人は友人の家でゲームをしながら、右から弾を迂回させた。

   三田は花を手に持って、こうたの写真の前に立った。

 木下は銀色のボールペンを、机の上に置いて仕事を始めた。

 宮下は詩集を持って、公園のベンチに座った。

 俊は実家に帰る電車の中で、夕焼け小焼けを口ずさんだ。

 蓮は砂浜のピアノの前に座って、最初の一音を弾いた。

 正二はあの定食屋の暖簾をくぐった。

 由佳は上司に「少し相談があります」と言った。

 千鶴は白百合に水をやりながら、母の横顔を見た。

 彩は絵の具を、左から右へ、暖色から冷色へ並べた。

 博は台所でラジオをつけて、お茶を飲んだ。

 真奈は水槽のゆうじいちゃんに餌をやった。

 梢はキッチンでパンの耳を揚げながら、鼻歌を歌った。

 剛はキャンプ道具を車に積みながら「また来る」と言った。

 清はスーパーで食材を買って、ちゃんと料理した。

 大輔は陽菜を抱きながら、小指を差し出した。

 陽菜は笑った。


 みんな、続いていた。

 奇跡の後も、続いていた。

 続いていることが、奇跡だった。

 魂は巡る。

 形を変えて、時を越えて、何度でも巡る。

 会いたい人に、また会える。

 ただし、向こうはもう覚えていない。

 こちらだけが、感じる。

 感じることが、証明だ。

 証明できないことが、本当のことだ。

 時枝は知っていた。

 五十年かけて、知っていた。

 そして今、光の中へ帰っていった。

 次に巡る時、どんな形で来るのか、わからない。

 でも来る。

 また、この街に来るかもしれない。

 別の街に来るかもしれない。

 どこかで、誰かの橋渡しをするかもしれない。

 あるいは、ただ、誰かの隣にいるだけかもしれない。

 どちらでも、いい。

 魂は巡る。

 それだけが、確かなことだった。


 時計塔の鐘が、また鳴った。

 今度は、正午を告げる鐘だった。

 十二回、鳴った。

 街に広がって、海に向かって、空へ向かって、どこまでも続いた。

 工房の中の時計たちが、それぞれのリズムで、音を立て続けていた。

 白湯の湯呑みが、窓際の椅子の上に、置かれていた。

 春の光が、工房の窓から差し込んでいた。

 光の中に、埃がきらきらと舞っていた。

 きれいだった。

 ただ、きれいだった。


 窓の外、海が光っていた。

 波が来て、返して、また来た。

 止まらなかった。

 何があっても、止まらなかった。

 それだけのことが、この街では充分だった。


 完

 この物語を最後まで読んでくださった方へ。

 あなたの人生の中にも、きっと、ふとした瞬間があったはずです。

 知らない誰かの仕草が、忘れられない誰かと重なった瞬間。

 理由もわからないのに、胸が詰まった瞬間。

「また会えた」と感じた、あの瞬間。

 それは、奇跡かもしれません。

 あるいは、ただの偶然かもしれません。

 どちらでも、いいのだと思います。

 感じたことが、本当のことです。


 会いたい人のことを、思い出してください。

 その人も、きっとどこかで、あなたのことを感じています。

 魂は巡る。

 また、必ず会える。

 そう信じることが、前に進む力になるのだと、この物語を通じて、私は信じています。

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